夫婦のひと時?
コトン
「お待たせしました。『キール・ロワイヤル』です。」
アゲハも隣に座った男の見覚えがあったのだろう。
男に気づかれないようにチラリとシェルティーを見ると、他の客がいる席の方へと向かった。
「ちょっとぉ楽しんでる?私も混ぜていただいても?」
「おぉ!ママじゃないか。ほら皆ママが来たぞ。開けろ開けろ~」
(あっちの方が楽しそうね……)
シェルティーは、カクテルを飲みながら、置いてあったチーズに手を伸ばした。
その瞬間――
シェルティーの手にチーズとは違う感触が伝わった。
「あぁ……すまない。君の手が……美しくてね……」
「は、はぁ……」
チーズを取ろうとしたその瞬間、アデラールは皿を自分の手で覆うように差し出したのだ。
シェルティーは眉をひそめた。
(ここが薄暗くてよかったわ……)
夜の雰囲気を出そうと灯りを最大限に使わず、少し照明を落としていたことが幸いした。
この照明は、店に出資した際にシェルティーが提案したものだ。最初は渋っていたアゲハも、今では店の雰囲気が良くなったと気に入っている。
「高貴なお方にそんなこと言っていただけるなんて嬉しいです。シルベリアン公爵……」
「なんだ、私のことを知っていたのか……」
「ふふっ……あなたのようなお方を知らない方のほうが少ないかと思いますけれど。」
シェルティーはアデラールの手に自分の手を重ねて微笑む。
「そうか……私のことをそこまで知っていてくれたとは。」
「えぇ……」
(知らない人の方が少ないわよ……)
シェルティーは笑みを崩さない。
(目を合わせたら終わりね。)
シェルティーはアデラールの手へと視線を落とすと、これまで耳にしてきた噂を思い返した。
『シルベリアン公爵は顔だけの男よね。いつも豪遊ばかりして……』
『そうそう……酒癖悪くて何件も出禁になってるらしいよ。』
『そりゃ出禁にもなるよ。女を何人も食い散らかしてるらしい。もしかしたらどこかに隠し子でもいるんじゃないかって噂だよ。』
街へ出れば、聞きたくなくてもそんな噂が耳に入ってきた。
そして、王宮でもまた――
『聞いたか? 最近、シルベリアン公爵の羽振りがいいらしいぞ。』
『私も聞いたぞ。なんでも歓楽街を渡り歩いているらしい。』
『俺はカジノに入り浸ってるって聞いた。あと、危ないヤツらとつるんでるんじゃないかって噂もある。』
(一つも良い噂はないのよね。ほんと、見た目だけの人だわ。)
シェルティーは一度目を閉じると、アデラールに気付かれないように小さく息を吐いた。
(今の私はシェルティー。コレットじゃないわ。)
シェルティーはゆっくり目を開くと、頬を少し赤らめる。
そして、アデラールの膝にそっと手を添えてから、指先で優しく撫でた。
「もちろんですわ。あなたのような綺麗なお方……一度見たら忘れるわけがございません。」
「君と私は一度会っているのかい?」
「いえ……」
シェルティーは首を横に振ると、ちらりとアデラールの鼻の頭あたりへ視線を向けた。
「一度見かけただけです。そんな、私なんかがシルベリアン公爵様とお会いするなんて恐れ多いことですもの……」
「君……よければ私のことはアディと呼んでくれないか?君のことは……そうだな。シェルと呼んでもいいだろうか……?」
「えっ……でも……奥様がいらっしゃるのではないですか?」
すると――
アデラールはグイッとシェルティーの顎を持ち上げた。
「ちょっ……」
「あぁ……その翡翠の瞳……今にも吸い込まれそうだ。」
さらに顔を寄せると、首筋をかすめるように息を吹きかけた。
(まるで毛虫が這ったみたいね……)
しかし、それだけでは終わらなかった。
「いや……もう吸い込まれているのかもしれない。」
そのままシェルティーを抱き寄せ、耳元へ唇を寄せた。
空気を吐き出すような小さな声が耳元をくすぐる。
(本当無理……)
「こんなに心を乱されたのは初めてだ。」
突然のことに、シェルティーの身体がぴくりと強張り、笑みを浮かべたまま固まった。
(ち、近い……酒臭いんだけど……)
普通だったら甘い雰囲気になるのかもしれない。
