第31話 楽しいお散歩
「ぶぇっくしょい!!」
急にくしゃみが出て、部屋全体に無様な声が響き渡った。
「あー……なんだよ、最近は花粉症治ったと思ったのによぉー」
テーブルの上に手を伸ばしてティッシュを摘まんだ。
そういや全然気にしてなかったが、毎年春に悩まされていた花粉症が治った気がする。多分、鬼村と会った日からだ。妖怪に襲われ体が命の危機を感じて鼻水が止まったのかとか思ったが……結局あのあとからせっかく買った花粉症の薬もほとんど飲んでいない。──まさか鬼村が近くにいることで花粉も寄ってこないとか? なんかバリアとか張ってる?
「……って、わけわかんねーこと考えるくらい今日は暇だな」
──仕事のない日曜日。
午前は寝潰し、午後もぼけーっとしながら意味もなく時間を消費した。テキトーにテレビをつけてみたものの、面白い番組がやってるわけでもなく俺は煙草に火を点けた。
「……静かだな」
目を瞑り、わずかに聞こえてくる冷蔵庫のブゥゥンというコンプレッサーの振動音に耳を傾けた。それ以外は何もない。いつもなら部屋にいると急に鬼村がやってきてうるさくなって、センセー、センセー、センセー、って……。
「………」
鬼村の顔を思い出してしまい、妙に負けたような気分になる。
「あいつがいっつも近くにいるからだ、別に大した理由はない」
誰に向けて弁明してるのか自分でもわからない。
ただ、燻らせた煙草の煙を見つめて、強く息を吹きかけた。
煙はずっと向こうへと押しやられ、
散り散りになった。
かと思えば、
それらは急に一か所に集まり始め……
『ご主人!』
犬へと形を変えた。
「……え、あれ? 俺呼び出してないけど……」
『ご主人が寂しそうな顔してたから! 出てきちゃった!』
「自分から出てこれんの? お前ら」
『わかんない! 出れた!』
ハッハッハッと短い息をし、笑顔のような顔付きでこっちを見るまろん。静かだった部屋に音が一つ増え、俺はなんとなくほっとした。
『ご主人ご主人! まろんお外に行きたい!』
「外? 散歩に行きたいのか?」
『散歩? うん、いろんなとこ歩きたい!』
果たしてこの煙でできた犬に散歩が必要なのかはわからないが、俺はしばし考えて「まあいいか」と思い至った。
***
まだ明るい日中にまろんを連れて歩くのは少し心配な気もした。この犬は遠くから見れば普通の犬に見えるんだろうか。もし他の人間とすれ違ったら、悲鳴を上げられないだろうか。そんなことを考えていたが、外に出てみると俺はすぐに杞憂だったことがわかった。
外を歩く人間は誰も、まろんのことを気にしちゃいなかった。
見えているのかいないのか、それはよくわからない。通り過ぎる際に何となくまろんを見ていた気もするが、特に反応があるわけでもなくそのまま行ってしまう。最初こそひやひやしていたものの、そういうものかと俺も納得することにした。
『ご主人ー! あそこになんかあるよ!』
「公園か?」
『ちっちゃい人間がなんかしてる! まろんもしていい!?』
なんかしてる、というのは多分滑り台のことだろう。何人かの子どもたちが順番待ちの列を作って滑り台で遊んでいる。
「……犬に滑り台ってできるのか?」
俺の疑問をよそに、まろんは走って道路向こうの公園へと向かってしまった。
車が来ているのを気にもせずまろんは走っていく。俺が呼び止めたものの、まろんは車にぶつかることもなく道路を抜けていった。俺は仕方なく少し離れた場所にある横断歩道へと向かう。
