9.6.静寂と、残るもの
光が、引いていった。
空にオーロラが残っていた。昼の空に白く揺れる光の幕——消えなかった。傾きの証拠が、まだそこにあった。
タワーの最上階は静かだった。割れたガラスの破片が床に散らばっていた。風が入ってきていた。
「……終わったのか」エディが言った。
「今日は、終わった」とラゼルが言った。
ーーー
〔シェリーとの回線——接続中〕
まだ、繋がっていた。切っていなかった。切る理由が、なかった。
「……サキ」電話の向こうで、シェリーが言った。「そっち、行く」
「え?」
「犯人も捕まった。可決も——した。だから、行く」
「……危険は」
「もうない。だから行くの」
少し間があった。
「ルナも来る。撃たれたのに——聞かないの。『行かなきゃいけない気がする』って」
サキは少し黙った。〔止める理由を探した。見つからなかった〕
「……気をつけて来てください」
「うん」
回線が、切れた。
サキが顔を上げた。「シェリーが来ます。議会は——可決したそうです」
エディが「やりよったな」と言った。珍しかった——そういう声の柔らかさは、珍しかった。「シェリー、やりよった」
可決された、ということの重さが、すぐには来なかった。来ないまま、三人は、空のオーロラを見ていた。
ーーー
エディとラゼルが後始末に入った。
カイロスはいなかった。痕跡だけが残っていた。装置の制御術式は安定しているが、カイロスが何を残していったかはまだ分からなかった。
「父上の居場所は」とサキが言った。
「タワーの中層に、閉鎖区画があった」とラゼルが答えた。「保護の手配をする。今夜中に」
「……ありがとうございます」
「仕事だ」
エディが「ラゼル、下から来い。僕はこっちを当たる」と言った。二人が動き始めた。
ーーー
昇降機が上がってくる音がした。
扉が開いて、シェリーが最上階に出てきた。息が上がっていた。ここまで駆けてきたのが分かった。
サキと、目が合った。
どちらも、何も言わなかった。言うことは、さっき電話で全部言ったような気もしたし、まだ何も言っていないような気もした。
シェリーが、サキの隣まで歩いてきた。
ーーー
窓の前に、シェリーとサキが残った。
並んで、外を見ていた。ミスティスの空にオーロラが広がっていた。昼間に出るオーロラは——見たことがなかった。
「……覚えていてくれたんですね」とサキが言った。
「覚えていたかった、と思った。それだけ」
少しの間があった。
「シェリーにとって——ボクは何ですか」
シェリーが少し考えた。
「……答えられない。でも——いないことを、想像できない」
「それで、いいです」とサキが言った。
「……本当に?」
「はい。名前のない場所に、ボクたちはいます。それが——ボクには、好きです」
シェリーが「好き、って言えるじゃん」と言った。
「……場所が好きという意味です」
「……うん、そうだね」
どちらも、窓の外を向いていた。
ーーー
窓の外の、遠くに——影があった。
シェリーが気づいた。黒い影が、ゆっくりとこちらに向かっていた。犬の形だった。歩くたびに、少しずつ少年の輪郭に変わっていった。
「パラドクス」
少年が、タワーの外の空中に立っていた。風が、プラチナブロンドの髪を揺らしていた。
「——今度は、ここまで来られたな」
パラドクスが言った。
シェリーの足が、止まった。サキが「え?」と顔を上げた。
「今度は、って——」シェリーが繰り返した。
(……知っている。この感覚を、知っている)
分からなかった——でも、知っていた。どこかで聞いた言葉のように、体の中に沈んでいた。頭の芯が、しんと冷えていく。うまく、言葉が出てこなかった。
呆然と、その場に立ち尽くした。
ーーー
「——世界はおそらく、この時点を起点にして」
声が、後ろからした。
昇降機の方から、ルナが歩いてきていた。片手で脇腹を押さえている。撃たれた衝撃が、まだ残っているのが分かった。それでも、足は止まらなかった。
「数ヶ月単位で、一度遡っている。合っていますね——パラドクス様」
ルナの目が、いつもと違った。伏せがちな、人見知りの目ではなかった。まっすぐで、静かで、どこか遠くを見るような目だった。
パラドクスが、ルナを見た。
「そうだ、きみはイズミの次の当主だったね」パラドクスが、ふと思い出したように言った。「——この巡りで会うのは、初めてだ」
ルナが、一歩前に出た。
「私の予知夢が狂い始めたのが、今年の初めくらいだったんです」静かな声だった。「一度は外し、一度は当たる。こんな事象は、去年以来でした。でも——こんなに長い期間にわたって続くなんて、まずないことでした」
サキが、ルナを見ていた。〔……〕処理が、止まっていた。
「だから、私は一つの仮説を立てました」
ルナの目が、パラドクスを見た。
「私の予知夢は、どちらも正しい。ただし——現実に起きていることは、一つだけ。ならば、すでに存在した時間軸があって、それをもう一度、繰り返しているのだと」
ーーー
沈黙があった。空のオーロラが、揺れていた。
「記録している」パラドクスが言った。「その通りだ。世界は一度、この地点よりも先へ進んだ。そして——巻き戻された」
「……なんで」シェリーが、やっと声を出した。
「進んだ先で、うまくいかなかったからだ」パラドクスがシェリーを見た。「だから、戻ってきた。誰かが、それを願った。——その代わりに、何かを差し出して」
「その代わりに——」
サキが、静かに言った。
「……ボクとシェリーが、初めて文化祭で会ったときのことを、忘れていた」
シェリーが振り返った。サキは前を向いたままだった。
「そっか」とシェリーは言った。
(だから思い出せなかったんだ)
(私が——消したんだ)
沈黙があった。空のオーロラが揺れていた。
「でも——今日は、違った」
ーーー
パラドクスが「今回の記録は終わった」と言った。「次の記録が、始まる」
少年の影が、また犬の形に戻っていった。
「待って」とシェリーが言った。
犬が止まった。
「……ありがとう。記録してくれて」
犬が、少しだけ頭を下げた。それだけだった。
しばらくして——消えた。
ーーー
消えた後、シェリーがルナを見た。
「……次の当主って、何」
ルナの目は、もう、いつもの伏せがちな目に戻っていた。片手で、脇腹を押さえたままだった。
「……分かりません」ルナが、小さく言った。「でも——里で、何度か、そう呼ばれたことは、あります」
それ以上は、言わなかった。シェリーも、それ以上は聞かなかった。今日はもう、聞くことが多すぎた。
ーーー
エディが「サキ、動けるか」と戻ってきた。
「はい。少しバッテリーが減っていますが」
「補充しよう。下に行くばい」
「ありがとうございます」
エディとラゼルが先に降りていった。
シェリーとサキが最後に残った。階段に向かいかけて、シェリーが窓を振り返った。オーロラがまだ、空にあった。
「……これ、消えないな」
「はい」とサキが言った。「天秤の傾きは残っています。次の戦いは、まだ先にあります」
「うん。でも——今日は、今日の分だけ」
「同意します」
二人が、階段を降り始めた。




