第11話 氷の街へ
食事の終わった食堂には、まだ煮込み料理の匂いが残っていた。
つい先ほどまで皿の並んでいた大机には、代わりにアルバカナンの地図が広げられている。
蟻ノ巣には、きちんとした会議室がない。
必要な時に集まれる場所があれば十分だと、これまで誰も困っていなかった。もっとも、食事のたびに地図や書類を片づけなければならないのは、少し面倒だったが。
朔は地図の北側へ指を置いた。
「春とricoには、ここへ行ってもらいたい」
指先にあるのは、一本の鋭い氷柱を模した都市の印。
第四都市、アイスジャベリン。
街の中央には、決して溶けることがないと謂われる巨大な氷山がそびえている。
そこから絶えず流れ出す冷気によって、街は一年を通して寒さに覆われていた。
吹雪く日は多くない。
だが、外から訪れた者にとっては、ただ風が頬を撫でるだけでも、刃物を押し当てられたように痛むという。
そんな土地でも、現地の住民は平然と暮らしている。
寒さより厄介なのは、外から訪れる者がほとんどいないことだった。
「アイスジャベリンで、最近何か変わったことが起きてないか調べてきてほしい」
朔の向かいで、春が地図を覗き込む。
「変わったこと、というのは?」
「軍服を着た見慣れない奴。知らない子ども。物が消えたとか、普段と違うダストを見たとか。小さなことでもいい」
トルルカーンの旧炭鉱で出会ったメリー。
ラムカラムで薬が遭遇した、深緑の軍服を着た少年。
二人が繋がっている証拠はない。
同じ頃に別々の都市で、妙な人間が目撃されただけだ。
それだけで一つの答えに飛びつけば、見えるはずのものまで見落とす。
だが、偶然だと片づけるのも早い。
「ほかの都市にも似た奴が現れてるなら、何か分かるかもしれない」
「なるほど。現地の方にお話を伺えばいいんですね」
春は穏やかに頷いた。
人当たりの柔らかい春なら、相手を警戒させずに話を聞ける。
アイスジャベリンの住民は外部の人間に慣れていない。屈強な戦闘員を送り込むより、春の方がずっと向いているはずだ。
その隣では、ricoが椅子に座ったまま地図を見下ろしていた。
深く被った帽子の下から覗く表情は、いつもと変わらない。
何を考えているのか分かりにくいが、話を聞いていないわけではない。
「ricoには、街の様子を見てほしい。建物や道に壊された跡がないか、変なダストが残ってないか。春が話を聞いてる間に、周りを調べて」
ricoは氷山の印を指先で一度だけなぞった。
「明察秋毫」
「……つまり?」
「仔細、見逃さない」
どうやら任せておけ、という意味らしい。
朔が頷くと、春が小さく笑った。
「頼もしいですね」
「当然至極」
ricoはそれだけ答え、地図から手を離した。
頼もしいのは確かだ。
ただし、現地へ着く前に別の問題がある。
「二人とも、防寒着はちゃんと用意してね」
「はい。厚手のものを持っていきます」
春は自分の袖を摘まみながら答えた。
一方、ricoは無言で椅子から降りると、食堂の隅へ歩いていった。
そこには、いつの間に運び込んだのか、大きな荷物が二つ並べられている。
毛皮の外套。手袋。耳当て。厚手の靴。
そのほかにも、用途の分からない道具がぎっしり詰め込まれていた。
朔は荷物とricoを交互に見る。
「……いつ用意したの?」
「用意周到」
答えになっているようで、なっていない。
春は慣れた様子で荷物の中身を確認している。
「私の分まで用意してくれたんですね。ありがとう、ricoちゃん」
ricoは返事をせず、帽子のつばを少しだけ持ち上げた。
ほんのわずかに得意そうに見えたのは、気のせいかもしれない。
朔は机の端に置いていた通信結晶を手に取った。
「向こうに着いたら、まず連絡して。それから聞き込みを始めて――」
「聞き込みなら、僕もついていくよ」
食堂の扉が開き、遊祈が顔を覗かせた。
唐突な申し出に、朔は通信結晶を持ったまま瞬きをする。
「遊祈も?」
「うん」
遊祈は部屋へ入ると、春とricoの隣まで歩いてきた。
