第六十九話
周囲を隠すように濃い霧が舞う世界、アクセルは一歩ずつ地を足で探しながら先が見えない道を進んでいた。
微かに雨の匂いが漂う。
『アクセルよぉ』
小柄な狼は後ろにいるアクセルを呼ぶ。
「あー、なんだよ」
乱暴な口調で答えたアクセルは小柄な狼の尻尾を青い瞳で睨んだ。
『貴族のお嬢さん、可愛らしいね』
「うっせぇ」
『お似合いだと思っただけよぉ、アクセルとなら釣り合うんじゃないかと』
軽く舌を鳴らしたアクセルは何も言わずに小柄な狼から目線を外す。
『ま、それはお楽しみさね。もうすぐ天空の城といわれる場所に着くよ』
徐々に霧が晴れていくと今度は朽ち果てた城の址が視界に映り、破片となった城壁には苔が生えている。
空は真っ青で、辺りを見回せばアクセルの足より下に無数の雲が流れていた。
「本当に浮いているのかよ……ここにドラゴンが?」
『ここに居るのはシルバードラゴンだけさ、他の若い奴らはもっと低い空にいる。ほら、あそこにシルバードラゴンがいるさね』
小柄な狼が鼻で指す場所を見上げれば積み重なった瓦礫の上にシルバードラゴンが。
彫像と見間違えるほど鱗は細かく、顔から尻尾まで銀色に輝いて王者のような風格と共に光が放たれている。
「シルバードラゴンと……アヤノはどこだ? イリスは?」
『フェンリルはほら、シルバードラゴンと向かい合ってるさぁ』
帝国軍の軽装鎧を装備した黒髪のアヤノはシルバードラゴンを眺めて余裕の笑みを浮かべていた。
「裏切り者が二匹も来たな」
アクセルと小柄な狼に気付いたアヤノは目を細めて鞘から両刃の剣を取り出す。
口を閉ざしているシルバードラゴンに手を振って、瓦礫の山から恐怖心もなく飛び降りたアヤノは草が生えた地に膝を少し屈折させて両足を着ける。
「ジイさん、イリスはどこに行ったんだ?」
他に誰もいない、アクセルは怪訝な表情を浮かべた。
『さぁ? まだ霧の中にいるんじゃないかい?』
「このクソジジイが……あとで覚えてろよ」
低く呟かれた言葉に小柄な狼は鼻で笑い、だく足でその場から離れていく。
「ルフレイを殺さなかったのか。あそこで楽にさせておけば良かったのにな」
「どういう意味なんだ、アヤノ」
「今頃どこかで魔力暴走でも起こしているんじゃないか? 知能のない獣と成り果てて生きているか、狩られているか、だろう」
「お前、仲間がそういう姿になっていくのは悲しくないのか? あんなに部下を大切にしていたお前が」
アクセルの質問にアヤノは薄い笑みを浮かべる。
「可笑しいな、やっぱり可笑しいよ貴様は。ルフレイは私を崇拝していただけの信者だ、それだけのこと。さっさと本題に入ろう、前に会ったとき私は貴様に選択肢を与えると言ったな」
「ああ」
目を伏せて小さく返事をするアクセル。
「簡単な話だ。イリスか私か、どちらか選べ」
アクセルは耳を疑う、あまりにも単純な選択肢に詳細が入っていない。
「どういうつもりだよ?」
「どちらか一つ。言っておくがどちらもだなんて、ふざけた事を口にするなよ? 平和を取り戻すなら一つしか選べない」
俯いてしまったアクセルは険しい表情を浮かべた。
腕を組んで待つアヤノと瓦礫の上で座り続けているシルバードラゴンの視線がアクセルに集まっている。
『じっくり悩む時間は少ないさぁ……それよりさっさと戦う準備でもした方がいいよ。フェンリルもね』
「裏切り者が口を挟むな」
『失礼ねぇー。しかし、ドラゴン討伐だなんて言って支配者のシルバードラゴンを倒さないのは生ぬるいさぁ』
小柄な狼は離れた場所でアヤノを伏せの姿勢で眺めていた。
「貴様、消されたいか?」
鋭く凍り付くような視線が小柄な狼に送られるが、全く動じていない。
『ま、そろそろかね』
ゆっくりと伏せからお座りの姿勢に変えた小柄な狼はどこまでも真っ青な空に向かって鼓膜を揺らすほどの遠吠えを響かせた。
空気が波のように揺れ動くことによって目には映らない壁が剥がれ落ちる音が全員の耳に届く。
遠吠えを終えた小柄な狼は満足そうに伏せる。
『こんな簡単な結界、吠えれば壊せるさね……あとはシルバードラゴン頼みかね、あとアクセル』
「な、なんだ?」
顔を上げたアクセルに小柄な狼は全身を揺らして笑う。
『まぁ好きに生きなよ。巫女や商人のお嬢さん達のことを思うなら選ぶ道は一つだけどね』
「ジイさん……ってぁえ!?」
押さえ付けられるような重力にアクセルは立っていられなくなる。
轟音に似た低い唸りは積み重なった瓦礫の上から、シルバードラゴンは大きな口を開けて空を見上げていた。
