第99話 あんずの案ずる事
早朝、白んできた空が今日の始まりを告げる。
チチチチという雀の鳴き声が聴こえると、その姿は屋根の下にある密かに作ったであろう巣から飛び出していった。
桃様が起きるのはあと一時間ほど後でしょう。それまでアタクシはこの屋根の上からは動かずに一帯に敵の気配がないか警戒をしますわ。桃様を狙うものはいつどこからやってくるかわかりませんもの。
以前あの強大な力を持つ妖狐がここへ現れた際は桃様に知らせる間もなくアタクシの身体は踏み潰されてしまいました。この身が煙であったからあんなにも脆く散ってしまったのか、肉体を持っていれば違ったのかはわかりませんが……しかし次また同様の状況が起きた場合は、次こそはすぐ桃様をお守りできるよう強大な敵にも屈しないと誓いますわ。
桃様からはアタクシが常に様々な気配を察知するよう仰せつかっております。アタクシが誰より一番役に立っている自負はありますわ。桃様のお言葉は絶対、桃様の命令は絶対──
『主人の命令にはすぐ従え』
桃様の
冷たい声を思い出す。
学校の屋上で、放たれたそのお言葉。
桃様はアタクシにとって全て。
あの方がいたからこそ、今のアタクシがある。
罠にかかったアタクシに優しく手を差し伸べ、身体を癒し、きびだんごを分けてくださった。あの方がアタクシに触れてくださった瞬間から、アタクシはこの人の為に生きようと、あの強く正義を貫いた姿勢に全てを捧げようと思いましたの。今でもその判断は何も間違っていないと思いますわ。
何も。
だからあの日最初の主である桃様が戻ってきてアタクシに命令を下さった時、アタクシは────
アタクシは
何故か、恐ろしかった。
あんなにも愛した桃様が戻ってきたことを喜ぶべきだったはずなのに、アタクシの身体は嘴の先から羽の先まで石になったかのように固まってしまいましたわ。一瞬ですけれども。命令の言葉にすぐ動いたつもりではいましたが、どうしても判断が鈍りました。何故か。相手があの鬼だったからでしょうか。あの……桃間一樹様が愛する、鬼だったから。
桃様は正義を貫くお人でした。
その御心にアタクシは惚れこんでいたのでしょう。
だからこそ、戻ってきた桃様が『鬼』を退治することは何もおかしくありません。
ですが……
桃間一樹様にとっては、あの鬼は悪ではない。
この鬼を退治してしまえば、桃間一樹様が酷く悲しむのではないか。そのように考えてしまいました。桃様の命令は、絶対ですのに。
アタクシは、
アタクシは正義の何たるかを知らずにここまで来たのかもしれません。
桃様が語る正義が全てと思っていましたが、
正義とは
一本道ではないのかもしれません。
そう気づいたとして、アタクシにはどうする手立てもありませんが。
ただ、ただ桃様や桃間一樹様の命令に従うのみ。
ここにアタクシや、まろん、すももの意思はないのです。
「あれーあんずちゃん、おはー」
下から鬼の声が聞こえたかと思うと、地面をひと蹴りして鬼がアタクシの隣へと跳んで参りました。アタクシは微動だにせず前を見据えるのみ。
「今日も見張りご苦労様♪」
『貴女に労われたくてこうしているわけではありません。全ては桃様の命令です』
「センセーからの命令なら何でもやっちゃうのほんとえらいよね~。まろんちゃんやすももちゃんはどうしてんの?」
『桃様の中で待機しております。敵が出ればすぐにでも動けるよう』
「へーあんずちゃんは休まなくていいの?」
『アタクシたちは疲れを感じませんから』
「ふーん。んじゃさ、あたしがここであんずちゃんの代わりに見張りしててあげるから、休んでいいよ!」
『は……?』
この鬼はまた、わけのわからないことを。アタクシがギロリと睨みつけたにもかかわらず、何故だか鬼は自身の太ももをぽんぽんと叩いている。制服ではない服装を見るに、早起きをして支度を終えたというわけではないのでしょう。きっとこれまでどこかへ行っていたに違いありません。この鬼もまた、桃様を守る為に日夜人知れず戦ったり情報を集めているのを知っているのです。
