第1話『追放』
第1話『追放』
エデンは幸福そのものだった。
朝になれば、透き通る川のせせらぎが森に響き、黄金色の陽射しが果樹園を照らす。風は甘い果実の香りを運び、柔らかな草が素足をくすぐった。
アダムは大きな獅子の鬣を撫でながら笑う。
「今日は機嫌がいいな」
獅子は喉を鳴らし、その隣では白い鳥たちが羽を震わせていた。
エバは花を編みながら振り返る。
「この子、新しい名前を欲しがってる」
彼女の膝の上には、小さな狐が丸くなっていた。
アダムは少し考え、笑う。
「ルア、はどうだ?」
狐は嬉しそうに鳴き、エバが吹き出した。
「気に入ったみたい」
風が吹く。
花の匂い。
果実の甘い香り。
遠くで水が流れる音。
空はどこまでも青く、世界には苦しみなど存在しなかった。
神は、ほとんど全てを与えていた。
食べ物も。
美しい景色も。
愛する相手も。
自由も。
たった一つを除いて。
善悪の知識の実。
それだけは食べてはならない。
アダムは、その約束をずっと守ってきた。
だが、その日。
エバは一本の果実を持っていた。
赤黒く熟れた実。
蜜のような甘い香りが漂っている。
彼女はすでに、一口かじっていた。
果汁が白い唇を濡らしている。
「……エバ」
アダムの声が震える。
エバは静かに彼を見つめた。
その瞳を見た瞬間、アダムは息を呑んだ。
何かが変わっていた。
世界の見え方そのものが変わった人間の目だった。
「ねえ、アダム」
エバが囁く。
「どうして神は、この実だけを禁じたと思う?」
アダムは答えられなかった。
エバは果実を見つめながら微笑む。
「蛇が言ったの。
『あなたたちは決して死なない。神のようになって善悪を知るようになる』って」
風が木々を揺らす。
甘い花の香りが流れる。
なのにアダムの胸には、得体の知れない不安が広がっていた。
「私、分かった気がするの」
エバは静かに言った。
「私たちは今まで、神が決めた善悪の中で生きていた。でも、この実を食べれば、自分で選べる」
彼女は果実を差し出す。
「食べて」
アダムは後ずさった。
「できない」
「どうして?」
「神との約束だからだ」
その瞬間、エバの顔が歪んだ。
「たった一つの約束のために?」
涙が彼女の瞳に滲む。
「私より神を選ぶの?」
「違う!」
アダムは叫んだ。
「俺はお前を愛してる!」
「なら、どうして一緒に来てくれないの!?」
アダムは言葉を失う。
本当は怖かった。
もしこの実が本当に人を変えるなら。
もし神の言葉が正しいなら。
彼女と同じ場所へ行けば、もう戻れなくなる。
その恐怖が、彼を動けなくしていた。
風が止まった。
鳥たちの歌声が消える。
静寂。
次の瞬間、世界そのものが響いた。
「エバ」
空と大地が同時に語るような声。
アダムは膝をついた。
だがエバだけは天を睨んでいる。
「お前は知ることを選んだ」
「ええ」
エバは震えながら答える。
「ならば、お前はもはや無垢ではない」
その瞬間、楽園の境界に巨大な光の裂け目が走った。
裂け目の向こうには、暗い地上世界が広がっている。
荒野。
灰色の空。
吹き荒れる風。
「善悪を知る者は、自ら選び、自ら生きねばならない」
「それが知識の代償だ」
「待ってください!」
アダムが叫ぶ。
「エバを赦してください!」
だが返事はない。
裂け目から激しい風が吹き込む。
エバの身体が引き寄せられた。
「アダム!」
初めて、彼女が恐怖の顔を見せる。
アダムは駆け出した。
草を蹴る。
腕を伸ばす。
指先が触れる。
だが届かない。
「エバ!!」
彼女の身体は光の中へ呑まれていった。
裂け目が閉じる。
静寂。
アダムはその場へ崩れ落ちた。
胸が痛い。
息が苦しい。
エバがいない。
その事実だけで、楽園は色を失っていた。
その時だった。
背後で拍手の音が響く。
乾いた、冷たい音。
「素晴らしい」
アダムが振り返る。
黒い男が立っていた。
闇を纏ったような衣。
黄金色の瞳。
その笑みには、底知れぬ悪意が滲んでいた。
「誰だ」
男は優雅に頭を下げる。
「サタン」
その名を聞いた瞬間、空気が重くなる。
サタンは楽園を見回した。
「なるほど。確かに美しい」
果実を手に取る。
花へ触れる。
泉を覗き込む。
「こんな場所なら、誰だって神を愛する」
アダムが睨む。
「何が言いたい」
サタンは笑った。
「人間は幸福だから従うだけだ、と言いたいのさ」
そして天を見上げる。
「では始めよう」
その瞬間、世界の空気が変わった。
暖かな風が止まる。
空が黒く染まる。
遠くで雷鳴が轟いた。
「人間の価値証明を」
次の瞬間、地球の気温が急激に低下した。
海が凍る。
森が白く閉ざされる。
獣たちの悲鳴が遠くで響いた。
楽園の空から、最初の雪が落ちる。
白い結晶がアダムの頬へ触れた。
冷たい。
今まで感じたことのない冷たさだった。
一方その頃。
地上へ落とされたエバは、荒野を吹き荒れる風の中で震えていた。
寒い。
息をするたび肺が痛む。
指先の感覚が消えていく。
「っ……!」
そこへ突然、雪が降り始めた。
猛烈な吹雪。
視界が白く閉ざされる。
「嫌……!」
エバは雪を掻いた。
怖い。
死にたくない。
「アダム……!」
返事はない。
その時だった。
遠くへ雷が落ちる。
閃光。
轟音。
弾けた火花が黒い石へ飛び散った。
エバは息を呑む。
震える手で石を拾う。
打ち合わせる。
一度。
二度。
三度。
火花が散る。
そして、小さな炎が生まれた。
橙色の光。
その熱が、凍えた指先へ触れる。
エバは涙を流した。
だが、その涙は絶望ではなかった。
彼女は炎を見つめ、小さく呟く。
「……生きる」
吹雪の荒野の中、小さな火だけが静かに揺れていた。




