第12話 凍らない影
春、rico、遊祈の3人は都市アイスジャベリンを探索する。街での聞き込みによると謎の女の気配が。3人は真相を確かめるべく氷山へ進む。
氷山の北側へ回ると、街の音はほとんど聞こえなくなった。
建物の間を歩いていた頃には、まだ住民の話し声や荷車の軋む音があった。だが、氷山へ近づくにつれて、それらも冷たい風に削り取られていく。
残ったのは、三人が氷を踏む音だけだった。
「この辺りで目撃されたんですよね」
春は外套の襟元を押さえながら、前方を見渡した。
街で聞いた話によれば、奇妙な人影が現れるのは氷山の北側。
採氷を生業とする者でさえ、滅多に近づかない場所だという。
吹雪いてはいない。
それでも氷山から滑り落ちてくる風は鋭く、厚い衣服の隙間を探して容赦なく入り込んでくる。
遊祈は首元の布を鼻先まで引き上げた。
「この寒さの中で、防寒具も着ずに座ってたんだよね」
「伝聞情報。要確認」
先頭を歩くricoが短く答える。
彼女は時折足を止め、凍りついた地面や氷壁へ目を向けていた。
雪の上に足跡はない。
残っていたとしても、絶えず吹きつける風が消してしまうのだろう。
ただ、自然にできたとは思えない傷が、氷壁のところどころに残されていた。
道具で削ったにしては形が歪んでいる。
何かが、氷を大きく齧り取ったようにも見えた。
ricoは傷の一つへ手を触れる。
「人為痕跡」
「誰かが氷を掘っているということでしょうか?」
春が尋ねる。
「断定不能」
ricoは氷壁から手を離し、再び先へ進んだ。
「もう少し奥まで行きましょうか」
春が言った、その時だった。
ricoが片腕を2人の道を阻むように静かに突き出す。
「静止」
春と遊祈が足を止めた。
ricoの視線は、少し先にある氷壁の根元へ向けられている。
氷が大きく抉れ、人一人が入れそうな窪みを作っていた。
その暗がりに、何かがいる。
初めは、黒い布が雪へ埋もれているように見えた。
しかし、近づくにつれて、それが人の形をしていることが分かる。
誰かが氷壁へ背を預け、座り込んでいた。
膝を立て、その上へ腕を投げ出している。俯いた頭や肩には雪が積もり、長い間そこから動いていないことを物語っていた。
防寒具らしいものは見当たらない。
「人……ですよね?」
春が小声で尋ねる。
ricoは相手の姿をしばらく観察した。
「生存確認」
「生きているんですか?」
「脈拍あり。体温、正常」
遊祈が眉を寄せた。
「正常?」
三人は厚い外套を着ていても、すでに指先の感覚が鈍くなり始めている。
それなのに、目の前の人物は雪の上へ直接座りながら、体温を失っていない。
寒さに震えている様子すらなかった。
ricoが間違えるとも思えない。
春は警戒しながらも、一歩前へ出た。
「聞こえますか?」
反応はない。
「街の方から、こちらに人がいると伺いました。具合が悪いのでしたら、私たちが――」
「……わるイ」
掠れた声が、風の中へ混じった。
春は足を止めた。
人の声には違いない。
しかし、一つ一つの音の間に、薄い羽が震えるような雑音が絡んでいる。
「意識があるんですね。どこか痛むところはありますか?」
「悪いィ……とコロ……」
座り込んでいた人物の指が、ゆっくりと動く。
「まダ……白イ……」
「白い?」
「足り、ナイ……増やサないトッ……」
人物が、ゆっくりと顔を上げた。
片方の目だけが、三人へ向けられる。
けれど、見ているのは春たちではない。
その向こうにいる、別の誰かを探しているような目だった。
「全部……同じニ……すレば……治ル……」
春は返す言葉を失った。
怪我をしているようには見えない。
それどころか、目の前の人物は自分自身について話しているのかさえ分からなかった。
「誰を治そうとしているんですか?」
春の問いに、人物の唇が僅かに動く。
「今度ハ……最後マデ……」