すぐに唸りが終わると体が自由になり、アクセルはふらつきながら立ち上がって短剣を抜く。
『シンシアヲ殺シタノカ、貴様』
怒りを乗せた声はアヤノに向けられた。
「なんだと? 巫女様を殺した、これはどういうことだ!?」
伏せて深く眠っている小柄な狼はアヤノの問いに答えない。
「アクセル、地上で何が起きた? あいつは何をした!?」
「あーシンシアは殺されたんだ、人間にな。俺の短剣を盗んで刺した。ジイさんは……何もしていない」
首を横に振ったアクセルの答えにアヤノは歯軋り。
血まみれの短剣はシルバードラゴンの目にも映ったはずだが、静かに沈黙を再開する。
「アヤノ、いやフェンリル。俺はイリスを選ぶ、イリスだけじゃない、皆を守る為に選んだ答えだ」
「それが貴様の答えか、この屑がぁあぁ!」
翳された両刃の剣が振り下ろされるとアクセルは伸し掛かる重みを短剣で往なすが、それはやっとのことで次の反撃ができない。
よろけたアクセルに追い打ちをかけるアヤノ。
横から剣が振られ、アクセルは後退しつつ尻餅をついてしまった。
「うっ!」
顎に剣の切っ先が突き付けられたアクセルは強引に顔を上げさせられ、鋭い眼光のアヤノがアクセルを見下している。
「弱いな、女には。私が女だから相手になれないのか? フェンリルの器になった私を馬鹿にしているのか!」
「そんなわけないだろう、がぁあ!!」
アクセルは深緑の首輪を外し、アヤノに向かって投げつけた。
同時に灰色の毛並みをもつ狼へと姿を変えて、剣の切っ先から鋭い牙で噛み砕きアヤノへ飛びかかる。
アヤノの腕に噛みついたが、涼しい顔をしていた。
「馬鹿にするなよ……屑のくせに」
腕ごと地面に叩き付けられ、灰色の狼は口を離してしまう。
余裕の笑みを浮かべたアヤノは呟いた。
「巫女様を殺してシルバードラゴンが動くと思うか? 支配者が人間一人の為に世界を焼くと思うのか?」
一度叫んだだけで、それ以上はなにも話さないシルバードラゴンは果てしない空を眺め続けている。
「世界が生まれた時から存在し、幾度と人間同士の戦争に手を貸して平和の為に勝利を収めてきたシルバードラゴンにとって大切なのは秩序と平和、我々のような戦いを望む狼とは違う……だから分かり合えないはずなのに、あの平和主義が私にまでうつりそうで気が狂うよ」
腕から溢れ続ける血液を見つめるアヤノは眉をひそめて笑う。
「だから残念だな、貴様に味方はいない。親を裏切る屑は死んでもらう」
半分ほど折れた剣を打ちつけられた衝撃で動けない灰色の狼へ。
「さよなら、アクセル」
「待って!!」
アヤノの動きを止めた少女の声に灰色の狼は顔を上げる。
霧を振り払って飛び出してきたのは必死な表情を浮かべたイリスだった。
「イリスか、面白い。これは期待できるものが見れる。そこで寝ている裏切り者にとっても嬉しいことじゃないか?」
『がぅあうあ』
唸る灰色の狼をアヤノは踏みつけて、折れた剣はイリスを狙って飛んでいく。
折れた剣がイリスの腹部に突き刺さってしまうが、痛みを訴える声はない。
驚いたイリスは一瞬瞼をきつく閉じ、柄を握りしめて強引に剣を抜くと、緑色の瞳で強くアヤノを睨みつけていた。
「これ以上好き勝手にはさせないんだから、アナタを殺してこの誓約を終わらせる!」
「なるほど、血の誓約によって得た恩恵というヤツか」
『ガァアアア!!』
猛々しい声をあげて深紅の鱗を持つリザードドラゴンが天空の城に降り立つ。
「何故こいつが。シルバードラゴン、貴様が許したのか?」
『イヤ、ナニモ……誓約者ノ負ダロウ』
驚いた様子もなく落ち着いた口調のシルバードラゴンにアヤノは一笑。
「これでは手加減ができないじゃないか」
アヤノは呟くのと同時に四つん這いになると自らの体を大きく膨張させて人から白い毛をもつ狼へと姿を変えていく。
地に亀裂が入ってしまうほどの巨体が三匹もいるせいで軽く地震が起き、灰色の狼は首を振って立ち上がると急いでイリスのもとへ。
「アクセル!」
灰色の毛を撫でまわすイリスにペット扱いされているが灰色の狼は気にしていない。
ついでにとイリスの顔を舐めていると、
『イリスから、ハナレロ、コノ穢レタ獣ガァ!』
リザードドラゴンから吐き出される増悪と殺意が一気に灰色の狼へ降り注がれ、舐めるのをやめた。
『まずは若造から消してやろう!』
アヤノの声はどこかへと消え、響き渡る低い声でリザードドラゴンに噛みつく。
