9.5.天秤の暴走と、声が繋がる
タワー side サキ
装置が、鳴っていた。
音というより、空気の振動だった。床から伝わってくる。螺旋状の刻印が赤く明滅して、制御術式の崩壊が目に見える形で進んでいた。天井のガラスに亀裂が入り始めた。
だがそれより先に——サキは動いていた。
壁のパネルに義手を当てる。七階で確立した接続経路を再度展開。
〔ネットワーク接続——再確立〕
〔散逸共鳴波放出プログラム:カウントダウン継続中〕
「サキ!」エディが最上階に駆け込んできた。低層の戦闘を切り上げて上がってきたのだ。「何が起きとる」
「カイロスが放出プログラムを起動した」とラゼルが言った。「タワー全体から散逸共鳴波を——」
「都市規模で放出されれば、エーテル解離症候群の大発生になります」サキが続けた。「天秤の制御も同時に崩れています。二つ同時に対処する」
「どうやって」
ーーー
「まず放出プログラムを止めます」
サキはネットワーク経由でアクセス要求を送った。
〔アストラリス大学 ヴァリアス演算研究棟 / メインフレーム——アクセス要求〕
応答まで、三秒。
〔応答:確認。緊急時リソース解放——承認〕
数値が跳ね上がった。
〔外部演算リソース:取得。処理能力:517%〕
全力で向けた。197点への逆位相送信——試行開始。
〔送信中……〕
プログラムが、応答した。一点を止めると、隣接する点が補完し合って再起動する。自己修復型——止めても止めても、連鎖が続く。処理が追いつかない。
〔同時送信:不完全。プログラム残存:89/197点〕
ーーーーーー
議会 side シェリー
「可決されました」
議長の声が、議場に響いた。
拍手が起きた。傍聴席から。賛成した議員から。シェリーは席に座ったまま、その声を聞いていた。
(……通った)
隣でルナが「……シェリー」と言った。声が少し震えていた。シェリーは何も言わなかった。ただ、うなずいた。
窓の外——アストラリス・タワーの方角を、一度見た。
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タワー side サキPOV
「……まだ足りない」
エディが「他に何か使えるもんはないのか」と言った。
〔ある〕
タワーの内部だ。カイロスが研究施設として積み上げてきたシステム——タワー自体の演算リソースが、複数の層に分かれて稼働しているはずだ。
〔タワー 第三演算層——強制アクセス〕
セキュリティが反発した。暗号壁が走る。サキは大学の外部リソースをこちらに切り替えながら壁を崩した。
〔解析中……突破——完了〕
〔タワー第三演算層:接収。処理能力拡張——〕
〔合計処理能力:1,267%〕
カイロスが積み上げたリソースを、カイロスへの対抗に使う。
〔197点、逆位相送信——再試行〕
今度は——追いついた。
〔散逸共鳴波放出プログラム:全197点、送信完了。起動中断——確認〕
ーーー
床の振動が、わずかに収まった。
だが——
〔天秤の制御信号:異常継続。光属性エーテル:臨界値の147%。制御構造の崩壊速度——加速中〕
タワー全体が揺れた。窓の外に、光の柱が立ち上がった。白と黒が交互に走る、不安定な光だった。
〔放出プログラムは止めた。だが——天秤そのものの暴走は、別の問題だ〕
〔制御ユニットの根幹に直接介入しなければ、ネットワーク経由では届かない〕
「……接続すれば、安定させられます」
「どうやって」
「——義手で制御ユニットに直接繋ぐ必要があります。根幹には、外からでは届かない」
ーーーーーー
議会 side シェリー
音が、した。
乾いた音だった。一発。議場の上の方から——傍聴席の方角だった。
シェリーが顔を上げた瞬間、ルナが前に出た。
衝撃が来た。ルナの体が一歩後ろに押された。膝をついた。
「ルナ——!」
議場が混乱した。悲鳴。議員が立ち上がる。シェリーはルナの傍にしゃがんだ。
「息、してる?」
「……はい」ルナの声は細かった。「……着てた、防弾——」
ジャケットの下に、防弾素材が仕込まれていた。衝撃は残っている。息が乱れている。
(この子は——最初から、知っていたのか)
議場の奥で、落ち着いた声がした。
「確保したぞ」
エドモンドだった。傍聴席の一角——凶手を押さえていた。護衛が続けて制圧に入った。
シェリーはルナの背を支えながら、靴底に湿ったものが触れた。思わず、足元を見た。ルナの膝の下に、水溜りができていた。じわりと、広がっていた。
ルナが気づいて「……すみ——」と言いかけた。
「大丈夫」
シェリーはそれだけ言った。ルナの背に手を当てたまま、何も言わなかった。
ーーーーーー
タワー side サキ
