35:鎮守
まだ生まれて間もない私は、なんの力もなく、ともすれば山の斜面での生存競争に破れ、いつかれるかわからないほどでございました。
すぐ傍らに枯れかけながらも大きな幹を持つ楠殿がおり、私を守ってくれるように感じておりました。あまりに強い日差しや風、山の表層に川ができたかと思うほどの大雨も、その陰に隠れる形で守られ、育っていきました。
ある不穏な空気の夜のことでした。私はまだ意識らしいものは持っておりませんでしたが、なんとなくその日のことを覚えております。強い風が吹きすさび、私は翻弄され、なされるがままでした。それは楠殿も同じだったでしょう。
突然の雷でした。まるで神の怒りに触れたかのような。それは楠殿を貫くように地を抜けて、かの命を根こそぎ奪ったようでした。私は怯えておりました。言葉も知らぬ頃のことです。ただ風に任せて震えるばかりだったのでしょう。
ドン、と地響きがする勢いで、なにか白いものが楠殿にぶつかりました。いえ、天からとんでもない勢いで降りてきたのでしょうか。
「ぬ、この大木が打たれたのか。止めを刺してしまったようだが、これは申し訳ないことをしたのう。」
今では愛おしくも畏れ多いその赫ら顔も、轟く雷のようなそのお声も、何より体から溢れてくるその強い気に、恐れ慄きました。
「これは、楠公か。この辺一体の鎮守もしておったようじゃな。ふーむ。」
とても高い鼻をしごきながら、白雷様は私を見つけられました。
「おや。そこに在るは山桜の若木。ふーむ。……楠公はお前を跡取りに考えていたのかもしれぬな。」
バサリと立派な羽を一掃きし、降りてこられた白雷様はビリビリと雷を纏っておられるようでした。
「おい山桜。お前を『遠雷』と名付ける。わしの加護をやったからには立派に成長せいよ。たまには見に来てやるからな。」
多分、それが私の新たな生命の始まりだったのでしょう。
折りに触れ私のもとに訪のうてくれた白雷様は、経験されたとんでもない話を面白おかしく語らってくれました。私は力をつけ、どんどん大きくなり、いつしかこのお山の一帯のことが手にとることが出来るほどにわかるようになりました。
もちろん白雷様には遠く及びませんが、手ほどきを授けられた私は多少の法力が使えるようになっておりました。少し風を送ったり、小さな雨雲を呼び寄せる程度でしたが、私を育んでくれたこの地を私なりに豊かに出来るよう出来ることを行っておりました。
極時折、人間がこのあたりを通りかかることがありました。ある時通りかかった人間は、私を見上げ、何かに打たれたように手を合わせておりました。その人間は近くの池の畔に居を定め、枯れたり弱った木を集め、庵を結びました。そして私の根本に小さな祠を建てました。
それからいかばかり経ったか、人間の髪が白くなり、腰が曲がった頃、白雷様がこの地に訪れました。
白雷様はその人間を気に入り、ともに暫くの間この地に留まられました。白雷様はどこからかお酒をお持ちになり、春霞みの下、満開の私を愛でながら二人で小さな宴を催したものでした。この頃が私にとって最も幸せだったかもしれません。
いつの日か、白雷様が弱った小烏を連れて参られました。
「普段なら気にも止めぬのだが、たまたま足をついたところに巣があってな。親御と踏み殺してしまったのじゃ。それでつい持ち帰ってしまってのう。しかし我が地ではどうしようもないので、持ってきたのよ。悪いが面倒を見てくれぬか。」
「白雷様、もちろんでございますよ。これは賢そうな顔をしております。きっと良い烏になるでしょう。」
人間に世話を受けた小烏はすくすくと育ち、そこらを賑やかしく飛び回るようになりました。しかし、人間に育てられたせいか上手く他の烏達と仲良く出来ぬようで、いつも一羽で遊んでおりました。
