第65話 海坊主と
──海の中は真っ暗だった。
本来なら難なくそこに足をつけていたはずなのに、今はもう海底が遠く遠く離れた場所にある。恐ろしさを感じつつも、真っ黒と言っていい海底に向かって俺は必死に体を沈めていく。視界が悪い中、鬼村が何かに足を掴まれて海底へ引きずり込まれて行くのが見えた。
(くそっ、何がどうなってやがんだよ!)
もっと大量に息を吸っておけばよかった、などと思いながらももがくようにして泳ぐ。もう少し、もう少しで届く。そう思って鬼村に向かって右手を伸ばした。水中眼鏡もつけていない今、鬼村がどんな表情をしているかも俺にはよく見えない。だが、細い指先が触れ、俺はその感覚を頼りに鬼村の手を手繰り寄せた。
手を掴んで、
力を込めて俺の方へと抱き寄せる。
その瞬間、真っ黒いものが俺に向かって伸びてきた。
「……!!」
驚きのせいか、俺は溜め込んでいた息を全て吐き出してしまった。
***
急に意識がはっきりとする。
辺りは暗く、どこかはよくわからないが俺はそこに立っていた。
地面と呼んでいいのか──そこには揺れる海面のような明かりが映し出されていた。
「ねー、ちょっと苦しい感じなんだけど……これって我慢してる方が良さげ?」
突然鬼村の声が俺の胸の辺りで聞こえてきてハッとした。さっき海の中で無我夢中になって引き寄せたせいなのか、鬼村のことをきつく抱きしめていたようだった。
「わ、悪い! 大丈夫か!?」
慌てて体を離してやると、少し離れてそこに立ったのは……真っ赤な肌に黄色い水着が映える鬼の姿の鬼村だった。
「……あれ? お前なんでそっちの姿に……」
それから辺りをぐるりと見回した。暗くてよくわからない、そう思っていた世界が……どうやら海の底であるということに俺は気が付いた。上を見上げるとかなり遠くの方に海面がある。
「ここは、海の中……でいいのか? それとも向こう側なのか?」
「んー水の中ってさぁ、曖昧なんだよ。ふとした瞬間にあっちとこっちで繋がりやすいっていうか~。ほら、『浦島太郎』なんて話あるでしょ?」
「あれも実際にあった話ってことか?」
「さあね~」
鬼村は肩を竦めた。だが浦島太郎なんて言われちゃ緊張せざるを得なかった。このままここにいちゃ戻るころには何十年と経っていた──なんてことになるかもしれない。どうにか脱出しないと。
「……!」
ふと、鬼村の背後から真っ黒な影が伸びてくるのが見えた。慌てて鬼村の手を掴んで引き寄せる。
「くそ、さっきのか!?」
庇うように鬼村を抱きしめ、その黒い影が揺れ動くのを注視した。
「ねーセンセ、今日めっちゃ積極的じゃん? どしたの」
「んなこと言ってる場合かよ!!」
黒い影が俺達の背丈の数倍に膨れ上がったかと思うと……目のように二つ穴がぽっかりと開いた。それが俺達を見下ろすようにしている。
「……曖昧っつーことは、ここでも刀を出せるってことだよな?」
「まあ~。でも多分鞘から出さない限り大した攻撃にならないと思うんだよねぇ」
「はあ!?」
俺が右手に意識を集中し、刀を出そうとした時だった。
黒い影が細く長くこちらへ伸びてくる。
まるで、
手を伸ばすみたいに。
『……人間が、鬼を守ってる。変なの』
とても低い声が
まるで子どものように言った。
黒い手のようなものは俺の頭に触れようとしたものの、やめたのかするするとその影を引っ込めていく。
『珍しく妖怪が来たから、遊んでもらおうかと思ったんだけど……人間も来た』
黒い影は瞬きをするように目らしきものを動かした。すると鬼村が俺の腕の中でもぞもぞと動き、黒い影を見上げる。その拍子に角が俺の目に刺さりそうになって仰け反った。
「えーあたしセンセーと遊んでるからあんたと遊ぶ気ないんだけど~」
『人間、遊んでくれるの?』
「うん。ちょー遊んでくれる」
