第4話『反逆の女王』
第4話『反逆の女王』
最初の火が生まれてから、五十年の歳月が流れていた。
世界は、もう楽園ではなかった。
空は煤煙に覆われ、海は黒く濁り、巨大な鉄塔が大地へ無数の影を落としている。蒸気機関の咆哮が昼夜を問わず鳴り響き、赤熱した鋼鉄の匂いが街を満たしていた。
ノド機械王国。
それが今、人類最大の国家だった。
荒野の中央に築かれた巨大都市。
幾重もの鋼鉄城壁。
空を巡回する飛行戦艦。
蒸気を吐き出す巨大工場。
そして都市の中心には、天を突く黒い塔が立っていた。
人々はその塔を、“女王の槍”と呼んでいた。
今日も王都では、巨大な汽笛が鳴り響いている。
蒸気列車が鉄橋を走り抜け、歯車が唸りを上げ、火花が夜空へ散っていた。
「もっと石炭を運べ!」
「第七炉、圧力限界です!」
「鋼鉄巨人を前線へ回せ!」
怒号が飛び交う。
人類は、生き延びていた。
氷河期も。
熱波も。
飢餓も。
全部、力でねじ伏せながら。
王城最上階。
巨大な窓の前で、一人の女が都市を見下ろしていた。
エバ。
かつて楽園を追放された女。
今や彼女は、全人類を統べる“反逆の女王”となっていた。
長い黒髪。
鋼鉄の王衣。
その片目には、蒸気義眼が埋め込まれている。
赤い光が静かに明滅していた。
かつての優しい面影は、もうほとんど残っていない。
「女王陛下」
背後から声が響く。
白髪の老技師だった。
「第三区画の冷却炉が完成しました」
「死者は」
エバが振り返らず尋ねる。
老技師は少し黙った。
「……三百二十名」
その瞬間だけ、エバの指先が止まる。
だが彼女は、すぐ静かに言った。
「記録して」
「はっ」
老技師が去る。
窓の外では、巨大な鋼鉄巨人が歩いていた。
人型兵器。
十数メートルの巨体。
蒸気を噴き出しながら進むその姿を、人々は“ネフィリム”と呼んでいた。
エバはそれを見つめる。
遠い昔を思い出すように。
あの吹雪の日。
火を抱えて震えていた少女だった頃を。
「……アダム」
小さく名を呼ぶ。
返事はない。
もう何十年も会っていない。
生きているのかさえ分からない。
その時だった。
背後で拍手の音が響く。
「素晴らしい」
低い声。
聞き慣れた声。
エバは振り返らない。
「何の用、サタン」
黒い衣の男が、玉座の上へ腰掛けていた。
黄金の瞳が愉しそうに細められる。
「人類はここまで来た」
彼は窓の外を見た。
「神なしでな」
エバは冷たく言う。
「違う」
「ほう?」
「神が壊した世界を、人間が立て直したのよ」
サタンは笑った。
「なるほど。では、お前は救世主だ」
エバの目が細くなる。
「私は、誰も凍えさせない」
その声には激情が滲んでいた。
「誰も飢えさせない。もう二度と」
彼女の脳裏には、死者たちの顔が焼きついていた。
凍死した子供。
干からびた母親。
焼けた兵士。
全部見てきた。
神は止めなかった。
空から見ていただけだった。
エバは拳を握る。
「だから私は、人間の世界を作る」
サタンは満足そうに微笑んだ。
「それでこそだ」
その時。
都市の外で巨大な爆発音が響いた。
窓ガラスが震える。
警報が鳴り響いた。
「敵襲! 第六防壁崩壊!」
「熱波竜接近!」
兵士たちの悲鳴。
エバは即座に立ち上がる。
「ネフィリム部隊を出して」
「しかし陛下!」
「急いで!」
彼女は長い外套を翻した。
王城の巨大扉が開く。
灼熱の風が吹き込んできた。
空には巨大な赤い雲が渦巻いている。
地平線の向こうでは、炎のような怪物が暴れていた。
人々が逃げ惑う。
泣き叫ぶ。
エバはその光景を睨みつけた。
「私は負けない」
その声は低く、燃えていた。
「人類は滅びない」
サタンが後ろで囁く。
「その怒りを忘れるな」
エバはゆっくり空を見上げる。
灰色の空。
神の沈黙する天。
彼女の瞳に憎しみが宿った。
「聞いているんでしょう」
都市中へ、女王の声が響く。
人々が顔を上げた。
蒸気機関が唸る。
ネフィリムたちが進軍を始める。
空中要塞が砲門を開く。
エバは天へ向かって叫んだ。
「私は、この世界を人間の手へ取り戻す!」
雷鳴が轟く。
黒煙が空を覆う。
そして反逆の女王は、静かに宣言した。
「神を殺す」




