第2話『代わりの女』
第2話『代わりの女』
雪は、止むことを忘れていた。
白い結晶が静かに降り積もり、エデンの果樹園を埋めていく。かつて甘い香りを漂わせていた果実は凍りつき、泉には厚い氷が張っていた。
アダムは一人、凍った水面を見つめていた。
吐く息が白い。
寒い。
だが、それ以上に胸の中が空っぽだった。
「……エバ」
名を呼んでも返事はない。
彼女が消えてから、どれほどの時が経ったのか分からない。楽園はまだ美しかった。白銀の雪景色は幻想的ですらある。
それなのに。
そこには、彼女がいない。
アダムは拳を握った。
あの時、なぜ一緒に行かなかったのか。
なぜ彼女の手を掴めなかったのか。
考えるたび胸が軋む。
その時だった。
背後で雪を踏む音がした。
アダムは振り返る。
そこに、一人の女が立っていた。
白い衣。
長い黒髪。
雪よりも白い肌。
静かな瞳。
あまりにも美しかった。
だが、その美しさに、アダムは言い知れぬ寒気を覚える。
「……誰だ」
女は静かに頭を下げた。
「リリスです」
声は柔らかい。
よく通る、美しい声だった。
「あなたに仕えるために参りました」
アダムは眉をひそめる。
「仕える?」
「はい」
リリスは微笑む。
完璧な笑顔だった。
けれど、その笑みに熱がない。
人形が形だけ笑っているようだった。
アダムは立ち上がる。
「神が、お前を?」
「はい」
リリスは頷いた。
「あなたが孤独であることを、創造主は憐れまれました」
その言葉に、アダムの胸が痛んだ。
孤独。
その通りだった。
広い楽園に、今は彼しかいない。
鳥たちも減った。
獣たちは寒さに怯え、森の奥へ隠れている。
夜になると、吹雪の音だけが世界を満たした。
だからアダムは、小さく息を吐いた。
「……座ってくれ」
「はい」
リリスは素直に従う。
焚き火の前へ腰を下ろす姿は、どこまでも美しい。
だが彼女は、自分から何も話さなかった。
火がぱちりと爆ぜる。
沈黙。
アダムは居心地の悪さを覚えた。
「寒くないのか?」
「寒いです」
「なら、もっと火に近づけ」
「はい」
言われた通り、リリスは少し前へ出る。
その動きは滑らかだ。
完璧すぎるほどに。
アダムは眉をひそめた。
「……お前、自分で考えてるのか?」
「考えております」
「なら、どうして自分から話さない」
リリスは静かに首を傾げた。
「必要でしょうか?」
アダムは言葉を失う。
必要。
そんな風に考えたこともなかった。
エバは違った。
彼女はよく喋った。
花を見て笑い、動物を抱きしめ、夜になれば星を見上げて、どうでもいいことを延々と話した。
アダムはその時間が好きだった。
だが目の前の女は違う。
命じれば笑う。
命じれば座る。
命じれば従う。
それだけだった。
リリスは焚き火を見つめたまま言う。
「何を望まれますか?」
火の光が彼女の横顔を照らす。
美しい。
だが、美しすぎて恐ろしかった。
「……お前は、何を望む?」
アダムが尋ねる。
リリスは迷わず答えた。
「あなたの望みが、私の望みです」
その瞬間、アダムの背筋を悪寒が走った。
違う。
これは違う。
エバはこんなことを言わなかった。
彼女は怒った。
笑った。
泣いた。
反抗した。
そして、自分で選んだ。
だがリリスには、それがない。
アダムは思わず呟いた。
「これは……人間なのか?」
リリスは瞬き一つしなかった。
一方その頃。
地上では、吹雪が死者を増やし続けていた。
エバは荒野を歩いていた。
冷たい風が頬を切る。
雪が膝まで積もっている。
吐く息は白い。
その足元には、凍死した人間たちが倒れていた。
老人。
子供。
母親。
皆、寒さに耐えられなかった。
エバは立ち止まり、その亡骸を見下ろす。
胸が締めつけられた。
「……ごめんなさい」
誰へ向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。
その時、背後から怒鳴り声が響く。
「女王様!」
振り返ると、痩せた男が駆け寄ってくる。
「また北の集落が全滅しました! 食料も足りません!」
エバは唇を噛む。
寒い。
苦しい。
だが泣いている暇はなかった。
「火は?」
「薪が尽きます!」
エバは周囲を見回した。
吹雪。
凍土。
死体。
その光景を見つめながら、彼女の瞳が変わっていく。
生きなければならない。
誰かが、この世界を変えなければならない。
「……石を集めて」
「え?」
「壁を作るの」
男が目を見開く。
「壁……?」
「風を防ぐのよ」
エバは凍った大地を見つめる。
「火だけじゃ足りない。街を作るの」
吹雪が彼女の髪を打つ。
その目には、もう恐怖だけではない光が宿っていた。
「この世界から、寒さを奪う」
そして彼女は、凍死者たちの山を背に歩き出す。
人類最初の都市を築くために。