だが、シェルティーの心はアデラールの行動に寒気しか起きなかった。
シェルティーは笑みを浮かべたまま、そっと身体を離した。
「ふふっ……そんなこと仰るなんて、お上手なんですね。」
「でも、公爵様ほどのお方でしたら、女性には困らないでしょう?」
シェルティーはアデラールから離れると、カウンターの方へと向き直り、グラスを手に取った。
「それより、ここはお酒を飲む場所……乾杯しなおしませんか?」
「そうだな……」
アデラールもグラスを手に取る。
「月夜を舞う黒い蝶に乾杯……」
二人はゆっくりとグラスを近づける。
「ふふっ……」
チリン
「乾杯」
グラスが澄んだ音を立てる。
シェルティーはキール・ロワイヤルを一口含み、小さく微笑んだ。
「それで、公爵様は今日はお一人で?」
「あぁ~……最近いいことが続いていてね。仕事も落ち着いたし、飲みに出てきたんだ。まさかシェルと出会えるとは思わなかったけど……これも運命かな。」
「そうだったのですね。いいことが続くなんて、どんなことがあったんです?」
いつの間にかアデラールは、シェルティーのことを「シェル」と呼んでいた。
だが、今さら訂正するつもりもなく、シェルティーはそのまま話を続ける。
「ん~どうしようかな……君がアディと呼んでくれたら考えてもいいが……」
(さっさと話しなさいよ……。)
「男性のことを愛称で呼ぶことが初めてで少し恥ずかしいのですが……」
シェルティーは少し照れたように視線を伏せてから、
「アディ……あなたのことがもっと知りたいわ。」
人差し指でアデラールの肩を軽くつついた。
シェルティーの仕草にアデラールは手で目尻を押さえると、顔を赤くした。
「なんて……天使なんだ……」
ぼそぼそと何か言っていたが……シェルティーは聞こえないふりをして、グラスのお酒をこくりと飲んだ。
(こわっ……)
それからしばらくして――
やっと落ち着いたのか、アデラールは顔から手を離す。
「実はな、面倒な女が家からいなくなったんだ。」
「もしかして……奥様のことですか?」
「まぁ……そんなところだ。」
「そんな……急にいなくなってしまって、公爵様はお寂しくないのですか?」
「そうだな……少し寂しいかもしれん。」
アデラールはシェルティーを見つめると、小さく微笑んだ。
「もしよければ、シェルが私の寂しさを救ってはくれないか?」
(ほんと都合がいいわね……)
シェルティーは最後の一口を飲み切ると、グラスの縁を指でなぞるように拭った。
「そんな……奥様が帰ってきたら申し訳ないですもの……私には過ぎたお誘いですわ。それより――もっとアディのことを知ってから……ではだめですか?」
「……困った人だ。」
アデラールはそう呟くと、不意にシェルティーの指先へ手を伸ばした。
そして、指先をぺろりと舐める。
(ひっ……)
「いいだろう……何が知りたい?」
「そうですね……アディのことならなんでも嬉しいです。」
アデラールはその言葉に気分がよくなったのか、グラスを傾けながら次々と口を開いていく。
シェルティーはアデラールの話に相槌を打ちながら、ときには驚き、ときには微笑む。
そしてグラスの中身が減るたびに新しい酒が注がれ、気付けば外は明るくなっていた。
その間、シェルティーは笑顔のまま頷き、一言一句を聞き漏らすまいと耳を傾けた。
聞き逃してはならない言葉を、一つずつ頭の中に書き留めていく。
それらは、これまで点だった出来事を一本の線へと変えていった。
――そして。
アデラールがカウンターに頭を付けて眠ったのを確認してから、シェルティーは外に出た。
「ふぁぁ~~……やっと解放されたわ。」
シェルティーは大きく欠伸をすると、静かに笑みを浮かべた。
今夜の収穫は、想像以上だった。
(これでようやくつながったわ……)
コレットはシェルティーの仮面を外すと、トニーの家へ向かった。
――その一部始終を、静かに見つめる影があった。
「シェルティーか……」
低く呟いた人物は、コレットの去った方向を見つめたまま、不敵に口元を歪めた。




