第73話 親の心
「え? 今日?」
──電話の向こうから聞こえてきた言葉に、俺は布団から慌てて起き上がった。
朝、今週最後の出勤日だとわかりつつも俺は暑くてべたついた気温にうんざりして布団から動けずにいた。ギリギリまで寝ていようか、それとも一旦シャワーを浴びるべきかと頭を悩ませていたところに、電話がかかってきたんだ。……二つ下の弟、雄二から。
『そうだよ~そっちの方まで出るし、母さんから頼まれてるものも渡しちゃいたいし』
「あー……悪い」
『冬はともかく、かずが盆に帰ってこないなんて珍しいよね。なんかあった?』
「いやー……」
即答できずに、ひとまず立ち上がる。肌に張り付いたTシャツを掴んでバタバタと空気を送りながら、床に張り付く足に嫌悪感を抱きつつ換気扇の下まで向かった。
「……ちょっと忙しかっただけだよ」
『そうなんだ? なんか今年は担任持つとか言ってたっけ? ほら、春前に話した時さ……うわ、ちょっと待って待って!』
急に電話の向こうが騒がしくなる。多分雄二のところの娘が「お父さん遊ぼう」とでも騒ぎ始めたんだろう。俺はその隙に煙草をくわえ、火を点けた。
『あー、ごめんごめん。でさ、午後には時間できるから。会える?』
「んー……仕事行ってからだからちょっと遅れるかもだけど。まあすぐ行くよ」
『オッケー、紙袋二つくらいあるから』
「はいはい、じゃあまたあとで連絡する」
俺はそう言うと、電話を切った。吸い込んだ煙を細く吐き出して空気の流れを見つめる。時間はまだあるし、さっさとシャワー浴びとくか。そう思ってまだほとんど燃えていない煙草の先を潰して鎮火する。べたついたTシャツを脱ぎながら風呂場まで向かっている時だった。
──カチャカチャ、ガチャン!
「センセー! 寝たらめっちゃ復活したんだけどー!」
唐突に鍵の開いた玄関扉が大開放され、そこには随分と元気になった鬼村が立っていた。俺はじろりと睨みつけると、歯を剥きだした。
「出てけ!!」
「えーもう?」
***
──午後、仕事を終えた足でそのまま街まで出る。弟の雄二とその家族が夏休みだからと遊びに来るらしい。と言っても雄二も同じ県内に住んでるわけだから、休み期間の遠出は他にもう行ったんだろう。こないだの盆には実家にも帰ったらしいし。それでその実家からの土産を俺に渡すってわけだ。中身は多分、何かしらの日持ちする食べ物と母さんからの伝言だ。体調を崩すな、たまに連絡を寄こせ、という。そこまで心配される理由がないと俺は思ってるんだけど……
「ねぇー、センセーの弟さんとこって娘がいるんでしょ~? 何歳?」
「……五歳、三歳と、確か八カ月だよ」
「三人もいんの? 何したら喜ぶかなー」
隣の座席に座る鬼村は妙に機嫌よくしている。別に連れてくるつもりなど一切なかったにもかかわらず、俺が電車に乗ろうとしたタイミングでこいつが後ろからついてきたんだ。もはやストーカーだろ。
「つーか、弟の前でセンセーって呼ぶのやめてくれ。いろいろ誤解を生む……」
「誤解って? 誤解じゃなくない?」
「………」
苛立ちを覚えつつもここは電車内だということを自分に言い聞かせ、笑顔を作った。
「センセーって、呼ぶのを、やめてくれ」
「もー仕方ないな。わかったってば」
不貞腐れたように鬼村は頬を膨らませている。俺はその態度に眉をひそめた。
「学校の中はわかるけど、なんで外でまで呼びたがるんだよ」
「ええ~? そりゃー……」
鬼村は言葉を切り、にやりと笑うと俺の太ももを人差し指でつついた。
「センセーって呼んだ方が、興奮するかなって♪」
「……す、るか馬鹿!!」
俺は結局電車内にもかかわらず声を荒げてしまった。
──その後電車を降り改札を出ると、到着時間を連絡してあったからか駅を出てすぐの広場の方から「おーい」と呼ぶ声が聞こえてきた。声の方を見ると、雄二がこっちに向かって走ってくる。
「かず! 結構早く終わったんだね……あれ?」
雄二は俺の隣に立つ鬼村を見て目を丸くしている。俺は説明が面倒くさくなんと言えばいいか迷っているうちに、鬼村が「彼女です♪」と一言で片づけやがった。
「え、彼女?」
「春先からお付き合いしてます」
「え、ええ~……そうなんだ……? え、めっちゃ若くない?」
「一樹くんより年上でーす」
「え!? あ、そうなんですかすみません」
俺より年上の彼女、っていう設定ここでも使うのか。三斗の時にも言ってたな……。俺はしばらく目を瞑って現実逃避をしていたものの、鬼村が腕に絡みついてきて逃避を中断させた。
「ああ……まあ……そういうことになってる」
「『そういうことになってる』!? どゆこと!?」
雄二の驚いた声にびっくりしたのか、赤ん坊を抱いている雄二の奥さんと子どもたちもこちらへ寄ってきた。
「お義兄さんお久しぶりです~。彼女さんですか? 初めまして」
