第100話 河原礼司
──これは去年、僕が川下高校へ赴任してすぐの話。
職員室で席が隣になった『桃間一樹』先生は、一年と三年の化学を受け持っている人だ。授業以外はよく化学準備室に引きこもっていて、朝と放課後くらいしかほとんど職員室で見かけない。
僕が初めて挨拶をした時、彼はやたらと眠そうにしていて「ああはい、よろしくお願いします」だけ言ってすぐに仕事に取り掛かっていた。あまりにもつっけんどんで、僕は面食らっちゃった。けどそのガリガリで、頬がこけて、やたらと濃い目の下のクマに僕は心配っていう意味での興味が湧いた。
人生別におもしろいことなんて何もない、みたいな顔して毎日過ごしてる桃間先生を見ると、僕は妙にからかいたくなった。僕はこんなにも楽しく生きてるってのにこの人はどうして今にも死にそうな顔をしているのか。不服だったんだ。もっと楽しそうな顔をしてほしい。だから話しかけて、ご飯に誘って、銭湯に誘って。最初のうちは何しても「忙しいんで、いいっす」ばっかでほーんとつまんなかった。けど、それはある日やってきた。
「……一区切りついたんで、今日なら別に飲みに行っても良いですよ」
とある金曜日、外が暗くなってから帰ろうとしていた桃間先生はようやく雑務を終わらせた僕に向かってそう言った。あまりにも突然で、僕が驚いて瞬く間に目を輝かせると何故か桃間先生はむすっとした顔をしてた。
「じゃあ、僕の行きつけに連れてってあげますよ!」
「行きつけ?」
***
よっちゃん──花川丸吉がやっている居酒屋<花川柳>へやってきた僕はあれやこれやとおすすめの料理を頼んだ。桃間先生はビールばかり飲んでたけれど、僕が「日本酒はいけない口ですか?」と訊くと癇に障ったのか僕に合わせて飲んでくれた。転がしやすい人!
桃間先生は酒が入るとよく喋った。いや、酒が入ったからなのか、それともようやく僕に心を許したからなのかは定かじゃない。とにかく話してみると面倒くさがりで、そのくせ真面目で、上からの頼まれごとはなかなか断れなくて、かと思えば生徒には結構横暴で、でも勉強はちゃんと見てあげていて、優しさはあるものの目付きと態度が悪いせいで生徒たちからは嫌われていて。……この人、面白いなと僕は思った。
飲ませて酔わせて、いろいろ喋らせて、あっという間に桃間先生はそこに伏せって眠ってしまった。ありゃりゃ、飲ませすぎたか。はたまた桃間先生が酒に弱すぎたのか。
「──ちょっと礼司くん、この人同僚なんでしょ? こんなに飲ませて大丈夫?」
「だいじょぶだいじょぶ、家はちゃんと把握してるし!」
「そういう大丈夫じゃなくてさぁ~」
よっちゃんは呆れたように肩を落としながらグラスを拭いていて、それから「会計おねがーい」という声に「はい今いきますー!」とにこやかに返事をしていた。……ガラガラガラッと音立てて戸を閉め出ていった四人のグループ客が、本日の最後のお客。僕たちを抜いてね。よっちゃんはアルバイトの子に今やっている片付けが終わったら上がるように指示をして、カウンターに座る僕たちの前にまたやってきた。
「……で、彼が本当にその桃間だっていうの?」
ひそひそ声でよっちゃんが言う。突っ伏して顔も見えない桃間先生を見ながら。
「もちろん」
僕も同じように彼を見てにこりと笑った。肘をついてゆっくり観察するように桃間先生を眺め、それから人差し指で彼のこめかみ辺りをツンツンと突いてみる。起きやしない、ぐっすりだ。
「この人があの桃間の末裔だ。現在桃間の全ての力を宿してるのが彼、ゆえにあの日の桃に一番等しいのが、桃間先生だ」