「ほらーあんずちゃん、ここに頭のせんの」
『何故アタクシがそのようなことを』
「いーからいーから」
半ば強引に鬼の手がアタクシの頭部へと添えられると、アタクシは鬼の太ももへと頭を載せられた。
「毎日いい子いい子~えらいね~」
『………』
煙の身体であるアタクシの頭を、鬼が撫でている。──煙と言えど触れられないわけではない。戦いの時にも瞬間的に煙を一部固形化して物理的な干渉をする。煙に含まれる有機物を一か所に集めるわけです。……でも、別に今撫でられる為にそんなことはしていません。それでも鬼はアタクシの頭を形作る煙を撫でている。
『何がしたいのです』
「え? いつも頑張ってるあんずちゃんを褒めたいだけだよー」
『……貴女は、まだアタクシのことをよくわかっていないようですわね。アタクシは桃様の眷属、貴女とお友達なわけではありませんわ。ですから、桃様に命令されればアタクシはまた貴女を──』
──殺そうとする。
声には出せず、アタクシは青く澄み渡り始めた空を見つめた。
「……それってただの命令じゃん?」
鬼はあっけらかんとした声でそう言った。一瞬止まっていた手はまたアタクシの頭を撫でる。
「あんずちゃんたちがさぁー、桃太郎のお供なのはわかってるし。桃太郎に命令されたら何でもするのはわかってるよ。だから別にあたし気にしてない。だってそもそもあたし鬼だし!」
『………』
あはははは、という声が響き渡る。近くの木にとまっていた烏がバサバサと飛び立っていった。
「それでー、あんずちゃんはあたしのことどう思ってんの?」
鬼の指先が、アタクシの毛並みを整え始めた。
『………』
「やっぱさー、嫌い?」
『……貴女は、アタクシの桃様を取ろうとする厄介な女です。いつもいつも隣にいてひっついて──最近は、そうではないですが』
「ね~、あんましくっつくとガチで怒られんだよね。まあ、また桃太郎に身体乗っ取られたら~って心配してるわけだから仕方ないけど」
『……アタクシにとって、貴女は邪魔者でしかありませんわ。でも、消えてなくなってほしいと願っているわけでもありませんの』
頭をもたげて、アタクシを見下ろしている鬼を見上げた。
『アタクシは命令に従うのみ、ですが、もしアタクシがアタクシとして生きることができる日が来るのならば──』
「そん時は女子トークしよ!」
『………』
アタクシが起き上がると、鬼はその場に立って伸びをし始めた。首や肩回りがゴキゴキという音を立てている。
「やっぱさー、好きなひとの話とかしたいじゃん。あたしはセンセーが好き、あんずちゃんも桃様が好きなんでしょ? ならやっぱそこは女子トークするべきっしょ!」
『……意味が分かりませんわ』
「すももちゃんもきっと話に混ざりたいと思うんだよね~。まろんちゃんはー……ま、一緒にいるだけできっと楽しいんじゃん? センセーが全然帰ってこない日とか、あたしらでお菓子食べてジュース飲んで女子トークしまくろ! で、帰ってきたら『遅~い!』って怒んの! センセーってばマジ両手に花束すぎてウケんね! どの子と結婚する!? みたいな。あーでも結婚はあたし一択で!」
『何をおっしゃいますの! 桃様は未来永劫アタクシのものですわ!』
「あーだだだだだ、ちょっとちょっとクチバシで突かないでってばぁ~」
『この鬼! 鬼ー!!』
──足元の屋根の下で、桃様が起きる気配がしました。きっとアタクシ達のうるささに辟易しながらため息をついていることでしょう。アタクシもこの鬼の厄介さにはうんざりとしますわ。でももし、いつかその<女子トーク>とやらが開かれる日が来るのなら……
きっとアタクシが一番桃様の素晴らしいところを演説することができますわ!
──澄み渡った空に、今日は何事も無いことを祈ってアタクシは飛び上がった。




