第8話『宇宙裁判』
第8話『宇宙裁判』
リリスの亡骸を抱いたまま、アダムは動けなかった。
崩壊したエデンには、灰が雪のように降っている。
焼けた木々。
砕けた結界。
蒸気兵器の残骸。
血の臭い。
焦げた鉄の匂い。
世界そのものが、長い戦いに疲れ果てていた。
アダムの腕の中で、リリスは静かだった。
もう呼吸はない。
白い肌は冷え始めている。
だが、その表情だけは穏やかだった。
まるで最後に、ようやく“人間”になれたように。
「……リリス」
アダムの喉が震える。
涙が頬を伝い落ちた。
「なんでだ……」
エバも少し離れた場所で膝をついていた。
王衣は泥と血で汚れ、蒸気義眼の光も弱々しい。
彼女は呆然とリリスを見つめている。
「あの子……」
掠れた声が漏れる。
「泣いてた……」
その時だった。
空が裂けた。
轟音。
赤黒い雲が渦を巻き、巨大な闇が天を覆う。
サタン。
黒い翼のような闇を広げ、彼は空から世界を見下ろしていた。
黄金の瞳には、まだ笑みが残っている。
「素晴らしい」
低い声が響く。
「実に美しい悲劇だ」
アダムがゆっくり顔を上げる。
その瞳には、今までにない怒りが宿っていた。
「……お前が」
声が震える。
「全部、お前が……」
サタンは肩を竦める。
「違うな」
彼は微笑んだ。
「私は可能性を与えただけだ」
エバが叫ぶ。
「可能性ですって!?」
彼女は立ち上がる。
「人を苦しめ! 世界を壊して! それが!?」
サタンの笑みが深くなる。
「だが人類は従った」
その言葉に、エバの顔が凍りつく。
サタンはゆっくり腕を広げた。
「力を求めた」
「支配を求めた」
「神の座を求めた」
巨大な黒雲が空で渦巻く。
「そして滅びかけた」
サタンの声が宇宙へ響いた。
「見たか、創造主」
その瞬間だった。
世界が静止する。
風が止む。
灰が空中で止まる。
時間そのものが息を止めたようだった。
そして。
光が降りる。
優しい光だった。
熱ではない。
痛みでもない。
凍えた心へ触れるような、静かな光。
アダムは息を呑む。
エバも震えていた。
世界そのものが、声を待っている。
やがて。
空と大地を満たすように、その声が響いた。
「サタン」
それだけで、黒雲が震えた。
サタンの笑みが僅かに消える。
「お前は、人間が苦しめば愛を捨てると言った」
静かな声。
だが宇宙全体を揺らすほど巨大だった。
「恐怖を与えた」
「飢えを与えた」
「力の誘惑を与えた」
アダムの胸が震える。
氷河期。
熱波。
孤独。
リリス。
エバ。
全部が脳裏を駆け抜けた。
「それでも」
光が強くなる。
「人間は、苦しみの中でも愛を選べる」
その瞬間だった。
世界中へ巨大な衝撃が走る。
サタンの身体から、黒い光が吹き出した。
「……っ!?」
初めて、彼の顔が歪む。
空を覆っていた闇が崩れていく。
嵐が消える。
赤黒い雲が裂ける。
「私の……権能が……!?」
サタンが呻く。
黄金の瞳に焦りが宿っていた。
アダムはゆっくり立ち上がる。
腕の中には、リリス。
彼女は最後、命令ではなく、自分の意志で彼を守った。
それが答えだった。
エバも震えながら空を見上げていた。
彼女は知ってしまった。
人間は、ただの道具じゃない。
苦しみの中でも、誰かのために泣ける。
リリスが証明した。
サタンの顔から余裕が消えていく。
「違う……」
彼は低く唸った。
「こんなはずはない」
その時。
アダムが静かに言った。
「お前は……最初から間違ってた」
サタンが睨む。
アダムは続けた。
「お前は人間を、欲望だけの生き物だと思ってた」
風が吹く。
崩壊したエデンを抜けていく。
「でも違う」
アダムはリリスを抱き締めた。
「人は、愛するために苦しめる」
沈黙。
サタンの瞳が揺れる。
理解できないという顔だった。
彼はずっと、支配しか知らなかった。
だから。
命を捨てて誰かを守る意味が分からない。
その時。
空に巨大な光輪が現れた。
サタンの身体が引き寄せられていく。
「やめろ……!」
彼が叫ぶ。
だが止まらない。
闇が剥がれ落ちていく。
宇宙から追放される罪人のように。
それでも。
サタンは突然、笑った。
狂気じみた笑みだった。
「なるほど」
彼はゆっくりアダムを見下ろす。
「確かに、お前は勝った」
黄金の瞳が細められる。
「だが」
その声に、ぞっとするほどの悪意が混じる。
「では最後に」
空間が震える。
サタンの口元が歪んだ。
「人類の本性を見せてもらおう」
その瞬間。
地平線の彼方で、巨大な地鳴りが響いた。
エバが顔を上げる。
「……え?」
遠く。
ノド機械王国の空が、赤く燃えていた。




