第97話 河童
「っぶはあ!!」
突如大量の水に押し流されて溺れかけた体はどうにか水面まで上がってくることができた。何が起きたのか全く分からない。水の流れは止まることを知らず、あっという間に元の叉鷹神社とは違う場所へと連れてこられている。
「どっ、どこだよここ……!」
とにかく迫りくる電柱に手を伸ばし、どうにかしがみつくと辺りを見回した。鬼村は……。
「やっと追いついた!」
鬼村の声が上から聞こえてきた。上から?
見上げると、近くの民家の屋根の上に鬼村は立っていた。わかっていなかったが、この大洪水は街の広範囲に及んでいるらしい。叉鷹神社の周りは住宅街だが、多分この様子だと駅前の店が立ち並ぶ辺りまで続いてるんじゃないだろうか。
「お前は大丈夫だったのか」
「へーきだし。だから言ったじゃん、急に水出してくるから気を付けてって」
「どう気を付けろってんだよ馬鹿野郎!」
そう吠えると、急に後ろから誰かに脇を抱えられ水から引き上げられた。敵かと思って振り返れば、そこにいたのはバサバサと天狗の翼を羽ばたかせる狗谷木だった。
「桃間先生~水めっちゃ吸ってて重い~」
そう言いながら、鬼村が立つ屋根の上へと下ろしてくれた。
「悪い、助かった狗谷木」
「先生もさぁ、オレみたいに翼とか生えねえの? ほら、あの鳥とか使ってさぁ」
「んなことできっかよ!」
「はー。じゃあもしかして今日オレってば先生運ぶ係?」
狗谷木はがっくりと項垂れるようにして俯いている。俺は神社のあったであろう方角を見た。河童はどこ行ったんだ。
「ねーセンセ、あいつの首見た?」
「首?」
鬼村に問いかけられ、俺は一瞬何のことかと首を傾げた。首、何かあったか? そういやチョーカーみたいなの付けてたんだっけか。
「あたしが河原見つけた時はさぁ、首に何もなかったんだよね。でもさっきセンセーと喋ってるとこに出くわした時は、あの赤いチョーカーみたいの付けてた。もしかしてあれ、鬼の妖力の結晶体なんじゃないの?」
「あれが? ってことはなんだ、あいつも元の力より強くなってるってことか」
「河童ごときの妖怪が使えると思えないけどね~」
鬼村が呆れた様子で言ったその背後で大きな水柱が立った。俺は驚いてつい動けなくなってしまったが、鬼村と狗谷木は戦闘態勢に入る。
「今僕の話してましたぁ~?」
河童が水柱の上に立ち、苛立つような表情で俺達を見下ろしている。
「あらら、狗谷木くんもパーティに加わってるじゃないの。やっほー、いいプールできたけど泳いでく?」
「あんたほんとに河原先生? 女の子にキャーキャー言われてるご自慢のツラはどーしたんだよ」
「ね~、僕もあっちのお顔の方が好きなんだけど~。まあでもここは本性見せないと、盛り上がる場面でしょ?」
「たかが河童が天狗様に向かって調子こいてんじゃねぇぞ!」
狗谷木が単身突っ込んでいく。羽団扇で強風を起こしていったものの、新たに現れた水柱によって威力は相殺され、そのまま大量の水が手のような形を作ったかと思うと、狗谷木を掴んで真下へ叩きつけた。
「狗谷木!!」
道路を流れる洪水の中に狗谷木が落ちていく。さっきは考えもしなかったが、今地面を覆っている洪水は簡単に人間を攫っていくだけの高さがある。って、じゃあこの辺りの人間たちはどうなったんだ!?
