第86話 山神と子狐
今よりも遠い昔。
まだ人々が自然を信仰し、その為には生贄を捧げることも厭わなかった時代。
身体が弱く、日々の野良仕事すらまともにこなすことのできない女がいた。
女は誰よりも薬草を仕分ける目が利いたので、床に臥せったままで女にできる数少ない仕事をこなしていた。
また女には心を通わせていた男がおり、男は野良仕事を終えたその足で毎日のように女の元へと通っていた。
いつか一緒になれるものだと、互いに思っていた。
ある日女はとても大事な話があると両親とその村の長から床から起きるよう促された。
女は弱い身体をどうにか引きずり起き上がり、座っているのもやっとな体で話を聞いた。
なんと、此度村中の推薦によりこの女に大層な役割を与えることになったのだという。
それは村を守り、そして後世に語り継ぐ程の事だと村の長は声高に語った。
両親は肩を抱き合いながら安堵したように頷いている。
だが女にはわからなかった。
それが一体どんな役割なのか。
そしてその日以降、野良仕事を終えた男が女の元へやってくることは無かった。
女がその役割を全うするという日、女には透き通る程に白い綺麗な着物が与えられた。
これほどまでに繊細な織物を見たことがなかった女は驚き、こんなものは着られないと言ったが、両親も、村の長も、手伝いに来た村の女たち誰もが首を横に振った。
女は恐る恐るその着物の袖に手を通し、苦しくなっていく胸を宥めつつどうにか着つけを終えると久方ぶりに家を出て村の中を歩いた。
村の長を先頭に、女を駕籠に乗せ運ぶ者、そしてその後ろには両親、それから村の民たち。その中には女と心を通わせていた男の姿もあった。
女は一体どこへ連れられて行くのかわからなかった。ただ、これによって今まで自分の世話をするばかりだった両親が報われることになるのなら、と、女は疲弊していく身体を抱きしめつつも誇らしげに目を伏せた。
ごとん、と、駕籠を下ろした先で村の長は駕籠の外から言った。
『これより外から話しかけられるまで決して外に出てはいけない』
『声を上げることも許されない』
『お前が受け入れられた際には、必ず、必ずこの山と我々を守り抜くよう祈りなさい』
──と。
女には一体何のことかはわからなかったが、駕籠の隙間から見える村長の目を見て一つ頷いた。
それから外ではしばらくの間足音が鳴り響いた。
どうやら女と共に歩いてきていた村の民たちが元来た道を歩いて行く音のようだった。
これから一体何が起こるのか、女は徐々に呼吸を荒げながらもじっと待っていた。
だが、一向に何も起こらない。
律儀に正座をしていたものの、身体は耐え切れずに駕籠の中でうずくまるように横たえてしまった。
だが、それでも一向に何も起こらない。
籠の外から聞こえるのは、
鳥の囀り、
木々の葉擦れ、
遠くの川の流れる音。
これが一体何を意味するのか、女にはもう、考える余裕など残されていなかった。
再び女が目を開けたのは、辺りが暗く、空気が冷えた頃だった。
女は自分が一体何をしていたのかすぐに思い出せず、そしてハッとした。
もしかすると自分は外から声を掛けられていたことにも気づかずに寝入っていたのではないのかと。
慌てた女は僅かに躊躇しながらも、駕籠の中から這い出た。
そして女の目に映ったのは──暗がりの中、木々に囲われた場所だった。
女はこの場所を知らなかった。
だが、話に訊いたことはあった。
ここは山の神へ捧げものをする場所だ、と。
農作物が良く穫れた時にはここへ農作物を捧げ、狩りで動物を多く捕らえた時には動物の一部をここへ捧げるのだ。
だが最近は農作物も、動物も、捧げることがなかった。
女も話には聞いていた。
いつの頃からか農作物も減り、狩りに出ても一匹も捕まえられずに戻ってくることが増えた。
村は喘いでいたのだ。
そこでようやく女は気づいた。
──ああ、
──私は捧げ物だったのだ、と。
山の神に女を捧げ、それにより村がまた豊作になり、満足に狩りができるようになるように、と。
女は駕籠を下ろされた先の大きな岩の上に腰かけた。
突き刺すような冷たい空気に耐え切れず、自分の身体を抱いた。
白く美しい着物は、この寒さを堪え凌ぐ為のものではなかった。
木々の向こうから、時々何かの足音が聞こえた。
それが女を狙っていることは、女にも、わかっていた。
あの足音が山の神であることを、女は願った。
だが、
それは決して山の神ではなかったのだと──無残にも肉を引き裂かれ、息絶えた後で女は気づくのだった。
***
意識をはっきりとさせたのは数年が経ってからだった。
女だったものは、今や山を見下ろし、その麓にある村までも見通している。
女は山の神に生贄として捧げられることはなかった。