「僕なら心を読める能力があるから、聞き込みも早いと思う。何か知ってるのに言い出せない人がいても、気づけるかもしれないし」
口調はいつも通り静かだったが、申し出そのものは好意的だった。
自分の能力が役に立つなら使いたい。
ただ、それだけのように見える。
春が嬉しそうに微笑んだ。
「遊祈くんも来てくれるなら、助かります」
ricoも遊祈を見上げる。
「適材適所」
短い一言に、遊祈は首を傾げた。
「賛成ってことでいいのかな」
「然り」
三人の役割を考えれば、組み合わせは悪くない。
春が話しかけ、遊祈が言葉の裏を読み、ricoが周囲を観察する。
調査だけなら、むしろ朔が考えていた二人より動きやすいかもしれない。
「分かった。遊祈も一緒に行って」
「ありがとう」
遊祈は素直に頷いた。
「ただし、心を読むのは今回の調査に関係することだけね」
「もちろん。誰だって、知られたくないことくらいあるから」
その返事に、朔は頷いた。
遊祈は人の心を読める。
便利な力ではあるが、使い方を間違えれば、刃物より簡単に相手を傷つける。
けれど、それを一番理解しているのは遊祈自身だろう。
朔は通信結晶を春へ手渡した。
「何か見つけても、三人だけで追いかけないこと。危ないと思ったら、調査を途中で切り上げてもいい」
「は〜い」
「わかったよ。」
「心得た」
三者三様の返事が返ってくる。
朔は改めて、地図に描かれた第四都市へ目を落とした。
外から来る者を拒むように、冷気に閉ざされた街。
そんな場所だからこそ、見慣れない誰かが現れれば、きっと誰かが覚えている。
何も起きていなければ、それでいい。
けれど、もしも。
トルルカーンとラムカラムで見つかった小さな違和感が、すでに別の都市へも伸びているのなら。
今度こそ、その足跡を見落とすわけにはいかなかった。
ーーーーー
春たちは防寒具を身につけ、蟻ノ巣の出入口の一つへ向かった。
蟻ノ巣に設けられた扉の位置は、ある程度決まっている。けれど、その先にある場所まで固定されているわけではない。
座標を指定すれば、扉の向こう側を離れた土地へ一時的に繋ぐことができる。
今回は、第四都市アイスジャベリンの外壁から少し離れた、人目につきにくい街道脇が出口に選ばれていた。
「接続、完了」
扉の前に立ったricoが、短く告げる。
閉ざされていた扉が開く。
その向こうには蟻ノ巣の通路ではなく、白く凍りついた大地が広がっていた。
春が恐る恐る境目を越える。遊祈とricoも、そのあとに続いた。
三人が蟻ノ巣の出口を抜けた途端、冷たい風が頬を叩いた。
「さ、寒いですね……」
春は毛皮の外套の襟を両手で寄せた。
第四都市へは、まだ足を踏み入れてすらいない。遠くに外壁が見えているだけなのに、風が吹くたび、露出した頬へ細い針を押し込まれるような痛みが走る。
遊祈も首元の布を、鼻先まで引き上げた。
「吹雪いてないのに、これなんだ」
「寒気凛冽」
ricoは毛皮の中から短く告げた。
全身を分厚い防寒具に包まれた姿は、普段よりさらに小さく見える。
「ricoちゃんは寒くありませんか?」
「問題皆無」
「よかったです」
春が安心したように微笑んだ。
三人の正面には、第四都市アイスジャベリンが広がっていた。
石造りの外壁と、その向こうに密集する低い建物。
さらに街の中央には、空へ突き刺さるような巨大な氷山がそびえている。
白というより、幾重もの青を内側へ閉じ込めた色をしていた。薄曇りの空から差す光を受け、氷山の表面が静かに輝いている。
「あれが、溶けない氷山……」
春は歩みを止め、感嘆の息を漏らした。
吐き出された白い息は、すぐに冷たい風へ攫われていく。
「本当に街の真ん中にあるんだね」
遊祈が氷山を見上げる。
その横で、ricoだけは何も言わなかった。
帽子の下から覗く視線が、氷山の頂から麓へとゆっくり下りていく。
「ricoちゃん?」
春が呼ぶと、ricoは一拍遅れて顔を向けた。
「異常なし」
「何か見つけたのかと思いました」
「現状、皆無」
その言葉を聞き、三人は再び歩き始めた。