「おい、そんなに遊んでやってる覚えはないぞ」
──もしかするとこの黒い影はそこまで脅威ではないのかもしれない、と思い俺は鬼村を解放した。よくよく考えれば俺がこいつを守る必要なんて全くなかったわけだが……反射的に二度も抱きしめてしまったことに今更恥ずかしさを覚えた。
『人間、姿を見せるといつもすぐに逃げてく。遊んでくれない』
「そりゃーそうでしょ。あんたでかすぎじゃん」
鬼村の言う通り、目の前の影はあっという間に家すら飲み込んでしまう程でかい。こんなのが現れたらさすがに誰だって裸足で逃げるだろう。
「なあ、これも妖怪なんだろ? 何の妖怪なんだ?」
「これ? 海坊主だよ」
海坊主。
そうだ、海の中から真っ黒な大きな何かが出てきている妖怪の絵をどこかで見たことがある。想像していたものとほとんど変わらない見た目だ。
『こないだは獏が遊びに来た。疲れるのはイヤ、と言ってておしゃべりをたくさんした。楽しかった』
「ああ~夢子ちゃんでしょ」
鬼村は知っていたかのような反応を示した。俺は思わず目を細める。
「お前……こいつがいるってわかっててここに来たのかよ」
「えー? まあそうだけど。妖怪が出る海だからあんまし人が寄ってこないんだよ~。視える人間はもちろんだけど、感覚的になんか嫌って思う人も多いんだろうね~」
「それでここは人気がないのか……」
「センセーと二人っきりで遊べるかなって思ったんだけど、あんま気にしない人間もちらほらいるっぽいからちょっと残念だったなー。てか急に引きずり込むとかさぁー、なんか声かけるとかできなかったわけ?」
少し怒り気味な鬼村の言葉に、海坊主はたじろぐようにして影を揺らした。
『話しかけると、びっくりするかと思って』
「いきなりあたしが消える方がびっくりするじゃん、センセーが」
むすっとする鬼村に、海坊主はその大きな姿をどんどん小さくさせていった。……今や俺達の背丈よりも小さくなってうずくまるようにそこにいる。
『あまり、遊びに来る妖怪いないから、嬉しくなっちゃって』
「もー、次からは気を付けてよねー。てかあんたも人の姿になって海から出てけばいいじゃん」
『外の世界は、怖いから……』
海坊主はもじもじと両手のようなものを合わせている。俺は少しだけ気の毒になり、しゃがみ込んで海坊主と目線を合わせてみる。……が、その穴のような目は俺を見ているのかよくわからずにやはり底知れぬ恐ろしさを感じた。
「……あー、お前はその、どうやって遊びたいんだ」
『昔はね、お舟で遊ぶのが楽しかったよ』
「舟?」
思い出したのは子供の頃笹で作った舟を川に流して遊んだことだ。子どもならば確かに楽しいのかもしれない。
「あー、じゃあ俺が少しだけ付き合ってやるから……」
「ちょっとダメだってセンセー、海坊主が船で遊んだりしたら転覆してみんな死んじゃうんだからさ」
「は?」
素っ頓狂な声で訊き返したが、俺は目の前のものをもう一度見て思い出した。
そうだ。
海坊主は確か船を沈めたり人間を海に引きずり込むとかそういう……
「やっぱ妖怪じゃねーか!!」
「妖怪だよ何言ってんの」
『人間、いきなり怒る……やっぱ怖い』
小さかった海坊主がさらに一回り小さく萎んだ。
「ったく……俺は遊んでやれねーけど、あれだ、狗谷木にでも言っときゃ多分遊んでくれんだろ」
「あ~そういえば海遊びに行きたーいとか言ってたかも~。最近泳ぐの楽しそうだしね~」
「じゃあ帰ってからでもあいつに連絡しといてくれよ」
俺は立ち上がり、腰に手を当てて少し上体を伸ばした。さてここからどうやってあの海面まで戻るべきか。これ戻ったらもう夕方ですとかあるんじゃねーの? 人が二人海に沈んで戻ってこない、とか騒ぎになってたりしねーかな……。
俺が上を見上げて考え事をしている時だった。