少し遅れて公園に着くと、まろんは子どもたちに交じって滑り台で遊ぶ順番の列に並んでいた。一緒に並んでいる子どもたちは、どうやらまろんが見えているのか「わんちゃんも滑り台するの?」「わんちゃんが並んでるよ!」と口々に言っていた。数名の親が近くで子どもを見ているのかいないのか立っているが……ただその親たちはまろんに気づいていないようだった。
『ご主人ー! 見てて見てて!』
順番が来たのであろうまろんはそう言うと、器用に滑り台の階段を上っていき、滑り台からするすると滑って降りてきた。
『うわー! 楽しい! ご主人、もっかい行ってきていい!?』
「あー、ああ、ちゃんと順番守れよ」
俺がまろんに声をかけると、近くに立っている親たちが一瞬訝し気にこっちを見て、それから滑り台の方を見た。俺が子どもと一緒に来た親だとでも思ったんだろう。まあ似たようなものではあるが……。
結局まろんは五回ほど滑り台を楽しむとその場にいた子どもたちに撫でられて帰ってきた。あの子どもたちは違和感を覚えないのだろうか? ……いや、というか煙草の煙が近くにあったらあの子たちに悪影響だったよな、と俺はしばし自分の行動を反省した。
『ご主人! お腹ですいーってすべるのすっごく楽しかったよ!』
「そりゃそうか、よかったな」
『ご主人の家にもあれがあったらいいのに!』
「あんなでけーもん部屋に入らないだろ」
『じゃあこれからいっぱいここに連れてきて! まろん、いっぱいすべりたい!』
キラキラとした瞳が俺を刺し貫く。うっと息が詰まった俺はすぐには頷けなかった。
「……た、たまにな」
『ええー』
──気づけばもう夕方近い。太陽が沈み始めた公園からは次第に子どもたちが帰り始めていた。俺とまろんも公園を後にする。
「少し遠回りして、そろそろ帰るぞ」
『はーい!』
そう元気な声を上げると、まろんはてくてくと俺の横を歩き出した。
公園を出て道路を渡り、一本向こう側の道へと入る。それから俺の住むアパートの方角へと歩き出した。
『ご主人!』
「ん?」
『今日はあのおねーちゃんいないの!?』
「……いないよ」
あのおねーちゃん、と言われてすぐに鬼村が浮かんだ。そりゃそうだろ。あいつぐらいしか常に関わっている女なんていない。
『おねーちゃんが鬼って言った時はびっくりしたけど、まろん、あのおねーちゃん怖くないよ!』
「へぇーそうなのか」
『ご主人とみんなで倒した鬼はね、すーっごく怖かった! とーってもおっきくて、とーっても大きな声で吼えるの! まろんの声よりもおっきいよ!』
「ほー……お前の声より大きいなら、そりゃでかいなぁ」
突然まろんが最古の鬼の話をし始めたことに驚いたが、俺はなるべく口を挟まないよう話を聞くことにした。
『鬼退治に行く前はね、まろん、ご飯を探して歩いてたとこだったんだー。お腹減ったなー、ぐうぐうだなー、でもなーんにもないなぁーって』
「ふぅん……飯をくれる人間はいなかったのか」
『人間はあんまりいなかったよ! 昔はいたんだけど、人間、突然消えちゃって。だから別のところに行こーって歩いてたんだけど、いっぱい歩いても全然人間に会えなかったの!』
「……そうか」
『そしたらね! ご主人に会ったんだよ! きびだんごってゆー美味しいものくれた! 食べたらすーっごく元気が出て強くなったんだよ!』
「強くなった?」
そういえばこいつらのことを山神やあの陰陽師の女の子は『神獣』とか言ってたな。きびだんごには普通の動物を神獣にするとかそういう力があったのか。……桃太郎の物語ではきびだんごっておばあさんが桃太郎にって作ったやつじゃなかったっけ? おばあさんがなんかすげー力の持ち主ってこと?
