第7話『人形の涙』
第7話『人形の涙』
その日、エデンの空は燃えていた。
黒雲が渦巻き、赤い雷が大地を裂き、巨大な飛行要塞が楽園の上空を埋め尽くしている。
ノド機械王国、総侵攻。
蒸気の咆哮が世界を震わせていた。
鋼鉄巨人ネフィリムが進軍する。
一歩踏み出すたび、大地が揺れた。
かつて花畑だった平原は戦場へ変わり、焼け焦げた草の臭いと火薬の煙が風に混じっている。
「前進!」
「結界へ砲撃開始!」
「女王陛下に続け!!」
兵士たちの怒号が響く。
エバは巨大戦艦の甲板へ立ち、エデンを見下ろしていた。
かつて自分が愛した楽園。
今は白く壊れかけた世界。
その中央に、薄く輝く巨大結界が張られている。
エバは義眼を細めた。
「……アダム」
胸が痛む。
何十年経っても、その名だけは傷のように残っていた。
その時だった。
空中要塞の主砲が火を吹く。
轟音。
巨大な蒸気砲弾が結界へ直撃した。
白い光が軋む。
大地が震える。
「第二射、撃て!」
さらに砲撃。
結界が悲鳴のような音を立て始める。
エバは唇を噛んだ。
本当は壊したかったわけじゃない。
本当は。
ただ会いたかった。
聞きたかった。
どうして、あの日。
自分を選んでくれなかったのか。
その瞬間だった。
結界に巨大な亀裂が走る。
白い光が砕け散った。
「結界崩壊!!」
歓声が上がる。
ネフィリムたちが進軍を始めた。
エバは叫ぶ。
「待ちなさい!!」
兵士たちが止まる。
彼女はゆっくり前へ出た。
「ここから先は、私が行く」
焼けた風が吹き抜ける。
崩れたエデンは静かだった。
枯れ木。
ひび割れた泉。
崩壊しかけた果樹園。
そして、その中央。
一人の男が立っていた。
アダム。
白髪が増えていた。
顔には深い疲労が刻まれている。
だが、その瞳だけは変わっていなかった。
エバは息を呑む。
長すぎる年月が、一瞬で押し寄せてきた。
「……アダム」
掠れた声が漏れる。
アダムも彼女を見つめていた。
「エバ」
その声を聞いた瞬間、胸が壊れそうになる。
会いたかった。
本当はずっと。
怒りも憎しみも、その奥では全部この男へ繋がっていた。
エバは震えながら近づく。
鋼鉄の王衣が重い音を立てた。
「生きてたのね」
「……お前も」
沈黙。
風だけが吹く。
やがてエバの目に涙が滲み始めた。
「ねえ」
彼女の声が震える。
「どうして」
アダムが息を呑む。
エバは叫んだ。
「どうして私を選ばなかったの!?」
その声は、怒りではなかった。
何十年も押し殺してきた悲鳴だった。
「私は怖かった!」
涙が零れる。
「追放されて! 寒くて! 一人で!」
アダムの顔が歪む。
「エバ……」
「どうして来てくれなかったの!?」
彼女はアダムの胸を叩いた。
鋼鉄の手甲が音を立てる。
「私はずっと待ってたのに!!」
アダムは何も言えなかった。
その通りだった。
彼は選ばなかった。
神を選び、エバを残した。
その結果が今だ。
壊れた世界。
傷だらけの女王。
そして取り返しのつかない年月。
アダムは苦しそうに呟く。
「……怖かったんだ」
エバが止まる。
「お前と一緒に行けば、神を失う気がした」
声が震えていた。
「でも残れば、お前を失った」
沈黙。
エバの瞳から涙が溢れ落ちる。
「馬鹿……」
その瞬間だった。
空が裂けた。
巨大な光が出現する。
サタンだった。
黒い翼のような闇を広げ、彼は空から二人を見下ろしている。
黄金の瞳が嗤っていた。
「実に美しい再会だ」
アダムが睨む。
「サタン……!」
「だが、そろそろ終幕にしよう」
その瞬間。
空に巨大な光槍が現れた。
白熱する破滅の槍。
大気が焼ける。
アダムは息を呑んだ。
狙いは自分だ。
避けられない。
エバが叫ぶ。
「アダム!!」
光槍が放たれる。
世界が白く染まった。
その瞬間だった。
一つの影が、アダムの前へ飛び込む。
リリスだった。
轟音。
光が彼女の身体を貫く。
白い血が散った。
「……え?」
アダムの声が止まる。
リリスの胸には、大きな穴が開いていた。
彼女の身体が崩れ落ちる。
「リリス!!」
アダムは必死に抱き留めた。
熱い。
彼女の血は、人間と同じように温かかった。
リリスは微かに震えている。
「どうして……!」
アダムが叫ぶ。
「どうして庇った!!」
リリスは静かに彼を見つめた。
「あなたが……死ぬのが……嫌でした」
その瞬間。
彼女の瞳から、一滴の雫が零れ落ちた。
透明な涙。
リリスは呆然と呟く。
「これが……」
唇が震える。
「悲しい……?」
アダムの呼吸が止まる。
初めてだった。
彼女が、自分の感情を口にしたのは。
リリスは微かに笑った。
今までで一番、人間らしい笑顔だった。
「やっと……分かりました……」
その手が、ゆっくり落ちる。
静寂。
リリスは動かなくなった。
「……あ」
アダムの喉から、壊れた声が漏れる。
「ぁ……ああ……」
次の瞬間。
「リリスゥゥゥゥ!!!!!」
絶叫がエデンを震わせた。
アダムは彼女を抱き締め、泣き崩れる。
涙が止まらない。
空っぽだったはずの存在。
心を持たないはずだった存在。
それでも彼女は最後、自分の意志で彼を守った。
エバも崩れ落ちていた。
震える指で、自分の口を押さえる。
「そんな……」
サタンだけが空で笑っていた。
まるで全部、最初から知っていたかのように。




