第74話 一人飲み+
まだ日が暮れるには早い時間、『居酒屋 花川柳』と書かれた暖簾を玄関部分に掛け頷く店主がそこにいた。店主はこちらに気が付くと、ガラガラと音を立てて店の戸を開ける。そして、俺を迎え入れた。
「いらっしゃい!」
快活そうな声を浴び、俺はぺこりと頭を下げてカウンター席へと一直線に向かった。
「こんなに早くしかもお一人で来るなんて珍しいですね、先生」
「ああ……まあ、たまには一人で飲みたいかな、なんて」
「いつも来る時は礼司くんに連れられて来ますもんねぇ~」
にこにこと笑うのは、店主である花川さん。河原先生がよっちゃんと呼んでいる人だ。
「何飲みます?」
「あー、まずはビールで。……あと枝豆と串カツ盛り合わせ」
最初の飲み物とつまみを頼み、壁に並ぶメニューを眺める。腹は減ってる。ここの料理は何食べても美味いから選ぶのはなかなか難しい。いつもは河原先生があれこれと頼むからそれを食べてるわけだけど……今日は一人だ。
今朝は少し寝坊をしたものの、昼には学校へ出勤して仕事を始めた。夏休み明けの授業準備を進め、退勤したのは先ほどだ。この居酒屋は学校から一駅離れたところにある。駅からも多少歩くんだが──まあ、そこまで立地は悪くない。いつ来ても客はそれなりに入っている。今日はさすがに開店直後に来たもんだから今のところ客は俺一人だが。
「──はい、ビールと枝豆。あとお通しね。串カツは今揚げちゃうので待ってくださいね」
「どうも」
カウンターからグラスと枝豆の盛られた皿を受け取り、ひとまずは喉を潤した。連日の暑さもこの一杯で全て吹き飛ぶような気さえする。ついゴクゴクと喉を鳴らすと、ビールは半分程まで減ってしまった。
すぐ目の前で店主が串を揚げていて、俺はそれをぼんやりと見つめる。フライヤーの横で他のものを作っているのか立ち上る湯気が揺れた。
「はい、串カツ盛り合わせ」
出てきたものを受け取り、俺は皿の一番端に載っていたイカを取った。揚げたては熱くて一息には食べられないが、美味い。ビールが進む。……と、飲みきるのはやめておいた。
「今は夏休みなんですよね?」
「ええ、長期休みは校内が静かでいいです」
「ははは、桃間先生らしいですね。部活とかは何か担当してないんですか?」
「特に何も。一度頼まれかけたことはあったんですけど、結局別の先生がやることになって。まあ、気楽にやってます」
「部活の顧問なんてなったら大変ですよねぇ~。礼司くんも副顧問やってるらしいですし、結構遠征とか行ってるみたいで」
「何の部活でしたっけ、忘れちゃって」
「水泳ですよ」
店主の笑みに、俺はうずらの卵の串カツを口に運びながら「ふぅん」と相槌を打った。そうか、あの人水泳部の副顧問だったのか。聞いた気がするけど忘れてたな。
話しているうちに、他の客が店へと入ってきた。四人グループのサラリーマンだ。すぐ近くにビルがあるから、そこの社員かもしれない。店主は静かにカウンターから離れると、テーブル席へとついた客の元へおしぼりを持って注文を聞きに行った。俺はそれを何となく目で追い、彼の働く様子を眺める。今日はまだ他の社員か、アルバイトは来ていないようだ。と、思っているうちに奥から一人女性が出てきた。
「……さすがに金曜夜に一人は厳しいよな」
そう呟きながらグラスを傾けると、ほんの少しの液体が口の中へと流れてきた。もう無くなったのか。ペース考えないとな。
──ガラララッ
「……あれ! 桃間先生じゃないですか~!」
店の戸が開いたと同時に聞こえてきたのは河原先生の声だった。俺は振り返りざまにうんざりとした顔をしながら「どうも」と挨拶してやった。
「えーなんでなんで? 何かあったんです? もしかして鬼村ちゃんにフラれてやけ酒?」