奥さんの挨拶に俺はぼそりと「どうも」としか言えず、反対に鬼村はやたらと元気に挨拶を返していた。鬼村のようなギャルが珍しいのか、寄ってきた長女が「お耳の可愛い!」と言ってピアスを指差している。鬼村はその子の相手をするために屈んでピアスを見せ始めた。
「……なあ、ほんとにこんな美人と付き合ってんの? もしかして騙されてる?」
鬼村が離れたタイミングで、雄二が俺に耳打ちをした。俺は眉間に皺を寄せつつ、ため息を吐く。
「まあ、騙されてるようなもんかな」
「ほんとに大丈夫なのかよ」
「大丈夫か大丈夫じゃないかで言えばー……」
言い淀み、俺は鬼村を見つめた。小さな姪っ子相手に何やら楽し気に話をしている鬼村。俺は唇を尖らせて、首を振った。
「いや、わからん」
「はあー?」
「それで、母さんなんか言ってた?」
「ああ……かずの心配はいろいろしてたけど」
「俺心配されるような生活してねーけど。仕事もちゃんとしてるし、飯も食ってるって」
「んー……」
雄二は何やら微妙な表情をして、それからどこか諦めたように肩を竦めた。
「とりあえず、軽く何か食べにでも入らない?」
***
駅からすぐ近くのファミレスに入ると広い席に通され、店員からもらったおもちゃで姪っ子二人は遊び始めた。奥さんの腕に抱かれている赤ん坊は入店してからタイミングよく寝入ってくれたようだ。雄二は飲み物と、奥さんはケーキセットと子どもたちの食べるものを頼み俺達にメニュー表が渡される。
「コーヒーで」
と頼んだ後でハッとする。鬼村は何を頼む気なのかと心配になったんだ。以前鬼村に連れられてケーキ屋に入った時は、大量のケーキを頼んでいたが……
「あたしもコーヒーお願いしまーす」
「……いいのか?」
「えー?」
俺の左隣に座る鬼村が首を傾げ、後ろでまとめた髪がさらりと垂れ落ちる。俺は「ああ、いや」と口ごもり、何でもないフリを装った。
注文したものが来るまでの間は、雄二が実家での話をしてくれた。弟たちの話だとか、父さんが内緒でパチスロ行ってて母さんにめちゃくちゃ怒られてたとか……。頼んだコーヒーが来たところで、今までにこにこと笑っていただけの奥さんが口を開いた。
「お義兄さん、大分顔色良くなりましたよねぇ。彼女さんのおかげだったりするんじゃ?」
「え」
急に話を振られて俺は言葉に詰まってしまう。けど、確かに今までコンビニ飯や外食ばっかりだった生活からは一変したのは本当だ。にんまりと笑う鬼村をちらりと見つつ、俺は苦笑いした。
「どうだろう、飯はまともなの食べるようになったからまあ……体調は良くなったのかも?」
「ふふっ、栄養面だけじゃないと思いますよ~。一緒にいると落ち着くとか、あるんじゃないですか?」
奥さんはどこか探るような笑みを浮かべている。彼女はカウンセラーの仕事をしていて、そういうのもあって俺はどうにも苦手なんだ。その気がなくても腹の内を見透かされているような気がして落ち着かない。──と、いうか。
「……いやこいつ全く落ち着きないんでそこは否定しとくかな」
「ちょっと、言い方悪くない!?」
「間違ったこと言ってねーだろ、お前うるせーし」
「はあ~?」
鬼村が途端に怒り出し、俺はいつものごとく眉間に皺を寄せる。傍目には喧嘩が始まったと思うのだろうが、喧嘩とすら俺は思っていない。何というかこれは……動物の威嚇行動に似た何かだろう。
と、その時俺の右側から吹き出すような笑い声が聞こえてきた。隣に座る雄二が俺を見ながら笑っていた。
「……え、何だよ」
「いいや~? なんか安心した。かずもちゃんと自分の人生歩んでるんだな~って」
「は?」
「だってさ、ずーっと俺らとか家のこととか気にしてきたじゃん。これまで」
雄二にそう言われて、しばし放心する。
──自分の人生。
五人兄弟の長男で、俺はまあまあ要領がいい方だった。だから弟たちの面倒を見ながらでも部活も勉強もどうにでもなった。両親は共働きだったから、自然と家での責任者は俺になった。
高校までは許されてなかったけど大学に入ってからはバイトに精を出して、学費と生活費をどうにかできていた。大変だったかっていうと……別に、ある程度サークルとか友達とかとも遊べてたし。過ぎてみるとそこまで大変だったとは、思ってない。
仕事を始めてからは実家に仕送りもして、今まで面倒見てもらった分弟たちにかかるお金の足しにしてほしかった。まあ、俺が三十になる頃には一番下の健五も大学卒業して金かからなくなって、仕送りもいらんってつっぱねられたから……そこからは何もしてねーけど。今更何に使っていいかもわかんねーから、貯まる一方なんだよな。
自分の人生、か。
孫だって弟がなんとかしたわけだし、あとは親に迷惑かけないように生きてくだけだなんて思ってたんだけど。結婚とかないと思ってたし。
「……あ」
さっきの会話が、急にリピートされる。
──それで、母さんなんか言ってた?
