第81話 朝の会話
──体が浮遊している。
上下の感覚がなく、今俺がどこを向いているのかもわからない。
夢だ。
夢の中で、俺はぐるぐると回転させられている気がする。
吐き気がしそうだ。
でも夢だからか……吐き気を感じさせてくれやしない。
とにかくこのわけのわからない感覚を早く止めてほしかった。
俺はなんでこんなところにいるんだ。
何か聞こえる気がする。
人の声か。
女と、男?
ああこれ、母さんと父さんだ。
──そう思い少しほっとしたのも束の間。
『ちょうどいい頃合いか』
三人目の声が冷たく言い放った。
***
目を覚ますと全身に汗をかいていた。これだから夏は嫌なんだ、朝からシャワーコースが決定してしまう。
「ったくエアコンつけてたはずなのに、よ……?」
布団から体を起こしたところで、ふと、隣に気配を感じる。
そっと振り返ってみれば
──そこには鬼村が寝ていた。
「! っ、お、お前……!」
俺が起きたことなど気づいていない様子で鬼村は静かに寝息を立ててそこに横たわっている。また俺が寝た後に勝手に部屋に入ってきたんだろう。
「おい!」
そう声を上げて体を揺らすものの、起きる様子はない。苛立ちを覚え再度強く体を揺らしてはみたものの、特に意味はなかった。
「こいつ……鬼って寝なくても平気なんじゃなかったのかよ」
ここまでぐっすり寝ているのを見ると、鬼にもやはり休息というものが必要なように思えてしまう。いや、じゃあ今までは何で何日も寝ないでいてもなんともなかったんだよ。
「………」
身動ぎもせず、寝言を言うわけでもなく、ただそこでじっとしたまま寝息を立てている様子に俺はつい顔を近づけて魅入ってしまう。
整った顔立ち、
長いまつ毛、
柔らかそうな唇。
無意識の内に喉が鳴った。
起きている時ならうるさくて敵わない。
でも、寝ている今なら。
今だけなら。
そんな言い訳を頭に思い浮かべて、俺は、ゆっくりと唇を近づけていった──
「……うーん」
突然唸り声を上げた鬼村に、俺は慌てて体を離す。だがそのまま距離を取ろうと後ろへ後ずさったのが良くなかった。
──ゴンッ!!
「ってぇ……!」
後ろの壁に後頭部をぶつけ、俺は思わず体を小さく丸めて痛みをこらえる。眼鏡をかけていないぼやけた視界の中で、鬼村がもぞもぞと動くのが見えた。
「ん~っ! よく寝た~。おはよセンセ! ……ってそこで何してんの?」
「………」
「えー何なんで朝からそんな睨んでくんの~? 一緒に寝てたからぁ~? もーセンセーってばほんと恥ずかしがり屋だなぁ~。いーじゃん一緒に寝るくらい」
鬼村はそう言うと布団から起き上がり、俺の横を通ってスタスタと歩いて行ってしまった。どこへ行ったのか。俺は布団のそばに置いていた眼鏡を取りつつ耳を澄ませていると、洗面所の方から水を出す音が聞こえてきた。そして足音が戻ってくる。俺の横で音が止まり見上げると、歯ブラシを口の中に突っ込んだままこちらを見ている、鬼村。
「歯ブラシとかバスタオルとか~、お泊りセット完璧にしといたからあたしいつでも泊まりに来るから。あは♪」
「……来なくていい!!」
「めっちゃキレてんだけどウケる~」
歯を磨きながら少々聞き取りづらい言葉を発し、鬼村は去っていった。洗面所への戻り際にテレビもつけていったのか急に部屋に音が増える。俺は痛みが和らいだ後頭部を摩りながら立ち上がると、あちこちの関節が悲鳴を上げる体をうんと伸ばした。
──戦闘からすでに一週間が経過している。あの白い化け狐、土御門曰く『玉藻前』と言っただろうか、あいつは対妖情報機関が連れて行ったが……妖怪相手に尋問でもするんだろうか。というか、できるのか? あいつらあっちとこっち簡単に行き来できるから逃げるのも簡単なんじゃ……。
「うわすっご。今日のネットニュース杏狐様のことばっかなんだけど~」
洗面所から戻ってきた鬼村が、スマホを片手に戻ってきた。俺は横を通り過ぎて換気扇の下に陣取る。
「は? 杏狐様? ってあれか、土御門が好きなVテューバーか」
「こないだからさー、杏狐様の安否を心配する声とか結構多いのー。配信もだけどSNSとか毎日何かしら投稿してたっぽいからぁ~。『音沙汰のなかった玉萌杏狐様、一週間ぶりに配信告知!』だってぇ。まーそりゃねー」
「そりゃ、って……なんだ?」
煙草をくわえたところで問いかける。鬼村はきょとんとした顔で俺の方を振り返ったが──それから目を細めて笑った。
「あれ? センセーまだ気づいてない系? ナツメちゃんだってでかい声で呼んでたのに」
「は? なんだよ」
「まーいっか。別にこれから関わりあるかどうかなんてわかんないし」
「いや、だからなんだよ!」
俺の声など聞こえていないかのように鬼村は鼻歌を歌い始めた──と思うと、いつの間にか鴨居に引っかけてあったハンガーから制服を外し、そこで当たり前のように寝間着を脱ぎ始めた。
「!!」
慌てて後ろを向き、煙草に火を点ける。カチカチカチカチ音を立てるもなかなか点かないライターに苛立った。くそ。目の前で着替えなんて始めるなよチクショウ。
「セーンセー」
「っ、な、なんだよ!」
「こっち向いてもいいよー? ほら、可愛い下着姿のあ・た・し♡」
「見るか馬鹿もん!!」
ようやく火の点いた煙草に安堵し、俺は深く深く、深く煙を吸った。
***
まばらに人が道行く中、勤務先の川下高校前まで辿り着くと校門前には黒く艶やかに光る高級車が停まっていた。唐突に出てきた非日常的な額だろう物に俺は辟易とする。この車を見るのは二回目だ。
車の窓が開いたかと思うと、中にいる人物が俺と鬼村に向かって小さく手招きした。
「貴方たち、先日の戦いではだいぶ消耗していたようだけれど……鬼の方はもう大丈夫そうね」
「あたし? ちょー元気! センセーがあたしに妖力戻し──むぐっ」
なんとなく鬼村が余計なことを言いそうな雰囲気を感じた俺はよく回る口を右手で封じておいた。
「桃間さん……の方は、元気なのかしら?」
「ああ、まあ……大丈夫だ。それでどうしたんだ? 朝から俺達の心配をして来たわけじゃないだろ?」
「ええ、心配なんて然程していないわ。まず先日の妖狐のことだけれど……話した通りやっぱり玉藻前で間違いないわ。ただ封印から逃れてからは、闇狐と名乗っているらしいわね。闇に狐と書くそうよ」
「あんこ……?」
俺は最近よく聞いた名前と同じ音に困惑する。そんな偶然があるのか?