その時アルバイトの子がよっちゃんに挨拶をして裏口から店を出ていった。これでこの空間には僕とよっちゃんと眠っている桃間先生のみ。僕は椅子の背もたれにもたれかかってだらしなく座った。
「見つけるのは本当に苦労したよ。だってこの人の父親、長男だっていうのに子どもができてすぐ丘山を出ていきなり北界道にまで飛んでるんだよ? そのあともいくつかの地域を転々としてさぁ。まるで僕から逃げるみたいに」
「ええ? 礼司くんから逃げてたわけじゃないんじゃないかなぁ。接点が無いんだから、理由もないでしょ」
「二十年くらい前にようやく足取り掴んだ時だって、弟たちには会えたんだけど本人には会えなくて、気づいたらまたお引越し! 山猫調査会に頼みたいところだったけど、あの山猫たち僕らを見るや否や涎を垂らすじゃない」
「あはは……きっと川魚の匂いでもするんだろうね」
「だからまーたどこ行ったかわかんなくなって、そのあとも探したけどどうしても見つからなくってさ~。……多分隠蔽の為に匂いも妖力も消されてたんだろうなぁ。誰がやったのやら」
まだグラスに残ってるお酒をクルクルと回して最後の香りを楽しむ。ぐいっと流し込めば熱を感じる喉に「かはーっ」と声を上げた。
「新聞に載ってた異動する教員の欄にたまたま名前があったから気づいてさぁ。僕もそこから慌てて教員免許取ったよね!」
「わざわざ教員免許取るなんて面倒くさいことするのもすごいよね。何年もかかるんでしょ?」
「いやぁ、それが僕ってば結構前に大学に通ってた時期があったからねぇ。まあその他にもいろいろと根回しをしつつー……」
「礼司くんは物好きだよ、ほんと」
物好き、と言われてきょとんとする。物好き、物好きかぁ。だってこんなにも長いこと生きてるんだから、同じ暮らしをしてたってつまらないじゃない。学校へ通ってみたりするのも暇潰しのうちの一つさ。ま、一緒に学んだ同期達も多分僕のことはすっかり忘れ去っているだろうけれど。いやはや、そもそも生きているのか老いて死んでいるのか。
「でも名前が同じってだけで、本当にその人が桃間の末裔かはわかんないんでしょ?」
「ふふん。わかるよ、僕にはわかる。香りは隠されてるし存在も不確かだけど僕にはわかる」
「ええ~、思い過ごしってことないの?」
「ないない。僕が言うんだから信じなさい!」
「礼司くんが言うから信じられないんだよ~」
「もしかして僕人望無い!?」
ああ~どうして~、と泣き崩れるようにテーブルへ顔を伏せる。けど、よっちゃんは何の反応も示さない。僕のこのオーバーリアクションも毎度のことだから飽きられてしまったんだろう。仕方なく居住まいを正して真っ直ぐによっちゃんを見た。
「僕はねぇ、よっちゃん。あの桃が、犬だろうが、猫だろうが、桃花鳥だろうが。どんな形に変わってもわかると思うなぁ。だってもう数えるのも忘れちゃうくらいの長い間僕はあの桃に恋をしてきたんだよ」
「恋と食欲って同時に存在し得るものなの?」
「食欲じゃないよ! あれはなんというかぁ……取り込みたい欲求?」
「猶のこと恋じゃないと思うよそれは」
「も~よっちゃんさぁ~最初は僕と同じ気持ち持ってたでしょ~!? なんでわかんないかなぁ! 人間に毒されちゃった!?」
「ど、毒されたわけじゃないよ! ただおれは……」
「……おれは?」
よっちゃんは少し言い淀むと、片付けをしていた手を止めた。
「おれは……あの日、ただの川だったおれたちの『桃に対する執着』をぜーんぶ礼司くんが引き受けちゃったことを、心配してるんだよ。おれや他の奴らはそのおかげで平和に暮らしてるけど、礼司くんは……」
