第41話 妖怪の診察室
熱い。
熱い。
大量の熱が全身を支配する。
時折吐息が絡みついては、それはまた俺を呑み込むように襲い来る。
『センセ……っ』
悩まし気に呼ぶな。
怒鳴りつけてやりたいが声は出ない。
唇は塞がれている。
呼吸ができない。
柔らかく弾力のある皮膚の感触と、追い立てるような舌のうねる感覚。
『……ほら、センセ。キスしたら気持ち良くなったでしょ?』
鬼村の声が、頭の中で反響する。
ぞわぞわと全身が鳥肌を立てる。
衝動が体を駆け上ってくる。
だめだ。
もうやめろ、鬼──!
「む、ら……?」
中途半端な言葉が口から出た。
見えているのはいつもの天井。六月半ばに入り部屋が暑かったのか、体にはタオルケットすらかかっておらず、敷布団からはみ出して寝ている。背中が痛い。
「………」
夢現をはっきりさせる為、静かに息を吸ってゆっくりと吐いた。
──鬼村に突然唇を奪われてからすでに四日が経過している。それにもかかわらず俺を急き立てて焦らせるのは毎日同じ夢ばかり。あの唇の感触が忘れられない。口内を抉るように攫っていく熱を忘れられない。こんなことで頭を一杯にしている自分が恥ずかしい。
「あんの馬鹿やろ~……」
全身が熱くなっていくのを感じた。いやこれは多分、もう夏が始まってんだ。
──あの日、俺は疲労と緊張と酸欠でほとんど間を置かず意識が飛んだ。夢を見るのは多分そのせいだろう。消化不良、みたいなもんか。……いや待て。決して満足いくまであいつとキスがしたいとかそういう話じゃない。そんなつもりは一切ない!
とにかくあの後は気づけば朝だった。
目が覚めてみれば鬼村は隣に寝ていて、俺が慌てて後ずさるようにして距離を取ると「おはよ」とまるで何事もなかったかのように声をかけてきた。いや、おはようじゃないんだ。お前、俺に何したか覚えてんのか。……その時だ。
「センセー昨日あたしとちゅーしたの覚えてる?」
お……ぼえてるに決まってる。
決まっているが。
俺は恥ずかしさが全身を駆け巡り、思わず「知らん!」と突っぱねてしまった。突っぱねなければ良かった。何故ならそのせいで『一樹と初めて会った百五十年前のこと』とあいつが言っていたことについて触れられなくなってしまったからだ。その話題を出せばまたキスがどーだのいろいろ言われることになる。俺はもう口を閉ざすしかなくなった。
とにかく、疑問は残ったが俺はあいつとのあれは夢だったと思い込むことにする。あれは夢、夢だ。断じて自分のクラスの生徒とキスなんてしていない。
「セーンセー、おはー」
「ぎゃっ」
鬼村の声が聞こえ、思わず飛び起きてしまった。見れば戸口に鬼村が立っている。
「勝手に入ってくんな!!!」
「急に何恥ずかしがってんの? もしかしてー……朝勃ちしちゃった感じ?」
「しとらんわ!!」
と、言いつつこっそり確認するように目線を下げてしまう。朝勃ちすらしたことが無い為どんなふうになるか俺は知らない。……と、鬼村はそんな俺を見ていたのかニヤニヤとしていた。
「センセ~、あたしが確認してあげよっか?」
「~~~~っ、部屋から! 出てけ!」
「なんか今日当たり強くない?」
「いつもどおりだ!!」
鬼村をどうにか部屋から追い出すと、玄関口で膝に手を付き肩で呼吸をした。朝から疲れる。──というよりは、最近どうも疲れが取れない。先日天狗から受けた攻撃のせいで腹の調子も悪いし、回復してきているといった実感はあまりない。騙し騙し生活しているような状況だ。
今日もまた胃のあたりを摩りながら仕事へ行く支度を始めた。
***
「桃間先生顔色やばくね?」
──三組で授業を終えた直後のことだった。
教壇の上で職員室へ戻る支度をしている俺に、狗谷木が話しかけてきたのだ。いつもならば休み時間に入るなり友達と喋り始めるのだが。
「……体調悪いんだよ、お前のせいで」
「え!? あ~そういう感じか~。いや、ほんとごめんって」
「ごめんで済めば良いけどなぁこの野郎」
「あははは……ってか病院行けばいいじゃん!」
狗谷木はぽんと手を打って名案とでもいうようにそう言った。俺は教科書類を手に持ち教室を出る。狗谷木もついてきた。
「あのなぁ、この怪我に心当たりありますかって聞かれて天狗にボコられましたなんて言えるわけないだろ」
「生徒にやられたって言えばいいんじゃん?」
「そっちの方が問題ありだっての。つーか病院行く暇もないわ」
そっかーと唸ると狗谷木は腕を組み考えるような表情をしている。話していると腹が痛くなってきた気がして少し摩る。空腹のせいなのか気持ち悪さを覚えた。
「……あ。んじゃ夜もやってる妖怪の医者んとこ行ってみれば?」
「なんだそれ?」
ぽかんとする。
妖怪の医者?