「……驚いているようね。まあ、そうよね。私も気づいた時は驚いたわ。
そう、この妖狐はね……
玉萌杏狐と、同一人物よ」
俺はしばしの間黙り込んで土御門を見ていた。玉萌杏狐というVテューバーは土御門が好きなキャラクターだったはずだ。投げ銭をしたり、コラボカフェにも行くくらいの。そして、今朝鬼村が言うには最近音沙汰がなかったということは……。
「……あー、大丈夫か? もしかして、結構ショックだったんじゃ……」
「ショックに決まってるじゃない!」
間髪を入れずに土御門が叫び、俺は思わず鬼村の口から手を放した。鬼村は俺を振り返り、何やら呆れたような顔をしている。なんだ、俺が悪いってのかよ。
「あんなにも必死に応援していた杏狐様が、まさか、妖狐だったなんて……ッ!」
「そ、そうだよなー……そんなん知ったら、ファンやめたくもなるよな~ははは……」
「ファンをやめるですって?」
急に冷たさを帯びた声に俺はぎょっとする。だが、土御門は何事もなかったかのように一度咳払いをすると、俺と鬼村へ目配せした。
「……まあ、いいわ。その妖狐だけれど、今日から貴方たちに日中の監視を任せることにしたわ」
「は? 監視?」
わけのわからない話に俺が眉間に皺を寄せると、土御門はスッと俺達の後ろを指差した。思わず指先の方向を振り返る。うちの高校の門があり、その先には──
「今日からあの男は、川下高校の用務員として勤務することになったわ」
ぽつん、と佇む何者か。
長い髪を結い、
似合わない用務員服に身を纏った、
細身で長身の男。
帽子をかぶっている為表情はわからないが……ひらひらとこちらへ向かって手を振っている。
「あいつは……?」
「あれが闇狐よ」
「はあ!? え、玉萌杏狐って中身は男だったのか!?」
「中身なんて言わないで頂戴」
「はい!?」
「とにかく、あいつから聞き出した話からここに置いておくのが最適と踏んだのよ」
「いや、いやいやいや大体俺と鬼村の二人だけで強い妖狐なんてもんを監視するなんて……!」
「いいえ、二人じゃないわ。三人よ」
土御門は小さく肩を竦めてため息を吐いた。
「いるでしょう、山神が」
それだけ言って、土御門は窓を閉じようとする──が、途中で思い出したように閉じる窓を一時停止させると話し出した。
「そういえば……妖怪に近づく男の話を聞いたのだけれど」
「妖怪に近づく男? って、なんだ?」
「私もよくは知らないわ。調査しようとしても姿が掴めないのよ。少し前に仕事で人魚がいる海へ立ち寄ったのだけれど……その人魚から、その男の話を聞いたのよ。分けた前髪、切れ長の目、顔に目立ったほくろは多分ないわ。そんな妙な男がもしいれば教えてほしいの」
「おいおいそんな特徴でどうやって探すってんだ。写真とかはないのか?」
「絵はあるけれども……」
そう言って土御門は鞄の中からスマホを取り出すと、俺達に画面を見せた。映し出されていたのは古いタッチで描かれたイラストだ。
「いや、さすがにこれじゃわかんねーだろ」
「そうよね、ごめんなさい。聞かなかったことにしていいわ。それじゃ」
そう言って今度こそ車の窓が最後まで閉じられると、高級車は静かに滑り出し、近隣にある私立小学校、加間倉学園の方へと走っていった。
「なんだったんだ……」
そう呟くも、先ほどの男のことを思い出してはっと振り返る──が、姿はもうそこには無かった。
「ほんと、何なんだよ……監視って、まためんどくせーこと押し付けやがって」
「うーん……」
「……ん? 鬼村、どうした?」
やたらと神妙そうな声が聞こえ、俺は鬼村の表情を伺った。が、何を考えているかまではわからない。俺の視線に気が付いたのか、鬼村は俺と目を合わせると唇を尖らせて学校へ向かって歩き始めた。
「ううんーなんでもなーい」
その後ろ姿を見つめながら、俺も校門を抜けて高校の敷地へと足を踏み入れた。
妖怪がどんどんうちの高校に集まってる気がするのは、多分、どう考えても気のせいじゃないよな。……面倒事が起こりませんように、といるともわからない神様に向かって俺は心の中で何度か念じた。