門の前に立つ兵士は、近づいてくる三人を見るなり、珍しいものを見たように目を見開いた。
「旅人か?」
「調べ物があって参りました」
春が穏やかに答える。
兵士は春の後ろにいる遊祈とricoを順に見た。
怪しんでいるというより、どうしてわざわざこの街へ来たのか理解できないようだった。
「長く滞在するつもりか?」
「いえ。今日中には戻る予定です」
「そうか。なら、日が傾く前には街を出た方がいい」
兵士は氷山へ目を向けた。
「夜になると、今より冷える」
「今よりもですか……」
春の声がわずかに震える。
「住んでりゃ慣れる。外の奴には無理だろうがな」
門を通された三人は、街の中へ足を踏み入れた。
冷たい風が石造りの建物の間を抜けていく。
それでも住民たちは、ほかの街と変わらない様子で生活していた。
厚手の衣服こそ身につけているが、顔を布で覆っている者は少ない。道端で荷物を運ぶ男など、手袋もせずに縄を引いている。
遊祈が、自分の手袋へ目を落とした。
「見てるだけで指が痛くなりそう」
「土地順応」
ricoが短く答えた。
「ricoも、ここで暮らせば平気になるかな」
「検証不能」
「する必要もないですからね」
春が苦笑した。
三人が通りを歩くたび、住民たちの視線が集まる。
外部から来る人間が珍しいという話は本当らしい。
この様子なら、見慣れない者が街を歩けば、誰かが覚えているはずだ。
春は、湯気の立つ飲み物を売る露店の前で足を止めた。
「すみません。三ついただけますか?」
「あいよ」
店番をしていた年配の女性が、木製のカップへ飲み物を注ぐ。
甘い香草と乳の匂いが立ち上り、冷えた鼻先をくすぐった。
春は代金を渡しながら、柔らかく微笑む。
「少し、お話を伺ってもよろしいですか?」
「話?」
「最近、この街で変わったことはありませんでしたか? 見慣れない方がいらしたり、普段とは違うダストが現れたり」
女性は二つ目のカップを差し出しながら、首を捻った。
「見慣れない奴なら、あんたたちが久しぶりだよ」
嘘をついている様子はない。
遊祈も何も言わず、温かいカップを受け取った。
「小さなことでも構いません」
春は急かさずに続ける。
「街の中で、何か困っていることはありませんか?」
「困ってることねぇ……」
女性は腕を組み、氷山を見上げた。
しばらく考えたあと、思い出したように眉を上げる。
「そういや、最近あの辺りに変な奴がいるって話は聞いたね」
「あの辺り?」
女性が指したのは、街ではなかった。
中央にそびえる氷山。その北側へ伸びる、人気のない道だった。
「氷山の近くさ。普段は採氷の仕事をしてる連中くらいしか行かない場所なんだけどね」
「どのような方ですか?」
「さあ。見た奴の話じゃ、人間みたいだったって」
人間みたい。
春は、その曖昧な言い方に僅かに眉を寄せた。
「人間ではないのですか?」
「遠くから見ただけらしいよ。ただ、この寒さの中で外套も着ずに、何時間も氷の上に座ってたっていうからねぇ」
遊祈がカップから顔を上げた。
「何時間も?」
「声をかけても返事もしなかったそうだよ。凍死してるんじゃないかって兵士を呼びに行ったら、戻ってきた時にはいなくなってたとか」
女性は肩を竦める。
「見間違いだろうって話になったけどね」
ricoは氷山へ顔を向けた。
「要調査」
「そうですね」
春も静かに頷く。
目的だった不審者の聞き込みとは、少し違うかもしれない。
だが、極寒の中で何時間も生きていられる人物を、ただの見間違いとして片づけることはできなかった。
「その場所を、詳しく教えていただけますか?」
女性から道を聞き、三人は温かい飲み物を飲み干した。
氷山の北側へ続く道には、ほとんど人の姿がなかった。
街の建物が途切れるにつれ、冷気はさらに強くなっていく。
風が氷の斜面を滑り落ち、外套の隙間へ容赦なく入り込んだ。
春は前を歩くricoの手を、しっかりと握り直す。
「大丈夫ですか?」
「支障なし」
遊祈は片手で顔を庇いながら、氷山を見上げた。