ぎりっ、と歯を食いしばるよっちゃん。
その顔に浮かぶのは、後悔。
でも後悔したってどうしようもないんだよ。だって僕たちがただの流れる川から河童っていう妖怪になって身体を得た時、僕の中にはもうあの桃への感情があったんだ。誰か彼かに押し付けられたわけじゃない。ただもう、そこにあった。だからよっちゃんがどうこうできた話でもない。
「なんて顔してんのよっちゃん。気にすることないって! 大体僕はこの通り楽しく生きてるし! 桃間先生をいつか食べるのが生きがい! わくわくで毎日輝いてるとも~」
「そんなわくわく……いつか苦しむことになるよ」
「ならないならない! むしろ苦しんできたのはこの何百年もの間さ! 桃間の一族はそこにいるのに指をくわえて見てるしかない、これが苦しい以外の何物だってんだい? でも今は手立てがある。まず鬼の頭は盗むことができたんだ。鬼が復活すれば加護を受けてる桃間だってきっと倒せる! 鬼も封印させられた屈辱を晴らせてラッキー! 僕は桃を食べられてハッピー! いやぁ鬼が桃太郎を殺したがってるって教えてくれた彼に感謝だよねぇ」
「……鬼の頭を手に入れられたのはそれこそただのラッキーだよ。本当にたまたま、偶然隙があったからあの場所から持ってこられたに過ぎないんだ。力の弱い陰陽師の人間たちが配置されてて、ついでに何でかあの神社の力が弱まってたから……」
「………」
よっちゃんはこないだ僕らが行ったことを口にしては不安そうに震えている。その不安は何が理由か。人間たちや天狗から睨まれることを怖がっているのか、それともこの店を続けていけないかもと人間みたいなことを考えているのか。
「……神社の力が弱まったのはきっと、世界が重なる寸前だからさ」
「え?」
「いいや」
僕が知ってて、よっちゃんが知らないことも多々ある。
──世界が変わってしまうこと、
──この桃間先生がこれまでの先代とは違うらしいこと、
──そしてとある鬼のこと。
「ねぇ礼司くん、もしもだよ。もし、この先生と桃とか桃間とか関係なく仲良くなったらさぁ、その時は食べるのやめない? おれは気が進まないよ」
「ええ~?」
「きっと礼司くんだってそう思うはずだよ。おれたち人間が混ざってから何百年って生きてきてもう妖怪として生きるより人間として生きる方が身体に染み付いてるわけじゃない。……仲良くなった人間なんて、おれ、食べれないよ」
消沈した声。身体で表現するみたいによっちゃんはその場にうずくまってしまった。僕の座る場所からはその姿が全く見えなくなる。静けさが漂う中天井を見つめた。
「よっちゃんは優しいなぁ。そんな倫理観、みたいなものどこで拾い食いしたわけ?」
「……長生きするうちに身に着けただけ」
「長生きかぁ……僕たち本当に長生きしちゃったよねぇ。一度も死ぬことなくこんなにのらりくらりと生きてこれたのは、多分戦う力を持ち合わせてなかったからだ。こないだ盗んだ鬼の頭だけどさぁ」
「まだ持ってるの!?」
見えなくなってたよっちゃんが急に立ち上がってその姿を現した。
「持ってるよ~。川底に隠してるけど」
「さっさと鬼の封印を解いて桃太郎を倒させる、って言ってたよね?」
「うん。でもさ、良いこと考えたんだ。僕は鬼と交渉してみるよ。ほんのちょっと力分けてって」
「……無理じゃないの? 鬼と会話なんてできないよ。最古の鬼ってのはさぁ」
「ダメでも箱に残った欠片を集めて結晶体にするまで! どれだけ小さくても鬼の力だ、きっと強大だよ。それを使えば僕だってきっと強い妖怪とでも戦えるもんね!」