「おい河原ぁ! お前他の人たちまで何巻き込んでんだ!」
「あららら、桃間先生ってば主人公みたいなこと言うじゃないですか。ヒーローですね~」
「冗談言ってる場合か! お前こんな洪水起こして……人が、死んだらどうすんだよ!」
「どうもしませんけど」
「っ、はあっ……!?」
「どうもしませんよ、だって僕、妖怪ですもん」
にこりと笑う、あの、見慣れた軽薄そうな笑み。
「河原……お前……」
「いやぁー実はさっきの神社には鬼の胴体が封印されてましてね? ずーっと狙いは付けてたんですけどびっくりするくらい警戒されてたんですよ。僕ならうっかり近づいてもすぐには不審がられることもないんですけど、でもせっかくなら準備万端の状態で行きたいじゃないですか~。それで今日ですよ!」
「今日……?」
「天狗の方でも今日が『何かが起こる日』って警戒してたみたいで、陰陽師とか人間たちにも情報を共有していたみたいですね。それで各地でどんな事故が起こっても対応できるように配置をしたみたいなんですよ。で、そこの神社の方はすこーし手薄になった。あとは簡単! 僕がこっそり近づいて、向こう側へぽいぽいっと放り込むだけ! 彼らは天狗が作った札が無ければこっちには帰ってこれないですし、持ってても歪んだ場所から帰ってくるのはちょっと一苦労。……でもご安心を、重なってしまえば自動的に戻ってこれますから」
「その人たちは無事なのか!?」
「あー無事かどうかは知りませんね~。戻ってきた途端に僕に攻撃してきても困りますから、世界が重なったのに合わせてこうしておっきな洪水を起こしてるわけですよ。ほら、もう遠いし? 水浸しの中追ってくるのも大変ですよね~」
河童は後ろを向いて神社があるであろう方向を眺めると、うんうんと一人頷いた。
「おーっと狗谷木くん、そこで僕に雷の攻撃を喰らわせようとするのはやめてよね」
河童の真下付近の水の中に身を潜めていた狗谷木が、面食らったようにぎくりとした。河童は手の平からばちゃばちゃと音を立てて溢れる水を狗谷木へと浴びせながらため息を吐いた。
「君が雷なんて僕に向かって打っちゃったら、今どこかで水に浸かってる人間も一緒にビリビリしちゃうよ~? 僕はいいけどさぁ、桃間先生は嫌がるんじゃないの? あ、でも君も人間がどうなろうが気にしないか。同じ妖怪だもんね!」
躊躇うように狗谷木が俺を見た。
「やめろ狗谷木! お前だって別に人間が憎いわけじゃねーだろ! この中にお前の友達がいたらどーすんだ!」
友達の言葉は効いたのか、狗谷木は苛立ったように歯を食いしばると「ちくしょー! たかが水使えるくらいで調子乗んな!」と叫んだ。それと同時に急に水位が上がっていき先ほどよりも早いスピードで水が流れ出した。
「ちょっ、うわあー!?」
狗谷木は流れに逆らえずにそのまま流されて行った。
「あららら、僕がせっかく泳ぎ教えてあげたのに。実戦で使えないんじゃだめだなぁ」
「天! もーこんな時に何やってるわけ!?」
「鬼村ちゃんもよそ見しちゃだめだよ」
水柱の上に立っていた河童が俺達の立っている屋根の上まで跳んでくる。振りかぶるような動作をし、その手からは丸い水の塊のようなものを作ってこちらへ投げてきた。鬼村はそれを金棒で受け止めたが──まるで水風船のように水の塊は弾けて鬼村に水を浴びせた。その隙をついて河童が鬼村と距離を縮める。鬼村の後ろ髪を掴んだかと思うと、金棒ごと鬼村を放り投げた。
「!!」
あいつにそんな力があんのか、そう思いながら俺は煙草を取り出した。葉っぱは湿気てるか、ライターは点くか。不安に思いながらも俺は煙草に火を点け煙を吐き出した。遠くへ放り出された鬼村を猿の体が受け止める。そしてそのまま鬼村を手にのせると、勢いよくこっちに向かってぶん投げた。
「あれ? こないだは敵対してたんじゃなかったでしたっけ?」
おどけたように言う河童に、犬が咆哮を浴びせる。その音はうねる水柱や洪水に波紋を広げた。一瞬怯んだ隙に鬼村が金棒を振り下ろした。河童の手がそれを受け止める。攻撃が決定打にならない。俺は歯を食いしばった。
「っ、何のことだよ!」
「ほらぁ、桃間先生がおかしくなっちゃった時のことですよ。鬼村ちゃん殺しちゃいそうなくらい攻撃してたでしょ?」
「見てたのかよ……」
「この三匹のお供も困惑してません? 攻撃って言われたり、助けろって言われたり~」
「………」
「主人がおかしくなっちゃうと家臣ってのはいつだって謀反を起こすものですよ。この子たちもいつか桃間先生を裏切っちゃうかもしれませんね~」
「………」
吸い込んだ煙と共に体の内側に渦巻く妖力を吐き出した。
細長く形作っていくそれは──俺の手の内で<刀>となって姿を現した。
「でやぁっ!!!」
鬼村と拮抗している河童に向かって刀を振り下ろす。
──バシャン!!
