第三十五話
よろしくお願い致します。
朝の露天市場にイリスの姿はなかった。
不審に思った青年アクセルと巫女のシンシアは住宅街の端にある平屋に向かう。
扉を乱暴に叩いたアクセルは少し待つも、返事はない。
怪訝な表情を浮かべて扉の取っ手を回して引くと、抵抗もなく開いた。
隙間から室内を覗いても真っ暗でどうなっているのかわからない状況にアクセルは肩をすくめる。
「おーいイリス?」
名前を呼ぶがそれでも返事はなく、扉を開けて部屋の中へ入った。
「イリス、いるのか!!」
怒っているかのような声量が部屋中に響く。
外の光が射しこまれると、部屋には数えきれないほどの日記帳が散らばっていることに気付いた。
イリスが普段寝ているはずのベッドが日記帳で埋め尽くされている。
「いない」
「いない、じゃありませんわ! こうなるのでしたら、あの時に仕留めておけば良かったですわ」
悔しそうに唇を噛んだシンシアにアクセルは首を傾げてしまう。
「あの時って?」
「て、帝都でのことですわ……気絶さえしていなければわたくしだって戦えましたのに」
視線を逸らしたシンシアは緋袴の袖を捲り、胸の前で腕を組んだ。
左手の中指には赤い石が埋め込まれた指輪を填めている。
「そういうことにしておく」
深く追求してこないアクセルに安堵したのか、シンシアは軽く息を吐いて目を細めた。
「わたくしが探しますわ、アクセルさんはとにかくゾフィーさんに会いに行ってくださいな」
「いや、でもな」
その言葉に険しい表情を浮かべたシンシア。
「二人が同じことをしている時間なんてありませんわ!」
声を荒げたことでアクセルは目を丸くさせ、シンシアを見下ろしている。
「ですから、わたくしがイリスさんを探しますの。アクセルさんは早くアヤノ隊長を見つけ下さい」
シンシアは俯きながら部屋から出ていく。
耳元で囁かれている声を無視して商店通りへ続く道を眺めていると、ワンピースドレスを着ている少女を発見。
娼婦である彼女がここにいる、それだけで眉間に皺を寄せてしまう。
「おはようございます、シンシアさん」
褐色の肌、長い黒髪を後ろで左右に結んだ少女はにこやかに挨拶をしてくれる。
「何か御用ですの? セレスティーヌ」
相手にしたくないのか視線を合わせないシンシア。
「イリスさんのこと知りたくないんですか?」
笑みを崩さないセレスティーヌの言葉に思わず目を向けてしまった。
唇を噛んだシンシアは胸の不快感を抑えつける為に一旦深呼吸を繰り返す。
「ボクのことを毛嫌いするのはいいですけど、ボクだってイリスさんのことは心配なんですからね。それだけは分かってくださいよ」
「そんなの分かっていますわ」
冷たい眼差しを送りつけると、セレスティーヌは朱色の目を細めて眉を下げていた。
「イリスさんを困らせているのはそっち、じゃないですか?」
穏やかな口調は消え、吐き出されたのは凍てつく声。
「また……言いましたわね」
抑えていたはずの不快感が膨らみ始めて、シンシアは低めに呟く。
「あーその、いいか?」
睨み合う二人の少女の間に大きな手を割り込ませたのはアクセルだった。
気まずそうにしているアクセルを見上げると、シンシアはすぐに俯いて早足でその場から抜け出す。
「シンシアさーん! 山だよ、山だからねぇ!!」
背後から掛けられた大きな声。
僅かな情報を頭に残して、シンシアは町から出て行った。
門番の兵士はシンシアなど眼中にない様子で草原を見ている。
草を踏み潰すように歩くシンシアの眼光は獣を寄せ付けないほど力強い。
『シンシア』
耳元で囁かれたシルバードラゴンの声を無視したシンシア。
『イリスハ、アヤノヲ探シテイルハズ』
「詳しくは知りませんの?」
ようやく耳を傾けたシンシアは温かみのない口調で返答する。
『リザードドラゴンニ、邪魔ヲサレテイル』
「そうですわよね。今回はアクセルさん抜きでやります……彼がいては余計にイリスさんが苦しんでしまいますわ」
何者でも容赦しない、目に浮かぶ殺意に似た冷徹な感情を剥き出しにしたシンシアはただ山を目指して進んでいく。




