消えた朝刊。
カラン、カラン――
「いらっしゃい……」
街外れにひっそりと佇む文具店。
大通りには大きい文具店があるため、ここにはほとんど客が来ない。
ここに来るのは静かに買い物したい客か、店主に用事のある客のどちらかだ。
コツンコツン――
高そうな靴音を響かせながら一人の男が店内に入ってきた。
(……見ない顔だな。)
「どのようなご用件でしょうか?」
トニーは警戒しながらも店主として笑顔で迎え入れる。
「ここはゴールデン商会か?」
「……?」
(看板見なかったのか……)
外の看板には『ル・クシネ』と書かれている。
「『ゴールデン商会……?』ですか?申し訳ございません。当店は『ル・クシネ』。街外れにあるしがない文具店でございます。」
「……そうか……」
男は短く一言答えると、かかとを返した。
(……ん?なにか用事があったんじゃないのか……?)
トニーは男の背中を見送りながら、小さく目を細めた。
その瞬間――
「いや、待て!なぜ俺が帰らなければならない。」
男は立ち止まり、声を荒らげた。
(いや、勝手に帰ろうとしたのはお前だろ?)
トニーは喉元まで出かかった言葉を飲み込むと、頬を引き攣らせながら、もう一度話しかけた。
「ご用件をお聞きしても……?」
「……」
すると、男は無言のまま動かなくなった。
二人の間に妙な沈黙が落ちる。
(こいつ……もしかして、バカ……なのか?)
トニーは目の前の男をじっと見つめた。
紅茶にミルクを混ぜたような淡いブラウンの髪。
着ている服も靴も一級品。どこぞの貴族であることは間違いない。
だが、その整った顔立ちとは裏腹に、どこかあどけなさが残っていた。
(なかなか進まないな……)
他に客がいる訳ではないが、ずっと通路のど真ん中で立ち往生されているのは気が散る。
トニーは小さく肩を竦めると、肉球マークのある扉をくぐった。
この店は文具店と言いながら少し作りが変わっている。
売り物が並ぶ店内の一番奥には、小さなカウンターが設けられていた。
席はたったの四席……
常連がゆっくり話をすることもあれば、密談の場になることもある。
勿論、コレットもこのカウンターの常連だ。
(そういえば……最近あいつの姿を見ていないな……)
ふと熟したぶどうのような髪色が頭の中をよぎる。
(忙しいのかもな……)
トニーは気持ちを切り替えるように首を横に振ると、カウンター内に入り、二つのカップとサイフォンを準備した。
そして――
カチャカチャ
慣れた手つきで、コーヒーを作っていく。
部屋の中に豆の挽いた芳醇な香りが広がった。
「この香りは……」
(やっと動きだしたか……)
「ご存知でしたか?『コーヒー』という飲み物なんですよ。お口に合えば良いのですが……」
コポポポ
トニーはコーヒーをカップに淹れると男の前に置いた。
「もし良ければこちらもどうぞ。苦味や酸味が強いので、甘いお菓子と丁度いいんです。」
「あ、あぁ……すまない。」
トニーはカウンターを回り込むと、男から少し離れた位置に腰を下ろした。
「どうぞ、ごゆっくり……」
そして、男に一言だけ伝えると、一冊の本を取り出した。
その本には『お邪魔虫夫人』の名前が刻まれていた。
すると――
ガタガタッ!
静かな店内に、椅子の擦れる音が響き渡った。
「そ、その本は……」
(なんだ……騒がしいな……)
トニーは本から顔を上げて男を見る。
「えぇ、巷で流行っている本です。『お邪魔虫夫人』の大ファンなんですよ。」
男の口元が少しだけ緩む。
「そ、そうなのか……」
(……あいつの知り合いか?カマかけてみるか……?)
「えぇ、なんと言うのでしょうね。言葉の一つ一つに嘘がないように感じるんですよ。心に刺さるというか……」
男は、自分が褒められた訳でもないのに、頬を赤らめた。
「そうそう、まだ彼女が売れる前にこの店に来てくれたことがあったのですよ。万年筆や原稿用紙を大量に買い込んでいましてねぇ。その時にお名前を聞いたんです。そしたら、彼女なんて言ったと思います?」
「なんと言ったんだ?」
男は身を乗り出した。
その顔は『お邪魔虫夫人』のファンという顔ではない。
恋する乙女そのものだった。
「クスッ……『お邪魔虫夫人』と……ただそれだけ。その時からこの人はきっと人気作家になると思っていたんですよね。でないと……こんな面白い作家名考えられないでしょう?」
「……コレットらしいな……」
男はボソリとコレットの名前を呟いた。
(やはりか……あいつ……恋愛に興味ないとか言っていたくせに、こういう男がいたのか。それとも……弟とか……いや、似てないか。)
「コレットですか?それは、『お邪魔虫夫人』の……?」
トニーはわざとらしく首をかしげる。
ここで知っていることを話すのは得策ではない。
コレットの名前が出たからと言って、知り合いかどうかは分からないのだから……
「いや……すまない。忘れてくれ……」
男はズズッとコーヒーを飲み切ると、「ご馳走様……」と一言だけ言って、扉に向かって歩き出した。
そして、扉を開けようと手をかけた瞬間――
カラン、カラン
「うぉっ!!」
扉が開き勢いよく外へと引っ張り出された。
「まいど~!!朝刊新聞持ってきましたぁ~……って……えっ?」
肩から朝刊を掛け、ハンチング帽を被った少年は、地面に転がる男とトニーを交互に見る。
「あぁ~……朝刊だけいただきます。」
トニーは少し多めにお金を渡すと、少年は全てを理解したのか何も聞かずに帰って行った。
「大丈夫ですか……?」
「あぁ~大丈夫だ……」
男は立ち上がるとそのまま外へと出た。
***
「ちょっと~楽しみにしていたのにぃ」
「お邪魔虫夫人の朝刊小説連載休止ですって~。なんでも再開目処が立っていないようよ。」
「毎朝の楽しみが無くなるなんて……」
「それよりきいた?シルベリアン公爵領で夜になると笛の音が聞こえるんですって。」
「朝刊新聞で見たわ!なんでも公爵邸では侍女や従者が消えてしまうとか……最近また一人侍女が消えたそうよ……」
「「「怖いわねぇ~」」」
(侍女が消えた……?)
文具店を出た男は、街中から聞こえる噂話に顔を青くした。
(『お邪魔虫夫人』の小説も出ていない……)
「……まさか……」
男は街中の噂話を聞いて急いで屋敷に戻った。
「……それで?何も聞かずに帰ってきたと……」
「あぁ、結局何も聞けなかった……」
(初対面の人に色々話すやつなんているか!!)
「話を聞きに行ったんだろ?」
「あぁ、珈琲だけ貰ってきた。」
「いや、何してんだよ……」
我が物顔で家に来てくつろぐセドリックを見て、マリウスはため息を吐いた。
「姉上なら大丈夫だとは思うが……心配だな……」
その嫌な予感が現実になるまで、それほど時間はかからなかった。