切った! と思うのよりも早く河童は水になって姿を消した。
「ありゃ、桃間先生いつもの刀は使わないんです? あれ使えば僕のことも消滅させられるのに」
声が聞こえたのは少し離れた三階建てのビルの上。鬼村はその場で踏ん張るとすぐにそっちに向かって跳ぶ。俺も意を決して刀を握り直した。
「るせーな、俺には俺なりのやり方があんだよ」
「新しい刀なんて~どうやって作れたんです?」
「スパルタな鬼に教わったんだよ!!」
雉が俺の首根っこを掴み空へと飛び上がる。河童のいる場所まで飛んでいくと空中で俺を離した。俺が飛び降りていくのと同時にどこからか狗谷木も飛んできてそのまま河童に向かって拳を振るった。
「うらぁ!!」
「おわっとと」
「風も雷も使えなくったってなぁ! オレ様には自慢の拳があんだぜ!!」
「ちょっとちょっと~、副顧問に暴力やめてぇ~」
──狗谷木の拳、
──鬼村の金棒、
──俺の煙刀が代わる代わる河童を攻める。
のらりくらりと躱しては、水になって姿を消し、そしてまた現れる。
こんなんずっと続けてたら、俺の体力が一番先に無くなるぞ……。
「このっ、お前、おい河原ぁ!」
「んん~?」
「何が目的なんだよ!?」
「だからさっき言ったじゃないですかぁ。僕は桃間先生が食べたいんですよ」
「はあ!?」
ひょい、と河童が屋上の手すりに乗って立つと咳払いをして喋り出した。
「河童ってのは~そもそも河童じゃないんですよ」
そこまで言ったところで狗谷木の拳が顔面へどストレートに入った、その瞬間河童は水になってばしゃんとその場に落ちていく。が、またすぐに元の形を作った。
「僕たち河童は元々一つの大きな川だったんです。山から下流へと流れていく大きな川。まあその頃は特別何かができたわけじゃないんですけどね?」
鬼村が金棒でフルスイングする。横っ腹に当たったと同時にまたばしゃんと水がその場に落ちていった。河童はまた元の形を作り手すりの上に立っている。
「ちょっとちょっと、先生が喋ってる時は静かに聞きましょうって習わなかったの!? 君たち席に着いて!」
「どの口が言ってんだ河童」
「先生らしくすればー? 河童」
「ちょっと桃間先生~!! この子たち躾がなってませんけど~!?」
「俺は保護者じゃねっつの」
俺は仕方なく刀を持つ手を下ろして話を聞く姿勢を取る。鬼村と狗谷木は攻撃体勢は解かなかったものの、河童が喋り終わるのを待つようだった。
「だからね、僕らはただの大きな川だった。そんなある日ですよ、どこから落っこちてきたかわからない桃が流れてきた。そもそも桃なんてもの僕たちはそうそう見たこともなかったんですけどね、その姿がどうも気になって仕方がない。つるりとしたフォルム、華やかな香り、齧れば一体どんな味がするのか。想像を掻き立てるわけですよ。でも僕たちは齧る口も無いですからそんなことは夢のまた夢。それでもその桃が川の上を流れていく間は何とも沸き立つような感覚に心が躍るわけです。心なしかその桃から溢れ出る『気』が僕たちにも浸透していくようでした。そんな心地良さを覚えていた時ですよ、
人間が、
僕たちの上から、
桃を拾い攫って行った」
口を開けたまま、肩を落とし、そして息を吸い込む河童。
それからやれやれと首を振った。
「たった一つの桃が失われただけなのに僕たちの喪失感ったら無かったですよ。僕たちはただの川。何か特別なものでもない。それなのにあの桃が浮かんでいるあの瞬間だけは特別でいられた気がしたんです。何ででしょう、その内に秘める力のせいですか? その時の僕の頭では何も考えられやしなかったんですけどね、そのうち、僕も体を手に入れる日がやってきた」
パン、と音が鳴る。河童が両手の平を合わせ叩いたのだ。鬼村は金棒を、狗谷木は自分の拳をぎゅううっと強く握った。
