表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/11

第2話『代わりの女』

第2話『代わりの女』


 雪は、止むことを忘れていた。


 白い結晶が静かに降り積もり、エデンの果樹園を埋めていく。かつて甘い香りを漂わせていた果実は凍りつき、泉には厚い氷が張っていた。


 アダムは一人、凍った水面を見つめていた。


 吐く息が白い。


 寒い。


 だが、それ以上に胸の中が空っぽだった。


「……エバ」


 名を呼んでも返事はない。


 彼女が消えてから、どれほどの時が経ったのか分からない。楽園はまだ美しかった。白銀の雪景色は幻想的ですらある。


 それなのに。


 そこには、彼女がいない。


 アダムは拳を握った。


 あの時、なぜ一緒に行かなかったのか。


 なぜ彼女の手を掴めなかったのか。


 考えるたび胸が軋む。


 その時だった。


 背後で雪を踏む音がした。


 アダムは振り返る。


 そこに、一人の女が立っていた。


 白い衣。


 長い黒髪。


 雪よりも白い肌。


 静かな瞳。


 あまりにも美しかった。


 だが、その美しさに、アダムは言い知れぬ寒気を覚える。


「……誰だ」


 女は静かに頭を下げた。


「リリスです」


 声は柔らかい。


 よく通る、美しい声だった。


「あなたに仕えるために参りました」


 アダムは眉をひそめる。


「仕える?」


「はい」


 リリスは微笑む。


 完璧な笑顔だった。


 けれど、その笑みに熱がない。


 人形が形だけ笑っているようだった。


 アダムは立ち上がる。


「神が、お前を?」


「はい」


 リリスは頷いた。


「あなたが孤独であることを、創造主は憐れまれました」


 その言葉に、アダムの胸が痛んだ。


 孤独。


 その通りだった。


 広い楽園に、今は彼しかいない。


 鳥たちも減った。


 獣たちは寒さに怯え、森の奥へ隠れている。


 夜になると、吹雪の音だけが世界を満たした。


 だからアダムは、小さく息を吐いた。


「……座ってくれ」


「はい」


 リリスは素直に従う。


 焚き火の前へ腰を下ろす姿は、どこまでも美しい。


 だが彼女は、自分から何も話さなかった。


 火がぱちりと爆ぜる。


 沈黙。


 アダムは居心地の悪さを覚えた。


「寒くないのか?」


「寒いです」


「なら、もっと火に近づけ」


「はい」


 言われた通り、リリスは少し前へ出る。


 その動きは滑らかだ。


 完璧すぎるほどに。


 アダムは眉をひそめた。


「……お前、自分で考えてるのか?」


「考えております」


「なら、どうして自分から話さない」


 リリスは静かに首を傾げた。


「必要でしょうか?」


 アダムは言葉を失う。


 必要。


 そんな風に考えたこともなかった。


 エバは違った。


 彼女はよく喋った。


 花を見て笑い、動物を抱きしめ、夜になれば星を見上げて、どうでもいいことを延々と話した。


 アダムはその時間が好きだった。


 だが目の前の女は違う。


 命じれば笑う。


 命じれば座る。


 命じれば従う。


 それだけだった。


 リリスは焚き火を見つめたまま言う。


「何を望まれますか?」


 火の光が彼女の横顔を照らす。


 美しい。


 だが、美しすぎて恐ろしかった。


「……お前は、何を望む?」


 アダムが尋ねる。


 リリスは迷わず答えた。


「あなたの望みが、私の望みです」


 その瞬間、アダムの背筋を悪寒が走った。


 違う。


 これは違う。


 エバはこんなことを言わなかった。


 彼女は怒った。


 笑った。


 泣いた。


 反抗した。


 そして、自分で選んだ。


 だがリリスには、それがない。


 アダムは思わず呟いた。


「これは……人間なのか?」


 リリスは瞬き一つしなかった。


 一方その頃。


 地上では、吹雪が死者を増やし続けていた。


 エバは荒野を歩いていた。


 冷たい風が頬を切る。


 雪が膝まで積もっている。


 吐く息は白い。


 その足元には、凍死した人間たちが倒れていた。


 老人。


 子供。


 母親。


 皆、寒さに耐えられなかった。


 エバは立ち止まり、その亡骸を見下ろす。


 胸が締めつけられた。


「……ごめんなさい」


 誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 その時、背後から怒鳴り声が響く。


「女王様!」


 振り返ると、痩せた男が駆け寄ってくる。


「また北の集落が全滅しました! 食料も足りません!」


 エバは唇を噛む。


 寒い。


 苦しい。


 だが泣いている暇はなかった。


「火は?」


「薪が尽きます!」


 エバは周囲を見回した。


 吹雪。


 凍土。


 死体。


 その光景を見つめながら、彼女の瞳が変わっていく。


 生きなければならない。


 誰かが、この世界を変えなければならない。


「……石を集めて」


「え?」


「壁を作るの」


 男が目を見開く。


「壁……?」


「風を防ぐのよ」


 エバは凍った大地を見つめる。


「火だけじゃ足りない。街を作るの」


 吹雪が彼女の髪を打つ。


 その目には、もう恐怖だけではない光が宿っていた。


「この世界から、寒さを奪う」


 そして彼女は、凍死者たちの山を背に歩き出す。


 人類最初の都市を築くために。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