負けじと噛みつき返すリザードドラゴンは自慢の脚力でフェンリルを蹴り飛ばすが、顎に頭突きをされてふらついてしまう。
『なんよ騒がしい……シルバードラゴンよ、あんたにとって巫女ってその程度?』
震動に目を覚ました小柄な狼は望んでいた展開になっていないことに目を丸くさせたが、シルバードラゴンに向かって一言。
無言の重圧が小柄な狼を襲うが、全く気にしていない様子で呑気に欠伸をするとゆっくり瓦礫の上へ。
『二度目に愛したのは貴族の少女、家族を犠牲にわざわざ話相手にさせるほど愛した彼女を殺されて何故見放す? 最初の人間を愛した時、病死したのを酷く悲しんでいたのになぁ』
小さな生物を見下ろすシルバードラゴンの穏やかな眼差し。
『オマエニハ聴コエナノイカ? シンシアの想イガ、指輪ヲ通ジテ聴コエテクル。我ト共ニ誕生シタコノ世界ニ生マレテ良カッタト』
『それが世界を壊したくない理由ってことかい? それだと、ワシらとの共存は望めないねぇ』
面白くない、小柄な狼の呟きにシルバードラゴンは答える。
『ダカラ来タノダロウ』
激しいぶつかり合いをしている二匹を眺めながら鼻で笑った小柄な狼。
『まぁそうだろうねぇ』
深紅の鱗が剥がれ落ちる衝撃にリザードドラゴンはよろけてしまい、硬い皮膚から鮮血が流れ地面を赤い体液で濡らす。
「リザードドラゴン!」
イリスの呼びかけに応えるように立ち上がったリザードドラゴンはフェンリルに向かって口から球体の炎を吐き出した。
しかし、フェンリルは炎を簡単に前脚で振り払いリザードドラゴンの首に鋭い牙で噛みつく。
『グアァウウアア』
「だ、駄目、リザードドラゴンが!」
意識が朦朧としていくリザードドラゴンを死ぬまで噛み続けるフェンリルに、灰色の狼は地を蹴って飛び上がった。
フェンリルの耳の一部を容赦なく噛み千切り、灰色の狼は次に背中に乗って全力で駆けていくと尻尾も耳と同じように噛み千切る。
『貴様ぁ!!』
リザードドラゴンの首からようやく牙が抜かれ、フェンリルは体を揺すって灰色の狼を投げ飛ばす。
その場に倒れてしまったリザードドラゴンは白目を剥いたまま痙攣を起こし、口から唾液と血液を零してしまう。
灰色の狼は地面に叩きつけられた衝撃で歯茎や鼻から出血。
「大丈夫!?」
イリスの心配そうな声に反応したリザードドラゴンは意識を戻し、同じく倒れている灰色の狼を視界に映す。
『イリス、行ケ、血の誓約デ交ワシタ復讐ヲ果タセ』
「え、でも」
『行ケ!!』
髪が乱れて足がもつれるほどの強い咆哮にイリスは思わず目を閉じた。
爬虫類の瞳孔がイリスを睨みつけて早く行くように促し、イリスは落ちていたアクセルの短剣を掴んで走り出す。
弱々しく唸る灰色の狼も意識を取り戻したのか、フラフラと立ち上がる。
蒼く丸い瞳でリザードドラゴンを見つめ、軽く吠えた。
『フン、我ガ与エタ指輪ハ……タダノ飾リデハナイ』
体中の皮膚から外へ血が流れているリザードドラゴンは重低音を響かせながら笑う。
何度でも立ち上がるリザードドラゴンは耳や尻尾の一部を千切られたフェンリルに突撃。
『やっぱりあの若造達には無理かねぇ』
小柄な狼は傷だらけの二匹の姿に感想を漏らす。
何も言わないシルバードラゴンは静かに、手を下すことなく座っている。
『どうせ時間の問題さね。分かってんだけど、何千年と生きていても終わりが来ると怖いねぇ』
小柄な狼が振り返ってみると、積み重なった瓦礫を血が滲む手で登ってきたイリスがいた。
『フェンリルが復讐の相手じゃなかったかい? 商人のお嬢さん』
「お父さんの家族を喰い殺したのはアナタだって日記に書いてあったの、傷があって小さくて人語を喋る狼」
『否定はしないさぁ、じゃあどうするのかね』
手から血の雫を垂らし、瓦礫の床に何滴も染み込ませていくイリスは短剣を強く握りしめている。
「お父さんの復讐を終わらせるに決まってる」
『それがお嬢さんにできたらいいねぇ』
四脚を震わす小柄な狼はシルバードラゴンを肩越しに覗いてすぐに正面に戻す。
大きく口を開けてイリスに飛びかかった小柄な狼だったが、目の前で短剣より前に指輪を翳したイリスによって動きを止められてしまう。
小柄な狼は空中で青白い光の輪に締め付けられた。
短剣の切っ先が小柄な狼の心臓に突き刺さればイリスが填めている恩恵の指輪に亀裂が入る。
『まぁ……分かって、たけ、どねぇ』
天空の城を覆う真っ白な閃光が恩恵の指輪から放たれ、イリスの視界を塞いでしまう。
何もかもが白に染まり、世界が消えたかのような錯覚に陥った瞬間だった……--。




