第6話『第三の誘惑』
第6話『第三の誘惑』
空は、血のように赤かった。
エデンの森は半分以上が焼け落ち、黒く炭化した木々が墓標のように並んでいる。かつて命で溢れていた楽園は、今や死と静寂の庭だった。
乾いた風が吹く。
熱い。
それなのに、夜になると凍えるほど寒い。
世界そのものが壊れていた。
アダムは崖の上に立ち、遥か地平線を見つめていた。
遠く。
赤黒い空の下。
巨大な都市が見える。
ノド機械王国。
夜だというのに、無数の灯火が地上を照らしていた。蒸気機関の煙が空へ昇り、巨大な飛行要塞が黒い影のように空を巡回している。
文明。
人間の力。
神なき世界。
アダムは拳を握った。
「……エバ」
その名を呼んだ時だった。
「美しいだろう?」
背後から声が響く。
サタンだった。
黒い衣を揺らしながら、彼は崖の岩へ腰掛けている。
黄金の瞳が都市を眺めていた。
「人間はここまで来た」
サタンが微笑む。
「寒さを越え、熱波を越え、死を越えようとしている」
「違う」
アダムは低く言う。
「大勢が死んだ」
「当然だ」
サタンは肩を竦めた。
「文明とはそういうものだ」
その言葉に、アダムの目が険しくなる。
「お前は人を道具としか見ていない」
サタンは笑った。
「では神は違うのか?」
その一言が、アダムの胸へ刺さる。
返せない。
エバは追放された。
世界は壊れた。
大勢が死んだ。
神は止めなかった。
サタンはゆっくり立ち上がる。
「アダム」
その声は、妙に優しかった。
「お前は疲れたろう」
熱風が吹き抜ける。
「守れなかった」
サタンが囁く。
「エバも。世界も」
アダムの喉が詰まる。
その通りだった。
彼はずっと見ていただけだ。
エバが堕ちる時も。
世界が凍る時も。
人々が死ぬ時も。
何もできなかった。
サタンは静かに両腕を広げた。
「だから提案しよう」
次の瞬間。
世界が変わった。
アダムの視界が空へ引き上げられる。
雲の上。
星々の間。
地球そのものが眼下に広がっていた。
巨大だった。
青と黒の球体。
そこでは吹雪が渦巻き、熱波が大陸を焼き、海が蒸発し、人類の都市が赤く光っている。
アダムは息を呑んだ。
「これは……」
「世界だ」
サタンの声が響く。
「お前が守りたかったもの」
そして彼の前へ、一つの光が現れる。
黄金の輪。
脈動する巨大な環。
その内側では、嵐が生まれ、雨が降り、海流が動いていた。
「気候支配権」
サタンが囁く。
次に現れたのは、無数の光点だった。
人々の命。
誕生。
死。
病。
それらが星のように瞬いている。
「生命支配権」
さらに巨大な都市群が浮かぶ。
戦争。
文明。
鉄。
蒸気。
空中要塞。
ネフィリム。
「文明支配権」
サタンはゆっくりアダムへ近づいた。
「これを、お前にやろう」
アダムの心臓が激しく鳴る。
サタンの声は甘かった。
「お前なら救える」
黄金の瞳が細められる。
「エバを」
その瞬間、アダムの胸が揺れた。
エバ。
燃える都市で、孤独に王として立つ女。
彼女を救える。
もう誰も死なせずに済むかもしれない。
飢えも。
寒さも。
熱波も。
全部止められる。
アダムの指先が震えた。
「……なぜ俺に」
サタンは微笑む。
「お前は優しいからだ」
その時だった。
静かな足音が響く。
リリスだった。
白い衣を揺らしながら、彼女はアダムの隣へ立つ。
そして、迷いなく言った。
「あなたが王になるべきです」
アダムは振り返る。
「リリス……」
彼女は真っ直ぐアダムを見つめていた。
「あなたは苦しむ人を見捨てません」
静かな声だった。
「ならば力を持つべきです」
サタンが笑う。
「そうだ」
世界が赤く脈動している。
嵐が渦巻く。
大陸が燃える。
無数の悲鳴が聞こえる気がした。
アダムは拳を握る。
もし、この力があれば。
世界を変えられる。
エバを止められる。
誰も死なせずに済む。
その時。
彼の脳裏へ、リリスの言葉が蘇る。
『命令なら、神も捨てます』
空っぽの瞳。
感情のない従順。
そしてエバ。
怒り、泣き、傷つきながら、それでも自分で選んだ女。
アダムは突然、恐ろしくなった。
もし自分がこの力を持てば。
世界中の人間を、自分の思い通りにできてしまう。
天候も。
命も。
文明も。
全部。
それは本当に救済なのか。
それとも。
「……違う」
掠れた声が漏れる。
サタンの笑みが止まる。
アダムは震えながら顔を上げた。
「人間は……支配されるために生きてるんじゃない」
サタンの瞳が細くなる。
「ほう」
アダムは息を切らしながら続けた。
「たとえ苦しくても、自分で選ばなきゃ意味がない」
熱風が吹き荒れる。
世界が唸る。
サタンの顔から笑みが消えた。
「愚かな」
その声には、初めて怒気が混じっていた。
「お前は救えるんだぞ!」
「違う!」
アダムが叫ぶ。
「俺は神じゃない!」
静寂。
リリスだけが静かにアダムを見つめていた。
その瞳が、ほんの僅かに揺れた気がした。