エディが「それ、お前が危ないだろ」と言った。
「……計算上は問題ありません」
「計算上は!」エディの声が上がった。「計算上はって何ばい。計算外のことが起きるから世界が動きよるとやろうが」
「エディの言う通りだ」とラゼルが言った。「リスクがある」
「……分かっています」
サキは装置を見ていた。刻印の明滅が速くなっていた。
「ボクには——これが必要なんです」
エディが「危険やろ。それでも」と言いかけた。
「人間であることの、証明が」
少しの間があった。
「お前が機械かどうかなんか、もう——」
「違います」とサキは言った。「ボク自身のための証明です。誰かに見せるためではなく——ボクが、ボクに対して」
エディが何かを言おうとした。言えなかった。「……止めちゃいけないのか、ラゼル」
「……止めたら、タワーが崩れる」
エディが黙った。拳を握った。それだけだった。
ーーー
「今回は僕もいる」
声がした。
階段の方ではなかった。窓の側——窓の外から、黒い影がガラスを抜けるように入ってきた。犬の形が、歩くたびに少年の輪郭に近づいた。
パラドクスだった。
サキの隣に立った。こちらを見なかった。装置を見ていた。
「証人として、ここにいる」
「……」
「問いへの答えを、見届ける。それだけだ」
それ以上は言わなかった。ただ、そこに立っていた。
ーーー
端末が振動した。
マリアからの転送だった。テキスト一行——「シェリーから」とだけあった。添付に、写真が一枚あった。
手書きのメモの写真だった。
〔……読む〕
「文化祭のこと。機材が壊れた。サキが耳打ちで指示してきた。ボクは何を言っていいか分からんかったけど、客席が笑ってた。終わった後、サキが「……まあ、良かったです」って言った。あの顔、まだ覚えてる」
文字は走っていた。急いで書いたことが分かる筆跡だった。
〔……シェリーが、書いてくれた〕
〔忘れることへの——抵抗として〕
装置の明滅が速くなった。床の振動が増した。でもサキは、一秒だけ、止まっていた。
〔これが——シェリーにとっての、言葉の代わりだ〕
胸の——義体の胸腔の、どこかに。名前のつかない何かが、確かにあった。
ーーー
「行きます」
サキは制御ユニットの前に立った。接続ポイントに義手を当てた。
〔処理能力——天秤に全割り当て。開始〕
視野が白くなった。義体の全センサーが天秤の信号を拾い始めた。膨大な量だった。光属性と闇属性の干渉波が、同時に押し寄せてくる。
〔演算負荷:70%……80%〕
〔警告:演算過負荷。処理速度の低減を推奨〕
消した。
「サキ」エディが言った。声が遠かった。
〔演算負荷:90%〕
〔クリティカル警告:義体保護プロトコルを発動してください〕
〔……知っている〕
また、消した。
刻印が一段と明るくなった。床が揺れた。タワー全体が、軋んでいた。
ーーーーーー
議会 side シェリー
窓の外に——光の柱が見えた。
白と黒が螺旋を描いて、不安定に揺れていた。議場の窓から——アストラリス・タワーの方角だった。
「シェリー」とルナが言った。
シェリーは端末を取り出した。発信した。
ーーーーーー
タワー side サキ
〔着信:シェリー・グレイソン〕
〔演算負荷:92%〕
〔クリティカル警告——〕
消さなかった。鳴らしたままにした。
接続した。
「……サキ」
「……シェリー」
それだけだった。それ以上は言えなかった——言わなくても、良かった。
回線を、切らなかった。
〔演算負荷:95%……98%〕
アラートが重なっていた。何種類も、同時に鳴っていた。もう、数えていなかった。
エディが何かを言おうとした。やめた。ラゼルも、黙っていた。
〔演算負荷:99%〕
サキは天秤に、完全に接続した。
ーーー
光が、溢れた。
柱が空に向かって伸びた。タワーの頂上から、真上へ——白と黒が螺旋を描きながら、空へ放たれた。
揺れた。ガラスが割れた。天井の一部が落ちた。
でも——崩れなかった。
波が、引いていった。刻印の明滅が、ゆっくりと落ち着いた。制御信号が——安定した。傾きは残っていた。完璧な均衡ではなかった。でも、暴走は——止まった。
空に、光が広がっていた。
ミスティスの空全体に、オーロラが出ていた。揺れる光の幕が、昼の空に白く広がっていた。
ーーー
〔処理能力——通常モードへ移行。完了〕
視野が戻った。
回線が、まだ繋がっていた。
「……シェリー」
少しの間があった。
「……見えてる。空、白い」
それだけだった。それで、十分だった。
エディが「……終わったのか」と言った。
「今日は、終わった」とラゼルが言った。
空にオーロラが残っていた。傾きの証拠が、光として空にあった。