遊祈が相手を見つめた。
心を読もうとしているのだろう。
だが、すぐにその表情が強張った。
増やさなければ。
足りない。足りない。足りない。足りない。足りない。足りない。足りない。
白い。白い。白い。
痛い。痛い。痛い。痛い。痛い。痛い
全部。全部。全部。全部。全部。全部。全部。
黒が。黒が。黒が。黒が。
今度こそ。今度こそ。今度こそ。今度こそ。今度こそ。今度こそ。
石。石。石。石。石。賢者の石。
見たな。見た。見たな。見たな。見たな。見たな。見たな。見るな。見るな。見るな。見るな。見るな。見るな。
いくつもの思考が同時に流れ込み、形になる前に千切れていく。
人の心というより、羽虫の群れが頭の中を飛び回っているようだった。
遊祈は思わずこめかみへ手を当てた。
「遊祈くん?」
春が振り返る。
「大丈夫。この人の中……声が多すぎるだけ」
「何か分かりましたか?」
「石を探してる。たぶん、この氷山の中で」
それ以上のことを読み取ろうとした、その瞬間。
人物の首が、不自然な速さで遊祈へ向いた。
「……見ルな」
先ほどまでの途切れた声とは違う。
その一言だけは、はっきりしていた。
遊祈が息を呑む。
「ごめん。驚かせるつもりは――」
「入ル、な」
人物が立ち上がった。
何の前触れもなかった。
氷の上に座っていた身体が、次の瞬間には遊祈の目の前へ迫っている。
遊祈は反射的に槍を呼び出し、横向きに構えた。
人物の腕が、槍の柄へ激突する。
重い衝撃が両腕を走り、遊祈の足が氷の上を滑った。
「っ……!」
受け止めたはずだった。
だが、人物の肘があり得ない方向へ折れ曲がる。
槍の柄へ腕を絡ませ、そのまま指先を遊祈の喉へ伸ばしてきた。
小さな影が、二人の間へ滑り込む。
ricoだった。
氷すれすれまで身体を沈め、人物の軸足へ鋭い蹴りを叩き込む。
骨を打つ硬い音が響く。
足首が外側へ折れ曲がった。
普通なら、それだけで立っていられるはずがない。
しかし、人物は倒れなかった。
折れた足首の周囲が、内側から押し上げられるように膨らみ始める。
皮膚の下で肉が蠢き、潰れた骨を包み込むように増えていく。
やがて、太く歪んでいた足首が元の形へ戻った。
わずか数秒の出来事だった。
「異常増殖」
ricoが小さく呟く。
人物の空いた腕が振り下ろされた。
ricoは両腕を交差させ、正面から受ける。
小さな身体が宙へ浮いた。
「反転!」
春の声が響く。
ricoを吹き飛ばしていた力の向きが、途中で裏返った。
遠ざかるはずだった身体が空中で止まり、今度は人物の方へ押し戻される。
ricoは身を丸め、戻る勢いをそのまま利用した。
膝が人物の顎を捉える。
鈍い衝撃音と共に人物の上体が仰け反った。
「好機到来」
着地したricoが懐へ潜り込む。
脇腹へ拳。膝の裏へ踵。
身体が傾いたところへ、胸元へ掌底を打ち込んだ。
人物が氷壁へ叩きつけられる。
背後の氷に、蜘蛛の巣のような亀裂が走った。
「もうやめてください!」
春は呼びかけた。
「私たちは、あなたを傷つけたいわけではありません!」
人物は答えない。
口の端から流れた血を、指先で拭う。
打ちつけた背中や脇腹が、不自然に盛り上がった。
傷ついた場所を埋めるように、新しい肉が次々と生まれていく。
必要な量を超えて膨らんだ肉は、しばらく蠢いたあと、身体の内側へ押し込まれるように形を整えた。
人物は治った身体を確かめるように、腕を回した。
痛みに苦しむ様子はない。
むしろ、傷が塞がる様子を満足そうに眺めている。
「増えタ……」
その視線が、春へ向いた。
「ちゃンと……戻ル……」
春の背筋を冷たいものが走った。
目の前の人物が口にしているのは、怪我を治す方法ではない。
足りない部分を増やし、無理やり穴を埋めているだけだ。
「あなたは一体……」
「まダ……白い……」