「結晶体にって、どうやってするわけ? 自分のじゃない妖力をどうこうするなんてのおれにはわかんないけど」
「国を歩き回ってた間にいけ好かない九尾の狐と知り合いになったからちょっと知恵を貸してもらおうかな♪」
「いけ好かないって何? それにしても九尾かぁ……それならどうにかできるのかもね。でも九尾の狐なんてお高く留まってる妖怪でしょ? おれたちみたいな河童に手を貸すと思う?」
「大丈夫大丈夫、あの狐さん目立つことと金になることが好きみたいだからさ。こんな面白い話なんだからきっと手伝ってくれるさ~」
「ほんとかなぁ」
「あとは保険として『桃間のせいで最古の鬼が復活するぞ~』って言いふらしときゃきっとどっかに釣り針が引っかかって、別ルートで桃間先生を倒してくれるかもしれない!」
「そんなまるでゲームみたいに……はあ……」
よっちゃんは大きなため息を吐くとテーブルに両手をついた。僕とは目を合わせてくれない。なんでか呆れちゃってるみたい。
「……ううん」
ふいに隣から呻き声が聞こえた。桃間先生だ。彼はむくりと起き上がると、目が開いていない癖に「お会計……」と呟いた。
「と、桃間先生起きましたか!?」
よっちゃんが慌てたように声をかけてすぐさま手元の伝票を拾い上げる。桃間先生はまだ夢心地って感じだったけどどうにか財布をポケットから取り出そうとしていた。さっきまでの僕らの話は……多分、聞いちゃいないだろうな。
僕たちは会計を済ませるとふらふらとした足取りの桃間先生を支えつつ店を出た。タクシーはすでに呼んである。アプリでタクシーを呼べる現代、めちゃくちゃ便利すぎない? まあ僕自身は酔っぱらって歩いて帰れない~なんてことないんだけど。なんなら歩くのも面倒だし向こう側の道を泳いで帰っちゃうもんね。
「さー桃間先生、おうちに帰りますよ~。タクシーのっけるから一人で帰れます~? それとも僕が一緒におうちまで行っちゃいましょうか♪」
「礼司くん、何しでかすかわかんないから家の中まで入っちゃダメだよ」
「何それどーゆーこと!? 僕が桃間先生を襲うとでも!? 僕はもっとぴちぴちでパツパツの女の子の方が好きで~す」
「さっきまで何の話してたか覚えてないの?」
小声のよっちゃんを他所に、僕は立ったまま寝かけている桃間先生の横顔を見た。すぐ近くにある。この頬に齧りついてみようか。いやいや、まだ確証が持てない中手を出すのはダメだ。僕はグルメだからね、一番熟れた時期に食べたいんだ。彼の正体をはっきりさせて、彼が僕の求めた桃だってはっきりわかって、そして抵抗なくゆっくりじっくりと食べられるその時までは。僕はいくらだって待つさ。
──呼んだタクシーが店の前にようやく着いた。
「よっちゃん、また来るね」
「うん、また桃間先生と飲みにおいで。今度はもっと料理メインで」
「あはは、この人酒弱すぎだよね! 潰すのも楽しいけど!」
「礼司くん!!」
僕はよっちゃんにひらひらと手を振って桃間先生を抱えながらタクシーへと乗り込む。「どこまで?」そう言って振り返るのはただの人間。僕は運転手に住所を伝えると、目を瞑って眠っている桃間先生の横顔を見て、その奥に流れる車窓を見つめた。暗い道が続いて、少ししたら灯りが明滅する街が見えた。見飽きた街灯りに僕は目を瞑ってシートにもたれかかる。
長い長い長い間焦がれてきたんだ。
だから桃間先生、
どうか僕がどんな選択をしても許してくださいね。
それじゃ──これからの僕たちに幸あれ。
ここまでで第五章終わりです。
来週からは第六章(最終章)開始しますので、どうぞよろしくお願いします。