『でねでね! 鬼退治に行ったんだけど、ご主人はすっごく強くてね! 最後には鬼をバラバラにしちゃったんだよ!』
「あ、ああ……そうなんだな」
『あんなに切っちゃうから、もしかしてご主人は鬼のこと食べるのかな? って思ったんだけど、そうじゃなかったみたい。結局その鬼の腕とか、頭とかはー、どっかに持ってったんだよ』
「どっか?」
『どっか!』
まろんはこちらを向いてニカッと笑うと、また前を向いて歩き始めた。
鬼の切られた部位ってのは……確かどっかに封印されてんだよな? 持ってったってのは、封印の為か。
『だからね、鬼ってすっごく怖ーいものなんだって思ってたの。でもおねーちゃんからは楽しい気持ちしか感じないよ!』
「そりゃよかったな」
『ご主人は、鬼のおねーちゃんのこと好き!?』
「ぶふぉっ」
咳なのかなんなのか、俺は口から空気を吐き出した。そのまま咽てげほごほと音を立てていると、まろんは驚いたのか俺の周りをくるくる回り始めた。
『ご主人大丈夫!? ご主人の口からなんか出たよ!? 新しい攻撃!?』
「違う……はあ、大丈夫だ。それで、あー……鬼村のことは別に、好きとかじゃねーよ」
そう言って、妙に胸がちくりと痛む。何の痛みだコレ。神経痛か?
『そうなの? まろんはね、ご主人のこと大好きだよ!』
「ほー、そりゃどうも」
『大好きってねーすっごくあったかくなって嬉しい気持ちになるの! だからね、まろんご主人の為にいっぱい戦えるよ! ご主人そーゆー気持ちなったことある!?』
まろんに質問され、呼吸を整えた俺はまた歩き始めた。
「……うーん、勉強熱心な生徒にはしっかり教えてやりてぇなって気持ちにはなるけど」
『え~、それよくわかんない』
「大好き、ねぇ……」
小学生の頃なら、漫画やアニメにハマっていた。あれは確実に『好き』だっただろう。
中学の頃は、バスケにハマっていた。あれも『好き』だった。
高校に入ってからは……一時恋愛感情の『好き』を覚えた時もあったけど。でも正直な話、そういう子どもの頃の好きって憧れの混ざったものだと今なら思える。
あの時女子を好きになった気持ちも、恋愛に少し憧れていた部分もあるんじゃないだろうか。周りで彼女ができただの好きな奴がどうのとか、よく聞いていたしな。
だからこの年になって、『好き』なんていう感情は改めて考えてみると……
「………」
いや、余計なことを考えそうだ。やめよう。
「まろん、さっさと帰るぞ。夕飯の買い出しに行かなきゃならん」
『急がなきゃなの? じゃあ競争だー!』
「あっ、こら走るな!!」
急に駆け出したまろんを追って、俺は久しぶりに全速力で走ることとなった──。
***
月曜朝。
いつもよりも少し早めの時間に家を出たのだが、玄関に鍵をかけていると隣のドアが開いた。
「セーンセ、おはよ♪」
顔を出したのは鬼村だ。どうやらちゃんと学校に間に合うように実家から帰ってきたらしい。
「……はよ」
俺は挨拶を返すと鍵をポケットにしまった。
同じようにドアに鍵をかけた鬼村が俺の後ろをついて歩いてくる。
「あれ、なんかセンセーご機嫌? 笑ってない?」
「笑ってない」
アパートの階段を降り切ると、鬼村が少し小走りで俺の前へと飛び出し顔を覗き込んで来た。
「あたしが帰ってきたからうれしーんでしょ?」
「違う」
「ふふふ、センセってばかわい~」
「だから違うっての」
むすっとして、リュックを背負い直した。
風が吹き、前を歩く鬼村の長い髪が靡いた。
毛先が俺の鼻をくすぐる。
「……ぶぇっくしょい!!」
「えー、センセーきたなーい」
「お前のせいだよ!!!」
──俺は理不尽な鬼に苛立ちを覚えた。