鬼村が海坊主の前にしゃがみ込み、何か話をしている。
声が小さくて言葉はよく聞き取れない。
「……鬼村? おい、用がないならそろそろ戻るぞ」
「あ、うーん」
すぐに返事をした鬼村は立ち上がる時に長い髪を耳にかけると「じゃあね」と海坊主に手を振った。
「なあ……これもしかして、あの海面まで泳いで戻らなきゃなのか?」
「ま、そーだね」
「息が持つか不安だな」
「だいじょぶだいじょぶ、あたしがセンセーの手引いて上までひと泳ぎしてあげるから♪ すぐじゃん♪」
「やっぱお前助けなくても良かったんじゃねーか……」
「あ! てかあたしのシュシュは!?」
「シュシュ? ……あーあの髪飾りか。掴んでたような気もすっけど……無いな」
「は~!? ちょっと探しに行こ! どっかに浮いてるかも!」
鬼村は慌てたように俺の手を引っ張ると上に向かって泳ぎ始めた。陸の上と同様に違和感なく動いてたつもりだったけど──本当にここ、海の中だったんだな。
***
「だいぶ暗くなったな」
バタン、って強く運転席の扉をセンセーが閉めた。
あたしは助手席でぼうっと外を見てる。
──海の底から戻ってきたら夕暮れ時になってて、オレンジ色の光が海を照らしてた。遊泳可能時間、っていうのはもうとっくに過ぎてて……見回しても人間は一人もいなかった。
あたしのシュシュは意外と早くに見つかって、波に打ち上げられて砂浜の上に落ちてた。汚れちゃって、もう使えないかなってがっかりしたんだけど。
「帰りに買ってやるよ」
なんてセンセーがあたしを甘やかすから……嬉しくて抱き着いちゃった。
海は楽しかった。
海で遊んだこと無かったし。
水着は着てみたいな~ってずっと思ってたんだけど。
あ、それに今日はセンセーがいつもよりも距離近くって最高だったな~。
センセーのガリガリだった身体も、少し筋肉がついて触りごたえ良くなった、って感じ?
抱きしめてくれたのも……
「センセーってムッツリスケベだよね~」
「あ?」
あたしの揶揄いにセンセーはすっごく嫌そうな声を出して、車を動かし始めた。
駐車場を出たら最初はそんなに車もいなかったんだけど、街が近くなるにつれてまた渋滞し始めた。センセーは行きの時と同じようにイライラしだして、あたしは思わず笑っちゃった。ほんと、短気だな~。ま、その短気もきっと寝不足とかが原因なんだろーけど。最近またうなされてるみたいだし。やっぱあの夢子ちゃんのおまもり、効いてたんだぁ。使ってる間めっちゃ元気だったもんね。
「………」
少し目を瞑ってみる。
眠たいわけじゃないけど。
「……寝てていいぞ、ついたら起こす」
センセーの声が聞こえたから、寝るフリをすることにした。
車の振動音を聞きながら──三週間前に夢子ちゃんと電話した時の会話を思い出してた。
『悪夢を食べにきたついでに海に寄ったんですけど、引きこもりの海坊主がいたんですよ~』
「海って引きこもる場所あんの?」
『ずっと海底にいれば引きこもってるのと同じじゃないですか~?』
「あー」
『で、その海坊主が言うには、変なもの売り込みにきた奴がいたらしいんですよ~』
「変なもの?」
『ふふん、聞いてびっくり! それがなんと──
──<鬼の妖力の結晶体>です!』
「鬼の……?」
『どこぞの鬼なのかはわかりませんけど、それと同じくらいびっくり……というか、不思議なのがですねぇ、それを売り込みに来た奴なんですよ』
「笠被った人間だか妖怪だかわかんない奴、じゃなくて?」
『ええ? なんですかそれ? 私が聞いたのはですねぇ……』
──夢子ちゃんが言うその妖怪の名を聞いて、私は眉をひそめた。
そして同時に、
頭の中の俯く笠男が──顔を上げてあたしを見た気がした。
動いては止まってを繰り返す車の中で、
あたしはいつのまにか意識を手放していた。