女は、女こそが山の神と成ったのだ。
この山にはそもそも神はいなかった。
この山を守る存在はそもそもいなかったのだ。
山の神は自らの役割を受け入れ、全うした。
この山を守ることこそ自分の役目。
死にゆく木々を見送り、生まれゆく植物を芽吹かせ、小さな世界での生き物たちの循環を見守った。
『そんな話を聞いてもつまらないだろう』
山の神は自分の足元に佇む小さな獣に言った。人間と違い、獣や植物たちは神と話すことが多々ある。彼らの魂は人間よりも自然に近いからだ。
『いいえ! もっとお話しください! 人間だった時の山神様は一体どんな方だったのですか!』
『ふむ……つまらない女だったのだ。何もできず、弱りゆく体はすぐに死ぬこともできず、ただ只管に生にしがみつくような、そんなものだった』
『生きていたかったということでしょうか!』
『いや……そうではないだろう。ただその時は、執着があったのだ。私と共にいた男への』
『男、とは? 雄のことでしょうか?』
『ああそうだ。女よりは男の方が動物に近かっただろう、雄と言っても過言ではないな』
『その男は──』
小さな獣は何かに気が付いたように慌てて草村の中へと体を隠した。しばらくして今しがた獣がいた場所へやってきたのは、大人の男と、子どもの男であった。
大人の男は背負っていた籠の中から切断された肉の少ない動物の手足を、子どもの男は背負っていた籠の中から獲れたばかりの農作物を。それらを平たい岩の上に置くと、手を合わせ、何事か呟くと立ち上がり、また来た道を戻って行ってしまった。
小さな獣は人間たちの気配が完全に消えたのを確認すると、男たちが置いていったものをしげしげと見つめた。
『これは一体何ですか?』
小さな獣の問いに、山の神はしばらく黙っていたものの深いため息を吐いた。
『捧げ物だ』
『これが山神様が言っていた捧げもの! 山神様が食べるのですか?』
『この山の獣達や虫達が食べ、血肉とする』
『山神様は何をお食べになるのですか?』
『何も』
『何も? お腹は減りませんか?』
『……住処へ帰るがよい。直に日が暮れる』
小さな獣はまだ何か話したそうにしていたが、山の神に促されて仕方なく木々の奥へと走り去っていった。
***
夜も更けた頃、小さな獣は母に気づかれぬようそろりそろりと住処を抜け出し、山を下りた。小さな獣は度々、こうして山を下りて遊びに出ていた。母もそれに気づいていたことだろうが、止めはしなかった。が、帰ってくると懇々と説教が始まることは小さな獣もわかっていた。
いつもならばあまり村の方へは近寄らないのだが、今日に限っては小さな獣は村のそばまでやってきていた。何が小さな獣をそうさせたのかはわからないが、それが今日一番すべきことのように思えたのだった。
村は獣避けの為に火を焚いたり、田畑を荒らされないよう見張りを立てていた。それらを掻い潜り、いくつかある建物のすぐ傍でうずくまる犬に気取られぬよう、小さな獣は村の臭いを嗅ぎまわってはきょろきょろとしていた。
そしてとうとうとある家の前で、小さな獣は立ち止った。今日嗅いだばかりの臭いがふいに鼻をついたからだ。
小さな獣は家のすぐ傍に体を寄せ、耳を澄ませた。
聴こえてきたのは男と女の会話だった。
それを聞くに、どうやら男の方は肉の捧げものを持ってきた人間らしい。そして女の方はその奥方であろう。
会話は途切れ途切れで、何かをしながら話しているらしく小さな獣には要領を得なかった。がしかし、気になることを男が話し出した。
──あの時あの女を生贄に捧げたことで村はとても豊かになった。
──それによっておれ達も一緒になることができたのだから良いこと尽くめだ。
──そうでなかったらこの体も隅々まで堪能することなどできなかっただろう。
──あの女が相手だったならば、子どもなど一人も望めやしなかった。
──おれは本当に運の良い男だった。
小さな獣は、全身の毛を逆立てた。
男が山の神の話に出てきた『男』だということに気が付いたのだ。
そして歯を剥きだし、目を見開いた。
次の瞬間、小さな獣は姿を変え、家の戸口に向かって声を張り上げた。
『お前たちが捧げものだと言っていた女は、神になど捧げられていない。ただ獣に食われ悍ましい痛みを知って息絶えたのだ!』
叫びに驚いた男と女は慌てて家から飛び出してきた。そして、かつて捧げものとして山へと置き去りにした『女』そっくりの姿がそこにあることに悲鳴を上げた。
小さな獣は僅かながら人間を騙す力を持っていた。人間たちはそれによって勝手に女の幻覚を見たのだ。
小さな獣は更に咆哮しようとした。山の神を慕っていた小さな獣は、この男を許せなかったのだ。だがしかし、声を荒げようとしたその瞬間──
──ドオオオオオオオオオン!!