それは「医者が妖怪」なのか「妖怪を見る人間の医者」なのか。
「オレも聞いたことあるだけだからそんな知らないんだけど~……あとで行き方教えるよ。桃間先生連絡先教えて~」
「誰が教えるかっての。学校で堂々と聞いてくんな」
「えー、駄目なの?」
ケチだなぁ、と狗谷木は唇を尖らせた。
「じゃー仕方ないから美鬼ちゃんに連絡するかぁ。あとで美鬼ちゃんから聞いてよ! 人間のこと診てくれるかはわかんないけどさ、多分どうにかしてくれるって」
「お前のせいでこうなってるってのに投げやりだな……」
「ほんと悪いと思ってるって~! 部活が無けりゃ放課後オレが連れてってたし!」
「はいはいそりゃどーも」
職員室前までやってくると俺は狗谷木に軽く手を振って中へと入っていった。自分のデスクまで行き、ふとパソコンを起動させてブラウザを開いてみる。検索窓には、『病院』『医者』『妖怪』……そんなもので目ぼしいものが出てくるとは思っちゃいない。検索結果に出てきたサイトリンクの羅列をスクロールする。あるわけない。
「──桃間先生、何見てるんです?」
声にハッとして振り返った。河原先生だ。
「あ……いや、大したことじゃ」
「もしかして~こんな昼間からエロサイトの吟味ですか? 今夜のおかずに使うとか?」
「河原先生……男同士でもセクハラって成り立つんですよ」
苛立ちを覚えながらも静かにノートパソコンを閉じた。
「痛っ……」
ふいに胃が痛み、腹を摩った。心なしか頭もズキズキとするような気がする。これもう怪我ってより風邪とかなんじゃねーかな。
「あれ? 桃間先生お腹痛いんですか? 僕良いもの持ってますよ~。胃薬♪ あげましょうか」
「いらないです。すぐ治りますから」
「そんなこと言って~」
「次の時間授業無いんで休めば大丈夫です」
俺はそう言うと席を立った。準備室のソファで少し横になろう。そうすれば少しは良くなる。
職員室を出て化学準備室に着くと、次の授業のチャイムが鳴ったと同時にデスクの上にあるケータイが震えた。画面に表示されたのは鬼村の名前と短いメッセージ。どうやら狗谷木から病院のことを聞いたらしい。
『今日の放課後行こ!』
それを見て俺は少しだけ安堵した。それにしても病院か、昔から疲労はあるものの風邪や病気にかかったり怪我をすることは少なく、病院に行ったことはあまりなかった。花粉症にはかなり参って薬局の薬に頼ってはいたが。
「何はともあれ、仕事はなるべく終わらせておかねーとな」
夜間もやっている、とは聞いたがなるべく早くに上がれるように。体をうんと伸ばして肩回りのコリをほぐした。
***
──夜の七時、俺と鬼村は叉々山市のはずれにある病院へとやってきた。病院の周りは建物が少なく、暗い。
「いかにも何か出そうな病院じゃねぇか」
思わず顔が引きつる。とは言えこの病院は普通の人間が経営している病院だ。ネットで検索したがおかしな話は特に見当たらない。
「あたしも初めて聞いたけどー、この辺りじゃ結構有名らしいよ?」
「有名?」
「こっちで暮らす妖怪にとって」
そう言いながら鬼村は自動ドアを通って病院の中へと入っていった。俺もその後ろについていく。受付にはもう誰もおらず、病院の中は静かだ。入ってもいいのか不安になるが、鬼村がどんどん進んでいくので俺は慌てて追いかける。
廊下を進んでいくと、診察室前にはまだ患者が何人か座っていた。これから診てもらうのだろうか。あれは普通の人間だよな?
「センセー、あの部屋だって」
鬼村が指を差す。俺はその先を見た。廊下の突き当り、右側。扉がある。が、特に診察室など書いてあるようには見えなかった。部屋の前までやってくると、鬼村がそのドアを三回ノックする。特に返事は聞こえず、物音もしなかった。
「……本当に合ってんのか?」
少し不安で鬼村に問いかける。鬼村は俺を振り返ると「大丈夫じゃん?」と言って俺の手を引いた。鬼村の手によって扉が開かれる。開けるとそこには──
「はいはーい、新患さん?」
椅子に座っている気の良さそうな中年男性がいた。
部屋の中はなんということない普通の診察室だ。デスクがあり、PCがあり、書類やバインダーが見え、診察ベッドも傍らにある。
この医者、普通の人間なんじゃ……?