──ああ……かずの心配はいろいろしてたけど。
……具体的にどういう心配かはわかんないけど、まあ、かけてんだろうなきっと。
***
実家から持たされた紙袋を二つ受け取って、俺は弟家族と駅で別れた。一体中身は何が入っているのかずっしりと重く、いっそ鬼村に持たせてしまおうかなどと頭をよぎったが……さすがにやめておいた。
弟家族を見送ったあとで俺と鬼村も帰りの電車に乗る為に改札を抜ける。ホームまでやってくると、少し時間がある為俺は端に置かれたベンチに座った。鬼村も当たり前のように隣に座ってきて──俺は、その横顔をそっと見た。
──美鬼は、何の災厄を起こす鬼なんですか。
ふと思い出される、豪鬼さんと屠鬼さんへの問い。
あの時ふたりはまるで氷をまとったみたいに冷たい表情へと変わった。俺はしまった、と思ったもののその質問を取り消すことはできないでいた。
『何もわからないのよ』
口を開いたのは屠鬼さんだった。
『あの子はこれまで何の災厄も起こしていないの。だから、何にもわからないわ』
『美鬼は、本当は私たちが作った鬼ではないの。いつのまにか生まれていて、意識もはっきりしていないところをこの人が見つけたの』
『でも、自分の名前だけは持っていたわ。それを聞いてもすぐには《《理解》》はできなかったのだけれど。でも、ここ最近はその名前を呼ぶのを愛しく思うのよ。不思議ね。ね、あなた』
そう声をかけられると、豪鬼さんは一つ頷いてようやく口を開いた。
『存在の本質を理解できない鬼など……何が起こるかわからん。自然に大きく影響するかもしれないと考えた天狗どもは<美鬼を監視する為の天狗>を作った。見た目の若い奴だ。お前も知っている』
『それって、狗谷木ですか』
『うむ。そいつは美鬼から目を離さぬよう執着するように作られた。自分ではもう何故そこまで執着しているかわからずにいるだろうが』
……俺は何故だか背筋がひんやりとしていくような感じがした。狗谷木は鬼村に度が過ぎる程の好意を持っているが、そんな理由だとは思いたくなかった。多分、狗谷木自身だってそうだろう。
『この百五十年、美鬼は何事もなくやってきた。天狗どもの警戒の手も緩んだが、今後も何も起こらないとは言えない。そしてこの先美鬼を脅威だと天狗どもが決めた場合……美鬼は葬られる可能性がある』
『葬られる、って……』
『天狗が束になればあの子の力を上回ることも可能、と考えているだろう。……婿よ、初めてお前とあの小さな部屋で会った時に己は言ったぞ』
『お前は己の娘を守らなくてはならない』
──電車がホームに入ってきた。ゆっくりとそれは止まり、扉が開いた。
「センセ、ほら乗るよ」
鬼村の声が頭の上からして、俺は見上げた。ベンチから立ち上がった鬼村が、俺の服の肩部分を引っ張っている。
「………」
「セーンセ、どったの?」
「あ……いや」
何事もなかったように立ち上がると置いていた紙袋を二つ両手に持った。相変わらず重い。電車に乗るとかなり混み合っていて、俺と鬼村は車内の端へと追いやられた。仕方なく、鬼村を角にやり、俺はそれを覆うように立つ。走り始めた電車の揺れに足を踏ん張りながらも壁に手をついてやり過ごす。数十分この体勢か。これだから街に出るのは嫌なんだ。
「ねーねーその紙袋~何入ってんの?」
「ん……なんだろな。多分フツーに味噌汁の元とか、牛丼の具とか」
「あはは。めっちゃご飯」
「あとは、あれだ。うちの地元のお菓子とか。なんか母さんが好きで、よく持たされるから」
「へぇー……帰ったらあたしも食べてい?」
鬼村はニコッと笑って、わずかに俺を見上げている。元々身長が高い上に今日はハイヒールを履いてるんだ。ほとんど目線は一緒の高さのはずだが、鬼村が壁に寄り掛かっている為俺も少しばかり見下ろす格好になっている。
「……別にいいけど」
「ふふっ、やった」
それだけ言って鬼村は静かになった。そりゃそうか。満員電車の中だ、うるさくもできない。電車が俺達を最寄り駅まで運ぶ間、ただ静かに揺られていた。その間何度も俺と目を合わせては鬼村は微笑み、俺は……うっかり頬が緩んでしまわないようにときゅっと唇を噛んだ。




