第64話 水着でゴーゴー
「セーンセ♡ ねー、センセってばぁー」
──朝、何かがのしかかる息苦しさで俺は目を開けた。
寝ぼけていた頭が少しずつクリアになり、目の前の現状を理解し始める。
「おはよセンセ、海行こ♡」
薄いTシャツ短パン姿で寝ていた俺の上に、
派手な黄色いビキニを着た鬼村が馬乗りになっていた──。
「んな格好で! 朝起こすなって前も言っただろ!」
大慌てでどうにか鬼村を退かし部屋の隅に逃げ込むと、俺は裏返る声で抗議した。
「ええ~? そうだっけ? 水着で起こしたことないけど」
「下着で乗っかってたことはあったろ!」
「下着と水着じゃ違くない?」
「同じだ馬鹿もん!!!」
気温のせいか、恥ずかしさのせいなのか、熱くなった顔を手で覆って今見たものをどうにか脳内から消去しようとする。
「でもでもー今日どうせいっぱい見ることになるしぃー」
鬼村の声が近づいてきて、俺の前で止まった。現在視覚をシャットアウトしてるため何がどうなってるかはわからないが、鬼村の指先が俺の耳に触れてびくりと体が跳ね上がった。
「センセってば、耳まで真っ赤っか。ふふっ、かわい~」
「触んな……っ!」
「ねーテスト前に約束したじゃ~ん。あたしが赤点回避したら海行くってー」
「はあ……?」
──夏休みに入ってしばらく経っていた為忘れていたが、そういやそんな約束をしたなと思い出した。なんで海に行くか、っていう理由は聞いてなかったが……もしかしてただ遊びに行く為だけか?
「海に行くってのはわかったが、俺は泳ぐ気なんてないぞ」
「えーでも絶対センセーも水着持ってった方がいいよ~」
「なんでだよ」
「一緒に海入るから♪」
「だからなんでだよ!」
「それはー……」
鬼村の言葉が途切れる。
どうしたのかと思ったが、俺は今だに目を開けられないでいる。目の前に鬼村がいることはわかってるんだ、水着姿なんて見てやるかよちくしょう。
と、思っていた時だった。
「センセーが強情なのは知ってるけどさ、これならどう?」
鬼村の手が、俺の手を取った。
何をするのかわからずに身体が強張る。
「えいっ」という言葉と共に、
掌に『むにっ』という不思議と柔らかい感触が伝わった。
「……は?」
何を掴まされているのか。
俺が反射的に目を開けると──見えてきたのは俺の手の中にある大きな膨らみ。
思わず指先に力が入り、白い柔肌は俺の指に沿って形を変える。
「海行かないんなら今日は水着姿のあたしと……部屋で何しよっか」
──ショートした脳内回路を繋ぎ直すのに、俺は少々手間取った。
***
「なんか意外~、センセーって運転できたんだ」
助手席に座っている鬼村がそう言い、途中で買ったフルーツの入ったサイダーを上機嫌で飲んだ。赤信号だったのが青に変わり俺は車を発進させる。
「たまにしか運転しねーから事故っても知らねーぞ」
「それが女の子助手席に乗せて言う台詞~?」
「男だろうが女だろうが俺の運転スキルが左右されるわけじゃない」
俺がぶっきらぼうにそう言うと、鬼村は「確かに~」と笑った。
鬼村の指定した海、というのが公共交通機関を使って行くには少し大変な場所だった為、俺は久しぶりにレンタカーを借りて車を出すことにしたわけだが果たしてそれが正解だったかは微妙だ。
何と言っても今は夏休み、道路の混雑状況は最悪。進みの遅い車の波に「着いたら夜なんじゃねーの?」とぼやいた。
「あたしは別に夜でもいいけどー、月明かりの中で泳ぐ~とかロマンチックじゃん?」
「結局のところ海に何しに行くんだ? 遊びに行きたいんじゃねーのかよ」
今日の目的をはっきりと教えられていない俺は少し苛立つように言った。鬼村はストローをズズズズ、と音立てると透明なカップを振っている。もう空になったようだ。
「きっかけは夢子ちゃんからの電話なんだけど~、夢子ちゃんのとこに『海に溺れる夢を毎日見てる』って子が夢鑑定の依頼をしたらしくって~……まあそれは置いといて」
「置くなよ、重要な話じゃねーのか?」