いらんことをべらべら喋りながら私服姿の河原先生は俺の隣に座り、ビールを一つ注文した。
「違うっての」
「お酒なら僕いっぱい付き合いますよ~」
「今日はそんなに飲みません」
「もーそんなこと言ってぇ~。飲めばいいじゃないですかぁ。明日出勤ですか?」
「休みです」
そこまで言って海老串カツを口に突っ込み、黙る。河原先生は少しして出されたビールを受け取ると幸せそうに八割程を飲み干した。
「っぷは~! やっぱ真夏はビールですよね~! あ、でも後で冷酒も頼んじゃお」
「……河原先生はいつもここ通ってんすか?」
「いつもってほどじゃないですけど~……ま、よっちゃんは昔馴染みなので♪」
河原先生はそう言うと、「胡瓜の一本漬けと刺身盛り合わせ! あとラーメンサラダ食べた~い」と店主の花川さんに甘えるように言った。甘えられた方の彼は呆れたように笑って「はいはい」と答えている。メニューを探したが、どうやらラーメンサラダは無いようだ。わざわざ河原先生の為に作るのかもしれない。
「そういやお二人っていつから知り合いなんですか?」
俺の質問に河原先生と店主が振り返った。答えてくれたのは店主の方だった。
「そうですねぇー……小さい頃からだから、幼馴染ってやつですかね」
「へぇー。そういえば出身って?」
「出身はこのあたりですよ。僕はもうずっとこの辺に住んでます。礼司君はー……別の県に行ってた時期もあるよね」
「そうなんですよ~。教員になってからはこの辺に戻ってきましたけどね!」
河原先生は残りの二割のビールも喉に流し込むと、早々に空のグラスをカウンターへ戻した。
「そうなんすか。どこにいたんです?」
俺の問いに、きょとんとしたような顔で河原先生はこっちを見た。そしてテーブルに肘をついてにやりと笑う。
「桃間先生、もしかして僕に興味持っちゃった感じですか? ええ~今まで全然そんなの聞いてこなかったのに~」
「鬱陶しいんでやっぱ答えなくていいです」
「えーやだやだ~!」
俺も空になっていたグラスをカウンターへ出して「ビール一つ、あとだし巻き玉子、ホッケも」と頼んだ。
「僕もホッケ食べたいでーす」
「どうぞ」
「やったね」
俺たちがそんな会話をしている間も、カウンター越しに店主は忙しなく動いている。気づけばアルバイトらしき男も増えていた。ぼんやりと彼らを見つめていると、横からつんつんと指で突かれた。
「桃間先生、お一人で飲みに来た理由を聞いても?」
「……別に、たまには一人で飲みたい時もありますよ」
「ほんとですかぁ~? 一人で飲みたいんなら、コンビニで缶ビール買っておしまい、ってタイプじゃないですぅ?」
「そういう河原先生こそ、一人で飲みに来るんですね。人と飲むのが好きなのかと」
左隣にいるこの男を、左目でじろりと見る。俺と目が合うと河原先生は少し笑って目を逸らした。
そこからは飲み物と料理が出てくるまで口は開かなかった。別に会話したくないわけじゃないが、特に話したいことはない。聞きたい事はまあ……いくつか、あるが。
「はいはいおまたせ~」
にこやかに戻ってきた店主が飲み物と料理を順番に置いていく。奥から来た別の従業員も俺の目の前にホッケを置いていった。河原先生も食べやすいようそちら側に皿を置き、箸を入れる。少しつまむとビールを飲む。米も欲しいな。
「いやあー夏休みももうそろそろ終わっちゃいますよねぇ~」
河原先生の言う通り、夏休みはもうすでに半分以上を過ぎてそろそろ終わりが見え始めている。生徒たちからすればうんざりするような現実だろうが、まあ教師の俺からしてもそう嬉しくもない。とは言え終わりの見えない長期休みなんていうのも嫌だが。