「この人見てほしーんだけどー」
鬼村は俺を指差す。俺は本当に大丈夫なのかわからず、少しまごついてしまった。医者は俺を見ると「はあー」とため息なのかよくわからない声を上げ、自分の顎のあたりを撫でた。
「まあまあ座んなさいな」
「え、ああ……はい」
促され、俺は医者の前に置いてある椅子に座る。医者は俺をじろじろと見つめていて、どうにも居心地が悪い。この空気に耐え切れず、俺は口を出さずにいられなかった。
「あ、あの」
「ん?」
「あなたは普通の人間……ですか」
おずおずと訊ねる。もしも人間だった場合こんなことを聞けば頭の可笑しな奴が来たと思われるだろう。が、医者は小さく「ほっほっ」と笑った。
「いやあこの姿は結構居心地がよくてねぇ、でもお望みなら姿を元に戻そうか」
医者はそう言うと顔に手を当て、額から顎までゆっくり撫でるようにした。──すると姿かたちが変化していく。白髪交じりの髪の毛はさらに毛量が増え全身を覆っていく。顔は上半分はほとんど変わらないものの鼻と口はまるで鳥のような大きなクチバシへと変形した。明らかに人ならざるものの姿だ。俺はぎょっとしたものの、逃げることなくその妖怪を見つめる。
「私はアマビコという妖怪でねぇ。大昔はなかなかに有名だったのだけれども、最近じゃどうも知名度は低いようだ。知らないだろう? そしてね、ほうれ、この姿だと足が三本、手はない。いやもちろん足も手と同じように使えるがね。ただ人間の姿の方が使い勝手がいいんだよ。わかるかい?」
ほっほっほ、とクチバシが笑い声を上げる。奇妙なものを見る目で俺が見つめてしまったからか、目の前の妖怪は肩をすくめた。
「まあそういうわけだから人間の姿でも気にしないでくれ。せっかくだし人間用の名前も教えておこう。尼野清彦というんだ」
そう言うと、するすると人間の姿へと戻っていく。そして自分の胸元にある名札を見せ──尼野先生はにっこりと笑ってまた顎のあたりを撫でた。
「私は長らくこの病院の一部を借りて妖怪相手に医者じみたことをしている。まあ、半分趣味みたいなもんだね」
「借りて、って……この病院の人たちはこのことを知ってるんですか」
「はっはっは! まさか知らないとも! 借りていると言ってもドア一枚だ。そのドアから向こうは人間の病院だが、この部屋は我々の敷地。時たま間違ってここへ来る人間もいるが……まあすぐにお帰りいただいているよ。もちろん君のことは診るさ、安心なさい」
尼野先生は俺の後ろの鬼村に目配せをした。多分、鬼村が連れてきたから俺は今ここにいられるんだろう。
「それで? 今日はどこが悪いのかね? 桃間さん」
「え。……名前言いましたっけ」
「ほっほっ、わかるとも。外からでもわかる膨大な妖力、特異な匂い、少し考えれば誰もがあなただと気づくはずだ」
「……そんなわかりやすいんですか」
少し恥ずかしくなる。妖怪の中じゃ俺はどうやら有名人だ、注目されるのは苦手なんだが……。そう思いつつも質問の内容を思い出して俺は咳払いをした。
「実は……こないだ天狗と戦いまして。腹も殴られて、そのせいかここ数日不調なんです」
「おやおや、よく死ななかったねぇ。さすがは桃間の人間、といったところか」
そう言うと珍しそうにじいっと俺を見つめた。それからふむ、と腕を組む。
「それじゃあせっかくだし、全身を検査してみよう」
「検査、ですか?」
妖怪が?
何の検査を?
そう思う間もなく、俺は傍に置いてあるベッドに誘導された。靴を脱ぎ、そこに体を横たえる。
「桃間の体を覗く機会なんてこれまでもきっとこれからも無いからねぇ。──早羅ちゃん! 頼んでもいいかい?」
尼野先生が誰かを呼んだ。すると奥の方から誰かがこちらへと歩いてくる。看護師の白い制服に身を包んだ女性だ。少し眠そうなとろんとした目をこちらに向け、俺の脇に立つ。──傍に立つ鬼村の眉がぴくりと動いたのを俺は見逃さなかった。
「いやー、桃間の体を食べると強くなるなんて噂もあるしね。是非ともどういう理屈なのか調べさせていただきたい!」
「!?」
「いや冗談冗談」
「冗談に聞こえないですよ……」
にこやかな尼野先生の表情に、俺はぞくりと背筋を震わせる。本当に大丈夫か? 鬼村もいるし、安心していいよな?
「それじゃあ早羅ちゃん」
「はい」
「隅々まで頼むよ」
「隅々までですか」
医者と看護師のやりとりに俺は不安を覚えた。
「──お名前をお願いします」
看護師が言った。俺は嫌に鼓動が早まるのを感じながらも、乾きかけた口を開いた。
「桃間、一樹です」
「桃間一樹さんですね、それでは深呼吸をお願いします」
「え? あ、はい」
深く深く、息を吸う。
その最中、
白い制服に身を包んだ看護師は
一瞬で真っ白な煙となり
──俺の口から体内へと入り込んで来た。