「別にー。で、調べてみたらどうやらその夢を見てる原因ってのが、ある海水浴場らしいの~」
「それがさっき言ってた波裏海水浴場、だな。聞いたことねー場所だけど……」
「近くにもう一個海水浴場があってー、なんかそっちのがでかくて綺麗で遊ぶとこもあるらしーから有名なのかな? だから今から向かってるとこはあんまし来る人少ないっぽい」
ふと、信号が青なのに車が詰まり始めて俺は「ちっ」と舌打ちをした。
「センセーめっちゃ短気。ウケる」
「ったく、お前が運転してみろよ」
「えーしていいの?」
「……冗談だ、やめてくれ」
俺は仕方なく自分用に買ったコーヒーのペットボトルの蓋を開けた。香りが広がり、何口か飲むと蓋を閉めてアクセルを僅かに踏む。
「それでその海に何があるんだよ。」
「え? あ~……別に?」
「はあ!?」
「お仕事でお疲れなセンセーを海に連れ出してあげよーと思って♪ 人が少ないとこならセンセーも良いでしょ」
「………」
「あー、やっぱ帰ろうかなみたいな顔してるー。あたしとの約束ちゃんと守ってよー」
「……なんでお前赤点一個も取らなかったんだよ。カンニングか?」
「頑張った生徒を素直に褒められないとかひねくれてる~」
「普通に頑張ったように思えないから言ってんだろ」
さすがに怒ったのか鬼村は口をへの字に曲げると俺ではなく前を見た。まあ黙ってくれる分には問題ない。このまま放っておいてもよかったが──
「……別に、約束くらい守るっつの」
ため息がちな言葉は、どうにか鬼村の機嫌を取ることに成功したようだった。
***
目的の海水浴場へ辿り着いたのは昼を過ぎた頃だった。駐車場は想定よりもはるかに空いていて、見下ろした先にある砂浜には人の陰はあまり見えない。
「ほんとにここでいいのか?」
車を降りた俺は静かに波打つ海を眺めながら訊いた。
「えー? ナビ通りに来たから合ってんじゃん?」
助手席を降りた鬼村に「いやそうじゃなくて」と言いかけて振り返ると、鬼村が脱いだ服を助手席の中へと放り込んでいた。
「お前……いくら中に水着着てるからってもう少し恥じらいをもってだなぁ」
「恥じらい~? センセーは恥ずかしそうに服脱ぐと燃えるってこと? ……前に愛結が言ってたこと当たってたのかぁ」
「そっ……うじゃない!!」
「ええ~?」
そう言いながら鬼村はショートのジーンズをするすると脱いでいく。露わになった水着姿に俺は手で目元を覆った。こんなことしても意味がないことくらいはわかっている。俺はこのあと水着姿のこいつの隣を歩かなきゃいけないんだ。
「てかセンセーも早く着替えちゃいなよ。さっき水着買ったじゃん? あっちの更衣室行く? ここで脱ぐのあたしが見ててもいーけど」
「なんで見んだよ! 見なくていいだろ!!」
鬼村は「ええ~」とつまらなさそうな顔をしたが、すぐに諦めて助手席の扉をバタンと閉めた。
「あたし待ってるから早く着替えてきてよ」
「わかったっての……」
早く早く、と言う鬼村に急き立てられ、近くの更衣室まで向かった俺は早々に着替えを済ませた。更衣室の中に人は見当たらない。夏休みだっていうのにここまで人が来ないもんか? いくら人気の海水浴場が近くにあるとはいえ……。
疑問を抱きながらも鬼村がいる車の方へ戻ると、鬼村はぱっと顔色を明るくさせて俺の元へと駆け寄ってきた────胸を揺らしながら。
「走るの禁止!!」
「なんで!?」
ぴたりと足を止め、鬼村は不可解とでもいうような表情をして俺の隣へ並んだ。
「……転んだら危ないだろ」
「ええ~ちっちゃい子じゃないんだから転ぶわけなくない?」
「いいや、海水浴場では人のいるところで走っちゃいけないって習わなかったか」
「習ってないしこの駐車場も全然人いないじゃん」
「俺がいるだろ俺が」
「どゆこと?」
疑うように下から覗き込んでくる鬼村に、俺はついその豊満な胸とその谷間へ視線が行ってしまう。が、すぐに顔を背けた。
「……ははーん、センセーってばあたしのおっぱい揺れてるの見てドキドキしちゃったんだ~」
「なっ」