「僕としては夏休み明けに部活の大会が控えてるので、授業をお休みしなきゃで調整がちょっと大変ですよ。遊びに行くだけならラクなのになぁ」
「さっき聞きましたけど、そういや河原先生って水泳の副顧問なんですね」
「え。やだなぁちょっと桃間先生知らなかったんですか~? 何度も言ったじゃないですか」
「すみません全然話聞いてないんで」
「辛辣~」
「得意なんですか? 泳ぐの」
俺が訊くとすぐには返事をせず河原先生の右手はビールグラスを持ち上げた。返答を待つ間、俺は何にも手を付けずにただ前を見ている。徐々に客が増え少しずつ騒がしくなる店内をそっと窺って目を細めた。
「っぷはぁ~! ふぅー。泳ぐの得意ですよ~。僕の泳ぎ見ます? というか今度部活に顔出してくださいよ~。こないだ鬼村ちゃんも見に来てましたよ?」
「は? 鬼村?」
「陸上やめて水泳おいでって勧誘しておきました♪」
いぇーい、とVサインをこちらに向けて満面の笑みの河原先生に俺はため息を吐く。どうせ陸上より水泳の方がおもしろいよ~とか言ったんだろこいつ。と言っても、あいつが水泳部に入るとも思えないが。陸上すら幽霊部員だというのに。
「はあ、そうですか」
そう返事だけしてだし巻き玉子に箸を入れた。ふんわりとした触感のだし巻き玉子は美味い。一口二口と食べ進めていくとあっという間に無くなる。料理を八割方食べ終えたところで二杯目のビールも無くなり、さてどうしようかと思ったところだった。
ポケットの中でスマホが震える。
「……ん?」
取り出して画面を見れば、鬼村だった。一瞬出るのを躊躇うが、横から河原先生が覗き込んでこようとして慌てて受話ボタンを押す。
「──なんだよ」
小声で出ると、電話の向こうからは不貞腐れたような声が聞こえてきた。
『ちょっとぉーセンセーまだ帰ってこないの? あたしの方が早いんですけどー』
「俺が何時に帰ろうとお前に関係ないだろうが」
『ありまーす。ご飯作ったげよーと思ったのに』
「いい、いらん。飯は外で食ってる」
『あーお酒飲みに行ってんでしょ~。飲みすぎたら酔っぱらってあたしに変なことしちゃうから気を付けなよ~』
「は!? するかよ馬鹿!」
『………』
電話口の沈黙がやけに気になるが、俺は「このあと帰る」と言ってすぐに電話を切った。それを聞いていたのか聞こえていなくても勝手な想像をしているのか、振り返ると河原先生はにやにやとした顔で俺を見ていた。
「鬼村ちゃんでしょ~」
「………」
「あー黙らないでくださいよ。ここで黙ると僕はこのあと酔っぱらった桃間先生が帰って鬼村ちゃんにいかがわしいことするんだーって決めつけちゃいますからね!」
「しねぇよ!!」
俺は残っているものを全て平らげると、立ち上がる際に「会計お願いします」と店主に向かって手を上げた。彼は「あらら」といった顔で伝票を持ってレジへと向かう。
「それじゃ、また学校で」
俺が後ろから声を掛けると、河原先生は「はいはいまた~!」と爽やかに手を振った。会計を終えるとわざわざ店主の花川さんが外まで俺を見送りについてきた。
「桃間先生、またお一人でも来てくださいね」
「ええ、まあ」
にこやかな顔で軽くお辞儀をして、店主はまた店内へと戻っていく。俺はしばらく店の玄関を見つめ、<深山さんに渡された資料>を思い出しながら──「また来ますよ」と呟いた。
ふいにどこかから視線を感じてハッと振り向く。
「………」
道路脇の草陰に、こちらを窺う狐の姿があった。しばらく俺と目を合わせていたものの──そいつは走ってどこかへ行ってしまった。
「……行儀わりーけど、身の安全が第一なんでね」
駅に向かって歩き出した俺は言い訳をしながら煙草を取り出して火を点ける。
吐き出した煙は俺を守るようにまとわりつき、警戒するように立ち上っていった。