激しい轟音と共に、未だかつてない程の地震が起きた。
その場にいた誰もが何が起こったのかすぐにわからなかったが、小さな獣は山の方を振り返って唖然とした。
月明かりに照らされた山が、僅かに抉れている。
山の一部が吹き飛んでいたのだ。
気づいた村の民たちは次々に山の神の怒りだと震え、そして小さな獣が今まさに脅かしていた夫婦は地面に額を擦りつけて命乞いをし始めた。
小さな獣は後ずさりし、それから一心不乱に山に向かって駆け出した。
山中では多くの獣たちがどよめいていた。抉れた地の近くに住処を持っていた者たちは慌てふためき遠くへ遠くへと走り去っていく。
小さな獣も住処へと向かったが、もうどこにも影も形も残っていなかった。
『──生きていたのか』
声が聞こえたのは、小さな獣が戸惑いながらも走り、辿り着いた先でのことだった。いつもは足元しか見えない大きな山の神が、この時ばかりは人間程の大きさへと変化し小さな獣を抱きしめた。
山の神曰く、先ほどの轟音は鬼が暴れたせいらしかった。
鬼と呼ばれるものはいくつもの災厄を振りまき、時には暴れあらゆる土地に天災をもたらすのだという。
『お前の住処は無くなってしまった』
小さな獣は山の神に体を撫でられ、静かに目を伏せた。まだ独り立ちには早かったが、それから小さな獣は自分の足のみで生きていくことを覚えていった。
──この大地震を山の神の怒りだと信じた村の民たちは長い間多くの捧げ物を持ってくるようになった。それを見て小さな獣だった<獣>は、訝し気に唸り声を上げる。
『あの者は殺さなくていいんですか? あの男は山神様を捨てて他の女を選んだのです』
『お前は随分と人間のような怒りを持つのだな。面白い。だが私は人間のことはもう良いのだ』
『でも! 男とはまこと醜く汚い生き物だと悟りました! 私はあのような生き物を許せません! 死に絶えるべきです!』
獣の咆哮に、山の神はしばし驚いたように何も言わなかったが……すぐに小さな笑い声を上げた。
『そうか、だが……お前も雄の狐だ。人間の男と似通った部分はあるやもしれぬぞ』
山の神の言葉に、獣は自分の身体をしげしげと見つめた。
『これが……雄』
何事か考えたのち、獣は静かにその場を離れた。それきり獣は山の神の元へ姿を見せなくなった。獣がどこへ行ったかは、山を飛び出していったところまでしか山の神もわかっていない。あまりに遠くへ行き過ぎた為にその気配を認知できず、獣は死んだものと山の神は思っていた──。
***
「──なんて昔話、恵子ちゃんは覚えてはる?」
午前中、外で作業をしていた白井狐太郎が校舎に向かって投げかけた。すると渡り廊下の開いている窓から顔を覗かせていた山上恵子が瞬きせずに答える。
「覚えていますが、あなたも随分と長生きをしたものですね」
「気づいたら妖狐になっとって、せっかくやさかいこの力で悪い男たちをぎょうさん誑かして遊んだろうって思てな? 」
「随分とイタズラ好きになってしまったようで。それに、昔はあなたも普通に話していたと思いますが……その言葉遣いは一体いつから?」
「キャラ作りってやつやで。うち今Vテューバーってのやってんねん」
「知っていますよ」
「あら、知っとったん?」
「ええ、実は少し前から」
山上恵子は滅多に動かない口元に笑みを浮かべて小首を傾げた。
白井狐太郎は驚いたようにし、水の出ているホースを花壇ではない地面へと向けている。
「幼い子狐がまた一人で腹を立てないよう、見張ってなくてはいけないもので」
そう言って山上恵子はカラカラと音を立てて窓を閉め、事務室へと帰ってしまった。白井狐太郎はその姿が見えなくなるまで、目で追った。
「何? 今回のはうちの勝手な暴走って言いたいわけ? 最古の鬼がまた暴走するようになったら今度こそ山壊されてまうかもしれへんし、そないしたら悲しそうな顔するやないの。あんた」
白井狐太郎は水の出るホースの先端をシャワーに切り替えると、花壇全体に水を撒いた。
「でも……あないな顔もするんや。うちはあんたの寂しそうな顔しか見たことあらへんわ」
水を浴びまだ日陰の中で暑い日差しから逃れている花々が僅かに風に揺られた。白井狐太郎は背の高い身体を半分に折るようにしゃがみ込んでそれを見つめ、先ほどの山上恵子と同じようにうっすらと笑みを浮かべる。花は笑みを返してくれるわけでもないが、ただ浴びた水をぽたりぽたりと土に垂らし、彼に何か言葉をかけているようにも見えた。
「はーあ、あの鬼も人間もうちが殺したろう思たけど、もうどうでもええわ」
立ち上がり、渡り廊下を振り返る。誰かがそこを通っていったが、顔は見えず行ってしまった。白井狐太郎は目を細め、もう誰もいない渡り廊下を外から見つめた。
「これからどんなんが待ってるのか、今度はただの観客として楽しましてもらうとしよかな」