違う! と、すぐに反論できずに唇を噛む。鬼村は何故か自分の胸を両手で持ち上げて「おっきいのはたまに邪魔なんだけど、センセーが好きならいっか~」とふにふに揉み始めた。ここは公共の場だぞ。やめろ。
駐車場から砂浜へ降りる石段をゆっくり下っていくと、鬼村は待ってましたと言わんばかりに海へと走っていった。
「セーンセー! 早く早く!」
そう言ってバシャバシャと音を立てて海の中へと入っていく。俺は呆れたようにため息を吐いたが、妙に楽しそうにしている鬼村につい頬を緩ませてしまった。
「なんであんな子どもみたいにはしゃいでんだ、あいつは」
来る途中で水着とサンダルを買わされたものの、俺は海に入る気などやはりなかったわけだが……それでも、少しくらいはあいつをかまってやるのもいいかと甘くなってしまう。って、甘やかしても碌なことにはならんだろうが……。
海の中へひとたび足を入れると、その温さに苦笑いした。だが少し進んでいくと段々と温度が低くなり、気持ちよく感じる。海に来るのなんていつぶりだろうか。家族で来て以来かもしれない。兄弟でよくビーチバレーなんかをしていたな。買って来ればよかっただろうか……と、考えていると急に顔に海水がかけられた。驚いて黙っていると、鬼村の甲高い笑い声が聞こえてくる。
「あははは! センセーってばモロにくらってんじゃ~ん」
「ったくお前……」
「あたしが呼んでるのに全然返事しないからでしょー」
眼鏡に水滴が張り付き、俺は一度眼鏡を外した。ぼやけた視界の中に鬼村が映る。なんとなく意識を左目に集中させて……じっと見た。
真っ赤な肌に角を二本生やした鬼村が、
やはり嬉しそうにこっちに向かって手を振っている。
「人の姿も鬼の姿も変わらない、か……」
ぽつりと呟いて眼鏡をかけると、俺は両手を海水に浸した。
「……やられっぱなしだと思うなよコラぁ!!!」
──バシャーン!!
と、仕返しに鬼村へ海水を掛ける。鬼村はさっきよりも可笑しそうに笑い声を上げた。
こんなにも騒いで、バシャバシャと海水を掛け合っても他の人間に迷惑になることもない。海で遊んでいる人間はいるにはいるが、ぽつりぽつりとまばらな為随分と距離は離れていた。
「ねーセンセーもっとこっちまで来てよ! 結構冷たいよ~」
鬼村がそう言うものだから、俺は少しずつ奥へと進んでいく。
深くなっていくにつれ、足元が冷えた。
と、不意に水面下で手が握られる。
「なんだよ」
すぐ近くに来た鬼村が、俺の手に指を絡めてきた。
「ここなら人に見られないじゃーん。見られると恥ずかしいから、手繋ごうとしても嫌がるんでしょ?」
「そもそも手を繋ぐ必要なんてないだろ」
そう言って手を離そうとするも、鬼村の指がしっかりと絡みついて離れない。いつの間にかもう片方の手も拘束されていた。
目の前の鬼村が、俺の体にぴったりくっつくようにして立った。
谷間に海水が溜まっている。
「……っ」
「センセ、誰も見てないからここでちゅーしよーよ」
「するわけないだろ」
「どうして? あたしのこと好きでしょ?」
「勝手に決めつけんな!」
「……違うの?」
いつもとは違ってやけに真剣な眼差しが、俺を射貫いた。
じっと見て、それからぱちぱちと瞬きする大きな目。
濡れて光る唇が僅かに動き出す──。
「……あはっ」
「!?」
「あははは! なんかセンセーすっごい困った顔してる! めっちゃウケる!」
「はあ!?」
「んふふふっ、やっぱセンセー困らせるの楽しいな~。可愛いし」
「教師で遊ぶんじゃねえ!」
「教師?」
鬼村の手がするっと離れ、俺の背に回った。
ぎゅ、っと抱きしめられる。
「今、ほんとにあたしのこと生徒として見てる?」
くすくすと笑い声が耳に届く。こちらを見上げた鬼村を見て、奥歯を食いしばった。
──ザプンッ!!
突如として、鬼村が目の前から消えた。
「は?」
浮かんできたのは、
鬼村が髪を縛るのに使っていた、サテン地の髪飾りだけ──。
「…………鬼村!!!!!!!」
──海に潜ったのは、二十年ぶりだった。




