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第3話『灼熱』

第3話『灼熱』


 氷河期は、ある日突然終わった。


 終わったというより、世界が別の地獄へ変わった。


 朝。


 アダムは異臭で目を覚ました。


 焦げたような臭い。


 乾ききった土の臭い。


 喉がひりつく。


 彼は重い身体を起こし、洞窟の外へ出た。


 熱風が吹きつけた。


「……っ!」


 思わず腕で顔を庇う。


 昨日まで白銀だった世界が、一夜で変わっていた。


 雪が消えている。


 いや、溶けたのだ。


 森は黒く焼け、泉は半分以上干上がっていた。遠くの湖からは白い蒸気が立ち昇り、地平線が陽炎で歪んでいる。


 空は赤かった。


 巨大な太陽が、まるで世界そのものを焼き殺そうとしているように輝いている。


 肌が痛い。


 呼吸するたび、肺へ熱い針を押し込まれるようだった。


 アダムは唇を噛む。


「……サタン」


 その名を呼んだ瞬間、どこかで笑い声が響いた。


 低く、愉しげな笑い。


「気に入ったか?」


 振り返ると、黒い衣の男が岩の上へ腰掛けていた。


 サタン。


 黄金色の瞳が、燃える世界を眺めている。


「氷では壊れなかった。だから今度は火だ」


 彼は楽しそうに両腕を広げた。


「人間は脆い。寒ければ凍え、暑ければ狂う」


 アダムは睨みつける。


「やめろ」


「なぜ?」


 サタンは笑う。


「神はお前を守らない」


 その言葉と同時に、熱風が吹き荒れた。


 木々が爆ぜる。


 遠くで獣の断末魔が響いた。


 乾いた空気の中に、焼けた肉の臭いが漂う。


 アダムは顔を歪めた。


「これは人間への試練じゃない」


「では何だ?」


「虐殺だ」


 サタンは肩を竦めた。


「違うな。これは証明だ」


 彼はゆっくり立ち上がる。


「幸福だから神を愛していたのか。それとも苦しみの中でも忠実でいられるのか」


 アダムは拳を握る。


 汗が額を流れた。


 水が足りない。


 泉はほとんど枯れている。


 果実は熱で腐り始めていた。


 身体が重い。


 それでも彼は言った。


「俺は……お前には従わない」


 サタンの目が細くなる。


「強情だな」


 その時だった。


 後ろから静かな声がした。


「水をお持ちしました」


 リリスだった。


 白い衣を纏った彼女は、焼けつく熱の中でも汗一つ流していない。銀の器を両手で持ち、静かにアダムへ差し出していた。


 アダムは器を受け取る。


 冷たい水が喉を潤した。


 生き返るようだった。


「……ありがとう」


「はい」


 リリスは微笑む。


 完璧な笑顔。


 だが、そこに感情は見えない。


 サタンが興味深そうに彼女を見る。


「面白い女だ」


 リリスは答えない。


 ただ静かにアダムの隣へ立つ。


 アダムはふと尋ねた。


「お前は……暑くないのか」


「暑いです」


「苦しくないのか」


「苦しいです」


 淡々とした声だった。


 まるで空の器が答えているような。


 アダムは胸に奇妙な寒気を覚える。


「なら、なぜ平気そうなんだ」


「あなたが平気であることを望まれるからです」


 アダムは言葉を失った。


 サタンが吹き出す。


「なるほど。これは傑作だ」


 彼はリリスへ近づいた。


「お前は誰に従う?」


「アダムです」


「神よりも?」


 リリスは迷わない。


「命令なら、神も捨てます」


 熱風が吹き抜けた。


 その瞬間、アダムの背筋を冷たいものが走る。


「……やめろ」


 掠れた声が漏れる。


 リリスは首を傾げた。


「何をでしょうか」


「そんなことを言うな」


「なぜです?」


 その問いに、アダムは答えられなかった。


 リリスは間違っていない。


 彼女は“従っている”だけだ。


 命じられれば笑う。


 命じられれば抱きしめる。


 命じられれば神さえ捨てる。


 そこに迷いはない。


 自分の意志が存在しないから。


 アダムは突然、激しい吐き気を覚えた。


 エバの顔が脳裏をよぎる。


 怒っていた。


 泣いていた。


 迷っていた。


 苦しんでいた。


 でも、生きていた。


 目の前の女は違う。


 美しい。


 優しい。


 完璧だ。


 なのに。


 空っぽだった。


 サタンは笑いながら囁く。


「どうだ、アダム」


 黄金の瞳が細められる。


「従順な女は理想的だろう?」


 アダムは震える。


 暑さのせいだけではない。


 恐ろしかった。


 もし神が本当に望んでいるのが、こういう存在なら。


 怒らず。


 疑わず。


 考えず。


 ただ従うだけの存在なら。


 エバは間違っていたのか。


 苦しみながら、自分で選ぼうとしたエバは。


 アダムの喉が乾く。


 焼けるように痛い。


 空を見る。


 太陽が世界を灼いていた。


 その熱の中で、彼は初めて神へ恐怖を覚えていた。


 一方その頃。


 地上では、エバが巨大な石壁の上から荒野を見下ろしていた。


 吹雪は消えた。


 だが今度は熱だ。


 遠くで海が白く蒸発している。


 大地はひび割れ、人々は渇きに苦しんでいた。


「水を運べ!」


 怒号が飛ぶ。


「子供を日陰へ!」


「倒れたぞ!」


 地獄だった。


 エバは歯を食いしばる。


 頬を汗が流れる。


 それでも彼女は叫んだ。


「立ちなさい!」


 兵士たちが振り返る。


「まだ終わってない!」


 その瞳には、燃えるような意志が宿っていた。


「神にも、この世界にも、負けるな!」


 灼熱の荒野の中で、人類最初の都市が少しずつ形を成し始めていた。


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