9.4.カイロス
最上階は、広かった。
屋上ではなかった。天井が高く、外壁がほぼ全面ガラスだった。ミスティスの空が四方から見えた。正午の光が床に落ちて、空間全体が白く満ちていた。
中央に、装置があった。
柱のような形をしていた。高さは三メートル近い。表面に術式の刻印が螺旋状に走っている——古い字体と新しい字体が混在している。長い年月をかけて、何度も改修された設計だ。〔光属性エーテル反応:高。闇属性エーテル反応:高。両者の干渉による制御構造——確認〕
天秤の制御ユニット、とサキは判断した。
〔スキャン——開始〕
「来ましたね」
声がした。
ーーー
カイロスは装置の奥に立っていた。
年齢が読めなかった。白衣に近い長衣。銀灰色の髪。目が——光の質が違った。天族の血が濃い者に時折ある、奥から発光しているような色だった。
「ナイトシェイドさんが下に残っているということは、あなたが来るということだった」カイロスが言った。「予測通りです」
「ボクが来ることを、織り込んでいたんですか」
「ある程度は」
〔警戒。ただし——今すぐ攻撃する気配はない〕
〔スキャン継続。装置と接続されたネットワーク——解析中〕
ーーー
「サキ・ニノマエ」とカイロスが言った。「君は今、何を守ろうとしているのか」
問いだった。修辞ではなく、本当に聞いていた。
〔何を守ろうとしているのか——〕
処理が、一拍止まった。
〔シェリーを。法案を。ボクのような患者を〕
列挙すれば正しかった。正しいが——それだけでは足りない気がした。カイロスが問うているのは守る対象ではなく、守る理由だ。その問いに、ボクはまだ答えを持っていない。
〔……わからない〕
「……カイロスさん」とサキは言った。「あなたは、世界を守ろうとしている。そうですね」
「それは間違いではない」
「では、なぜ人を道具に使うのですか」
「道具、という言葉は正確ではない」カイロスが静かに言った。「ただ——優先順位の問題です」
サキは答えなかった。
「保全院が設立されたとき、私はそこにいた」カイロスが窓の外を見た。ミスティスの空が、正午の光を受けていた。「それから気の遠くなる時間が流れた。観測し、記録し、均衡を守ろうとした。その間に何が変わったか」
沈黙が一拍あった。
「何も変わっていない」カイロスが続けた。「天秤は少しずつ、確実に崩れ続けた。観測するだけでは——世界は救えない。介入が必要だ。それが事象院の答えです」
〔事象院——〕
サキの内部で処理が走った。〔クロノエル様から聞いていた名だ。保全院の対極——介入することで理を書き換えようとする。フジシロも同じ系譜にいた〕
〔スキャン:散逸共鳴波放出プログラム——解析中……27%〕
「天秤は今、均衡にあるように見える」カイロスが装置に向き直った。「しかしそれは、仮の均衡です。誰かの犠牲によって支えられた——本来あるべきではない状態の均衡だ。それを正すには、動かす必要がある」
「……動かす、と言うのですか」
「散逸共鳴波は、マナコンダクター技術が生み出す副産物です」カイロスが言った。「天族の技術から生まれる——位相は光に偏る。都市規模で同時放出すれば、ミスティス全体のエーテル分布が光に傾く。天秤が——動く」
〔スキャン:放出プログラム設計と照合。都市規模のエーテル傾斜——計算、整合〕
〔副作用:大規模エーテル解離症候群の発生。義体・オートマタの制御系への干渉——確認〕
「カイロスさん」
「なんですか」
「ボクを含め——影響を受ける人間が、何人いると思っていますか」
カイロスがサキを見た。一瞬だけ、何かが動いた。表情ではなく——光の質が、微かに変わった気がした。
「もちろん知っています」カイロスが言った。「許容できるコストです」
「許容できる——」
サキは繰り返した。声に感情はなかった。ただ内部で、〔その言葉が何かに触れた〕という処理が走った。
ーーー
「人は——世界の存続という大目的の前には、それほど大きな変数ではありません」静かな声だった。怒りも軽蔑もなかった。「一部の人間の苦痛と、世界全体の継続を秤にかければ——答えは明白です。感情ではなく、計算として」
〔スキャン:プログラム構造——解析中……54%〕
「ボクにとっては」とサキは言った。「一人の人間が、世界と同じくらい大事です」
「……それは感情的な論理だ」
「はい」
〔感情的な論理だ——そうだ。それは否定できない〕
「でも——」
サキはカイロスを見た。
「感情があることが、人間の証明です」
ーーー
沈黙があった。
カイロスが窓の外を見た。正午のミスティスが広がっていた。
「……天族は長い時間をかけて、その問いを扱おうとしてきました」カイロスが言った。「感情とは何か。魂とは何か。術に魂は宿るか。気の遠くなるほどの時間をかけて、答えに至れなかった」
「ボクには関係ない話です」
「いいえ。君が今言ったことは——その問いの一つの答えです」カイロスがサキを見た。「感情があることが、人間の証明。天族が至れなかった場所に、君は自力で辿り着こうとしている。面白い存在です、サキ・ニノマエ」
〔スキャン:プログラム構造——解析完了〕
〔放出ポイント:197。自己修復型。起動トリガー:手動確認〕
〔対抗手段:逆位相信号の同時送信。197点の散逸パターンを空間上でシミュレートしながら干渉を逆算し全点へ同時出力——位相整合のリアルタイム演算が、単体の約12倍の処理能力を要求する〕
数値を確認した。サキは対話を続けながら、内部で一度だけ止まった。
〔単体では——不可能だ〕
ーーー
カイロスが装置の方に向き直った。
「しかし——今日のところは、私の負けではない」
「……待ってください」
カイロスが振り返った。サキは一歩、前に出た。
「散逸共鳴波の放出プログラムが仕込まれています。197点から一斉に——ミスティス全体のエーテルバランスを光に傾けるために」
「ご名答」カイロスが言った。驚きではなかった——評価する声だった。
「止めさせてもらいます」
「難しいでしょう」カイロスが静かに言った。「貴女の処理能力では、197点への同時送信は不可能です。他でもない貴女自身がよく知っているはずです」
「……ええ、もちろん」
「それでも——止めると言う」
サキは答えなかった。
「面白い」とカイロスが言った。さらに、続けて。「では——証明してください、貴女の可能性を」
ーーー
刻印の光が、乱れた。螺旋状の術式が——逆回転を始めた。
〔散逸共鳴波放出プログラム:起動。197点、同時カウントダウン開始〕
〔天秤の制御信号:異常。光属性エーテル:急上昇。干渉——制御限界に近づいている〕
カイロスの姿が、薄くなり始めた。転移の術式だ。
「また会いましょう、サキ・ニノマエ。君の問いの答えを——次に会うときに、聞かせてください」
消えた。
ーーー
床から振動が伝わってきた。
タワーの下層から——マナコンダクター接続点が、一斉に反応し始めていた。
「サキ!」ラゼルの声が階段の方から来た。「何が起きてる」
〔リソースが必要だ——今すぐ〕