次の年、白雷様が訪れたときには立派な烏となり、丁寧にお辞儀をしてご挨拶するまでになっておりました。しかし人間は、そのころ既に体調が悪く、歩くのもやっとなほどになっておりました。私が良い水や風を送ってももはやどうにもならないくらいでした。
「おい、お前は本当にこのままで良いのか?」
「はい。人には人の定めがあります。昔は天狗様や仙人様になりたいと思ってましたが、年を取り、白雷様や遠雷殿、様々な者共と触れ合う生活をするうちに、このまま移ろう生を全うしたいと願うようになりました。申し訳ありませぬ。」
「そうか。それは寂しくなるのう。我が眷属も次第に数が減っておる。人の世が経つに連れ、ますます肩身が狭くなるわ。」
磊落に笑い声をあげられますが、私は胸が苦しくなりました。
「では一つお願いがあります。」
「おお、めずらしいな。お主から頼み事とは。なんじゃ言ってみよ。」
「この小烏を眷属にしてやってもらえませぬか。」
「これをか。」
「はい。烏は敏い生き物ですが、これは実に賢しゅうて、お傍に置かれればきっとお役に立ちまする。」
「うーむ。そうじゃな。わしの法力も実は大分衰えてきているのじゃ。それもいいかもしれぬのう。さ、では小烏よ。わしの眷属となるか?」
小烏はパタパタと白雷様の前に下り立ち、頭を垂れます。
「はー!」
小烏の鳴き声はあまり烏らしく無く、人の言葉を真似るようになっておりました。
「そうか!よくわかった。ではお主の名前は『眩目』だ。くろめよ、世は移ろい、人に騙される天狗が増えた。我はくやしくもあるが、これも仕方がないことかと持っておる。世の理を曲げるほどの力は我らには持ち得ぬのだからな。だからこそ、騙されず、逆に人の目を眩ましてやれ。そうすれば、楽しく生を全うできるであろう。」
小烏は白い雷に打たれました。強い光を放ち、みるみる大きくなり、十歳ほどのわっぱになりました。
艶やかな黒い羽を持つ、烏天狗でありました。
「一つ用を済ませて戻るから、少しばかり世話をしてやってくれぬか。お主の命が尽きるまでには必ず戻る故。」
「承りました。しかし腰が痛い故、庵まで小烏を運んでくれませぬか。」
「面倒じゃの。ほれ、少しばかり治してやったから、もうちょっと生き汚くならぬか。」
「ありがたいですが、相変わらず面倒くさがりでございますな。ではこの童子をできるだけ仕込みましょうぞ。」
翌年白雷様がまた訪れたときには、くろめは既に立派な烏天狗となっておりました。
「父上!お久しゅうございます!」
「こら!父上なぞと呼ぶな!親ではないぞ!親孝行はそいつにするのだ!」
「はい父上!なんとお呼びしましょうか!」
「わしは天狗の白雷じゃ!」
「はい、白雷様!」
白雷様はまたしばらく留まって、飛び比べをしたり、色々とくろめを鍛えておられました。
ある夜のこと。くろめが寝静まった後に、人間が白雷様に話しました。
「白雷様。私の命もいよいよです。もう一月も持たないでしょう。その時はくろめを頼めますか?」
「そうよな。だがわしも実は長くは無さそうなのじゃ。500年を超えて生きてきたのじゃが、どうにも寿命が近づいているらしい。」
「それは困りましたな。」
「そうじゃな。……。お主、実はかなりの法力をもっておろう。血も確かじゃ。安倍の狐の血を引くのであろう。」
「話したことはなかったはずですが、流石によくご存じですな。」
「わし一人では荷が重い故、近所の竜神を連れてくるから、お主が死んだら祀ってやる。氏神となりて鎮守するのじゃ。」
「これはまた面倒事を押し付けられますな。元はと言えば白雷様がご神木を打ち倒したのが始まりというのに。」
いたずらっぽく笑われる人間は、まるで子供のように邪気もなく、私は、すっと納得してしまいました。これが、これこそがこの森の、山の正しき道なのであると。