人物は春の言葉を遮った。
その目は、春の身体そのものではなく、別の何かを重ねて見ている。
「白いとコロがァア……残ルから……痛イ……」
「何を言っているんですか?」
「全部……同じニスル」
人物が氷を蹴った。
春は反射的に両手を前へ向ける。
「反転!」
春へ向かっていた勢いが、逆方向へ裏返る。
だが、人物はその直前に片手を氷へ突き立て、身体を強引に横へ振った。
進む方向を、自ら変えたのだ。
反転した力を横へ逃がし、地面すれすれを滑るように春へ迫る。
「春!」
遊祈が槍を突き出した。
穂先が人物の肩口を掠める。
肉が裂け、血が雪の上へ飛び散った。
それでも止まらない。
人物は槍の柄を片手で掴み、強引に横へ引いた。
遊祈の身体が引き寄せられる。
「離して!」
遊祈は槍を捻り、石突を人物の脇腹へ叩き込む。
相手の手が緩んだ隙に距離を取った。
しかし、槍で裂いたはずの肩口は、すでに塞がり始めていた。
傷口の縁が泡立つように膨らむ。
新しい肉が次々と生まれ、裂けた部分を内側から押し広げながら埋めていく。
血が止まる。皮膚が繋がる。
服に残った裂け目だけが、そこに傷があったことを示していた。
「速すぎる……」
遊祈が槍を握り直す。
人物はすでに、春へ向き直っていた。
「増やス……」
その指先が開かれる。
「足りなィなら……増やせばイィ……」
遊祈の槍も、春の能力も間に合わない。
人物の手が、春の胸元へ迫る。
春には避けられなかった。
次の瞬間。
ricoが春を横から突き飛ばした。
「ricoちゃん!」
春の代わりに、人物の腕がricoの胴を捉える。
小さな身体が氷の上から浮き上がった。
そのまま勢いよく、氷壁へ叩きつけられる。
轟音。
壁に広がっていた亀裂が、一気に深くなった。
ricoは力なく氷の上へ落ちた。
「……っ」
普段ほとんど声を漏らさない彼女の口から、微かな息が零れる。
片腕が不自然に垂れ下がり、脇腹を覆う服が少しずつ赤く染まり始めた。
「rico!」
遊祈が槍を構え、人物と春たちの間へ入る。
春は倒れたricoへ駆け寄った。
「ricoちゃん、聞こえますか!」
ricoはゆっくりと目を開ける。
「損傷……甚大」
「喋らなくていいです」
「戦闘続行……困難」
それでも、動く方の腕を氷へつき、身体を起こそうとする。
春はその肩を抱き、止めた。
「もう動かないでください!」
人物は二人をじっと見つめていた。
先ほどまで春へ向けられていた視線が、今度はricoへ移る。
「壊レタ……」
その声に、動揺はなかった。
指先が、微かに震えている。
心配しているのではない。
新しい実験材料を見つけたような、期待に近い震えだった。
「足りナィ……」
一歩、近づく。
「壊れたとコロ……増やシて……埋めル……」
「近づくな!」
遊祈が槍の穂先を向けた。
人物は槍を見ようともしない。
視線はricoの垂れ下がった腕と、赤く染まった脇腹へ釘づけになっていた。
「マダ白イ……」
「何をするつもり?」
「全部……同じニする」
「それ以上来たら、本気で突くよ」
遊祈の警告にも、人物は足を止めなかった。
「途中で、止めなければ……今度は……治る……」
その声には、敵意も憐れみもない。
だが傷ついたricoを助けたいという訳でもない。
目の前にある壊れた身体を使って、自分の治療が正しいことを確かめようとしている。
遊祈は槍を握る手に力を込めた。
「それは治療なんかじゃない」
人物の喉から、羽虫の群れがざわめくような音が漏れた。
「治ルッ……」
「治らない」
「増ヤせば……治ル……」
「ricoは、お前の実験道具じゃない」
「邪魔……するナ……!」
人物の身体が深く沈む。
遊祈も槍を引き、迎え撃つ姿勢を取った。
春はricoを抱いたまま、もう一度能力を使えるように片手を上げる。
その時だった。
バリッ。