「人間たちに河童という概念が生まれたんです」
にたり、とその湿った顔に笑みが広がった。
「最初こそ名前も姿もあやふやでしたがね、そのうちどんどん形は定まっていった。そしてある日僕には体が出来上がった。初めて自分を認識した時は何とも言えない感覚を覚えましたよ。僕たちじゃない、僕だ。僕だけの、僕! なーんて素晴らしいんでしょう! でもね、僕が真っ先にこの身体でしたかったことは、あの日の桃を食べることだった」
ばちゃ、と音を立てて河童が手すりから飛び降りた。
べちゃ、
ぴちゃ、
と歩いて俺の方へとやってくる。
途中鬼村が河童の腕を掴むも、右腕は溶けるように水となって落ち。
狗谷木が慌てて河童の足にしがみつくも弾けるように水となって消え。
瞬間的に体を得た河童は、俺の左手を両手でつかむと、嬉しそうに頬擦りをした。ぬめりを帯びた肌に俺は鳥肌を立てる。
「これこれ、ああーほら、桃間先生は本当にいい匂いがしますねぇ。あの日感じたものとおんなじだ。僕はね、この身体を得てからすぐさま人間へと形を変えた桃を探しに行ったんですよ。そうしたらびっくり! いい香りのする人間がたーくさんいて! なんて素晴らしいんだろうって思いました! この人間たちひとり、ふたり、ぜ~んぶ食べてしまおうって! でもねぇー……近づけないんですよ。あの桃には破邪の力なんてものが備わっていたらしくてですね、僕たち妖怪は手出しすることができなかった。一番香りのいい人間も見つけたんですが、それはもっと効果が強くて本当に遠くから指をくわえて見ることしかできなかったんですよ。わかります? 僕が五百年もの間恋焦がれた桃がそこにあるのに触れることも舐めることも齧ることもできないんですよ。せっかくこんなにも大きな手があるのに、こんなにも長い舌があるのに、こんなにも立派な口があるのに。本当にがっかりしましたよ。どうしたらあれを食べられるのか。毎日毎日毎日考えたものです。その間何も食べないのも味気なくて、美味しいものもたくさん探しましたよ。その中でも良かったのは尻子玉だ。あ、尻子玉って知ってます? 人間の水死体からずるりと取り出すんですけどー……何が良かったってね、あれ、尻から出すんですよ。ふふっ、だって似てるでしょう? 桃の形に。桃を食べるまでの間の辛抱だって思って食べ始めたらなかなか良くって、まあ、食べ過ぎたおかげで今妖怪とも人間とも区別のつかない生き物になっちゃったんですけどね。おっとこの話はあとで鬼村ちゃんにでも聞いてくださいな。──生きてたらの話ですけど」
目の前の河童が、みるみるうちに膨れ上がり、水流となった。それは俺を呑み込むように襲い掛かってきたが──
右手に握った刀で勢いよく切ってやった。
二つに分かれた水はその場でばしゃんと崩れ落ちる。
狗谷木が急に俺を抱きかかえたかと思うと空へと飛び上がった。
「おい!」
「どこまであの水が襲ってくるかわかんないけどさ~、とりあえず上まで行こうよ。これ、美鬼ちゃんのお願いだから」
「つったって鬼村が一人になるだろ……!」
そう言ってすぐ、鬼村が屋上からこっちへ向かって跳び上がってきた。んなことして、翼があるわけでもねーのにどうやって……
「センセ、あんずちゃん貸して!」
「!」
すぐさま俺の念に答えてあんずが近くまで飛んでくると、鬼村はあんずの足をがしっと掴んだ。
「あたしの負荷がかかってる分あんずちゃんの煙の消費も激しいからさぁー……センセーは煙草ぷかぷかしててよね」
何を無茶な、と言おうと思ったがそれは声にはならなかった。
街全体を覆っていた水が一気に立ち上り、
それは大きなうねりを見せながら俺達へと攻撃してきた──。




