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第5話『水鏡』

第5話『水鏡』


 エデンから、鳥の声が消えて久しかった。


 かつて青々としていた森は、熱波と寒波を繰り返す異常気象によって半ば枯れ果て、巨大な樹々は白く乾いた骨のように立ち尽くしている。


 風は熱い。


 だが夜になると急激に冷え込む。


 楽園はもう、楽園の姿を保てなくなっていた。


 それでも中央の泉だけは、奇跡のように水を湛えていた。


 アダムはその泉の前へ膝をつく。


 指先を水面へ触れた瞬間、冷たい感触が皮膚を走った。


 昔を思い出す。


 エバと笑い合いながら、この水へ飛び込んだ日々。


 花冠を編んでいた午後。


 獅子の鬣を撫でながら眠った夕暮れ。


 世界は、あまりにも優しかった。


「……エバ」


 名を呼ぶ。


 返事はない。


 だが、その時だった。


 静かだった水面が揺れる。


 波紋が広がる。


 アダムは眉をひそめた。


 次の瞬間、水面へ別の景色が映り込む。


 巨大都市だった。


 黒い塔。


 蒸気煙。


 空を飛ぶ鋼鉄要塞。


 赤熱する炉。


 そして、その中心。


 一人の女が玉座へ座っていた。


 アダムは息を呑む。


「……エバ」


 彼女だった。


 だが、もう記憶の中の少女ではない。


 長い黒髪。


 鋼鉄の王衣。


 片目へ埋め込まれた赤い義眼。


 周囲には無数の兵士たちが跪いていた。


「女王陛下!」


 歓声が響く。


「ネフィリム軍、帰還しました!」


「東部要塞、防衛成功です!」


 エバは静かに頷く。


 その姿には威厳があった。


 冷たく、強く、孤独な王の姿だった。


 アダムの胸が痛む。


 彼女は生きていた。


 だが遠すぎる。


 水面の向こうにいる女は、もう自分の知っているエバではない気がした。


 その時だった。


 エバが突然、水鏡のこちら側を見た。


 赤い義眼が光る。


 まるで本当にアダムを見つけたように。


「……アダム?」


 掠れた声。


 アダムは思わず泉へ手を伸ばした。


「エバ!」


 だが水面が揺れる。


 映像が乱れる。


 エバは立ち上がった。


「待って!」


 彼女の声が響く。


「まだ生きてるの!?」


「エバ、聞こえるのか!?」


 その瞬間、激しいノイズが走った。


 水面が白く濁る。


 やがて映像は消えた。


 静寂。


 アダムは呆然と泉を見つめる。


 心臓が激しく鳴っていた。


 エバは生きている。


 それだけで胸が締めつけられた。


 だが同時に恐ろしくもあった。


 あの瞳。


 あの王の顔。


 彼女はもう、世界を動かす側へ行ってしまった。


 背後で足音がする。


 リリスだった。


 白い衣を纏い、静かにアダムを見つめている。


「誰を見ていたのですか」


 アダムはしばらく答えられなかった。


 やがて掠れた声で言う。


「……昔、愛した女だ」


 リリスは静かに泉を見つめた。


「まだ愛していますか」


 アダムは息を呑む。


 胸の奥が痛む。


「分からない」


 それは本音だった。


 愛している。


 きっと今も。


 だが同時に、怖かった。


 神へ牙を向ける女王となったエバが。


 憎しみに燃える彼女が。


 リリスは静かに尋ねる。


「私は、代わりになれませんか」


 アダムは振り返る。


 火の灯りが、彼女の白い肌を淡く照らしていた。


 美しい。


 完璧だった。


 従順で。


 優しくて。


 何一つ逆らわない。


 だが、その完璧さがアダムを苦しめる。


「……違う」


「何がでしょう」


「お前は悪くない」


 アダムは目を伏せる。


「でも、違うんだ」


 リリスは黙っていた。


 風が吹く。


 泉の水面が揺れる。


 遠くで雷鳴が響いた。


 その夜。


 エデンは異様に静かだった。


 熱波が去ったあと特有の、生暖かい夜風が木々を揺らしている。


 アダムは焚き火の前へ座っていた。


 火の匂い。


 乾いた木が爆ぜる音。


 リリスは隣で静かに火を見つめている。


 沈黙が続いた。


 やがてリリスが口を開く。


「質問があります」


 アダムは火を見つめたまま答える。


「なんだ」


 少し間があった。


 そしてリリスは、静かに尋ねた。


「愛とは命令ですか?」


 火が爆ぜた。


 アダムは顔を上げる。


 リリスの瞳は真っ直ぐだった。


 純粋な疑問。


 それだけだった。


「私は、あなたに愛すると命じられれば愛します」


 リリスが続ける。


「抱きしめろと言われれば抱きしめます。笑えと言われれば笑います」


 火の光が彼女の横顔を照らす。


「ですが、それが愛なのか分かりません」


 アダムは答えられなかった。


 喉が詰まる。


 エバを思い出す。


 怒った顔。


 泣いた顔。


 笑った顔。


 彼女は命令で愛していたわけじゃない。


 自分で選び、自分で傷つき、自分で苦しんでいた。


 だから愛だった。


 アダムはゆっくり拳を握る。


「……愛は」


 言葉が止まる。


 分からなかった。


 本当は、彼自身も。


 神への信仰。


 エバへの愛。


 リリスへの憐れみ。


 全部が胸の中で絡まり合っていた。


 沈黙の中、リリスは小さく呟く。


「私は空っぽです」


 その声だけが、妙に悲しく響いた。


 焚き火の火が静かに揺れていた。



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