硬いものを噛み砕く音が、凍った空気の中へ響いた。
人物の動きが止まる。
三人は、音のした方へ目を向けた。
氷壁の上に、一人の少女が座っていた。
少女の衣服には、細かな氷の欠片が大量に付着している。
その手には、氷山から剥がしたらしい青い氷の塊が握られていた。
少女はそれを、菓子のように齧る。
ばり、ぼり。
硬い氷が、小さな口の中で砕けていく。
「氷を……食べているの?」
春が思わず呟いた。
少女は春たちを一瞥しただけで、再び氷へ齧りつく。
残った欠片を口の中へ放り込み、何度か噛んで飲み込んだ。
「冷たい」
当然の感想だけを口にすると、少女は氷壁から飛び降りた。
着地した足元に、細い亀裂が走る。
少女は傷ついたricoでも、槍を構える遊祈でもなく、血のついた人物だけを見た。
「まぁた勝手にいなくなった」
人物の喉から、かすかな羽音が漏れる。
「ァ゛ァ…、治ス……まだ……」
視線はricoから離れない。
少女は首を傾けた。
「その子、嫌がってるよ」
「でも……壊れてル……」
「帰るよ」
「最後マデ……やればァ……治ル……」
「帰る」
少女の声に、怒りも焦りもなかった。
何度も同じやり取りを繰り返してきたような、慣れた口調だった。
それでも人物は動かない。
傷ついたricoへ、もう一度手を伸ばそうとする。
少女は、手に残っていた氷を噛み砕いた。
「探してた石」
その言葉に、人物の指が止まる。
少女は、自分が現れた氷壁の奥を指さした。
「赤い光、少し見えた。まだ奥だけど」
人物の顔が、ゆっくりと少女へ向く。
「石ィ……」
初めて、その目がricoから離れた。
「たぶん。すごく硬い。あんまりおいしくない」
少女は僅かに頬を膨らませた。
そして、今度ははっきりと名前を呼ぶ。
「Hz」
虫の羽音が、ぴたりと止んだ。
人物――Hzの指から力が抜ける。
Hzは少女が指した氷壁の奥を見つめた。
それから一度だけ、春の腕に抱かれたricoを振り返る。
「石が……あレば……」
声が細く震える。
「今度ハ……最後まデ、……」
少女が来た方角へ歩き出す。
Hzも、その後を追った。
数歩進んだところで、もう一度だけricoへ顔を向ける。
「次ハ……全部、同じニ」
最後にそう残し、二人の姿は氷壁の向こうへ消えていった。
遊祈はしばらく槍を構えたまま、二人の消えた先を見つめていた。
追うべきか。
あの二人が探している石が何なのか、確かめる必要もある。
だが、背後には傷ついたricoがいる。
答えを出すまでもなかった。
遊祈は槍を消し、春のそばへ駆け寄った。
「rico、聞こえる?」
ricoは春の腕の中で、僅かに目を開けた。
「目標……離脱」
「そんなこと、今はどうでもいい」
春は震える手で通信結晶を取り出した。
寒さのせいではない。
結晶を強く握り、蟻ノ巣へ呼びかける。
「こちら春です。ricoちゃんが負傷しました。緊急帰還をお願いします」
短い雑音のあと、すぐにNo.Aの声が返ってきた。
『承知しました。通信結晶から現在地を捕捉。帰還経路を接続します』
「お願いします。できるだけ早く……!」
春はricoの身体を抱き寄せた。
ricoはしばらく春を見上げていた。
「任務……失敗?」
「違います」
春は即座に否定した。
「全員で帰るまでが任務です」
その言葉を聞き、ricoの身体から僅かに力が抜けた。
「……任務続行」
凍りついた空間に、細い光の亀裂が走る。
光は縦へ伸び、少しずつ左右へ開いていった。
その向こうに、蟻ノ巣の薄暗い通路が現れる。
春はricoを抱きしめたまま、開かれた帰還路を見つめた。
今は、あの二人を追うことも。
氷山の奥にある石を確かめることもできない。
けれど、春の耳にはいつまでも、Hzが残した言葉がこびりついていた。
――全部、同じに。
それが何を意味するのか。
誰にも分からなかった。




