9.3.シェリーの演説
演説台は、思ったより高かった。
議場全体が見渡せた。半円形の議席が四段。傍聴席の顔。カメラのレンズ。正午の光が窓から差し込んで、空気が少し白んでいた。
(タワーの方角は——あっちだ)
シェリーは前を向いた。
ーーー
「私が今日話すことは、法律の話だけではありません」
議場が静まった。傍聴席も静まった。
「今この瞬間——アストラリス・タワーで、私の仲間が動いています」
ざわめきが起きかけた。シェリーは続けた。
「あなた方の安全のために。この国の均衡を守るために。今朝から、ずっと動いています」
(エディ。ラゼル。サキ)
「その仲間のうちの一人は、全身を機械に換えました」
静寂が戻った。
「義体化という選択を、彼女は自分でしました。理由がありました。その選択をした後も——彼女は怖がります。悩みます。笑います。今日の朝、出発前に少し笑いました」
シェリーは一度、息を整えた。
「義体化とは何か、という話をします」
ーーー
「義体化とは、身体の一部あるいは全部を、機械に換える技術です。現行法では、完全義体化は承認されていません。部分義体化については、医療目的に限り認められています」
(これは知っている人間の方が多い。でも——言う必要がある)
「でも、この説明では足りません。義体化とは——生きることを選んだ、ということです。この身体でなければ続けられない命があった。この形でなければ守れないものがあった。その選択をした人間が、今この国に何千人もいます」
議場が静かだった。
「身体が機械になれば、感じ方が変わります。世界の見え方が変わります。それでも——判断します。迷います。誰かのことを心配します。記録を残します。昨日より少しだけ良くなろうとします。それが、義体化した人間の日常です」
「問いたいのは——それが人間でないと言えるか、ということです」
ーーー
「見上げてください」
シェリーは窓の方角を指した。アストラリス・タワーがある方角だった。
「空の向こうで——今、誰かが世界の天秤を押さえようとしています。全身が機械の人間が、世界のために動いています」
議場の何人かが、窓を見た。
「その人を——この法律が守らなければ」
シェリーは一度止まった。
「その人が傷ついたとき、補償されません。その人が不当に扱われたとき、訴える言葉がありません。その人が死んだとき——記録に残る名前がありません。法律がないとは、そういうことです。存在を認める言葉がない、ということです」
「法律とは言葉です。この人間は、ここにいる——そう書いた言葉です。その言葉がなければ、どれだけ動いても、どれだけ守っても、制度の上では存在しないままです」
「法律の意味とは、何でしょうか」
ーーー
「私はこの法律を通してほしいとは、言いません」
予想外だったのか、傍聴席でざわめきが起きた。
「通してほしいと言って通る法律より——あなたたちが自分の目で見て判断した法律の方が、長く残ります。ずっと残ります。何十年後に、誰かが読み返したときに、意味がある言葉になります」
(大逆乱の記録は、歴史に残せないと書きながら残された。答えが出ないまま書き残された。でも——残った)
「正しいことをしろ、と言いたいわけでもありません。正義と正義がぶつかって、それでも決断しなければならない場面があることは——知っています。今日がそういう日だとしても、あなたたちは判断しなければなりません。それがここの仕事だから」
「ただ——」
シェリーは議場を見渡した。全員を。
「あなたたちが、今この瞬間に見えているものを、正直に判断してほしい」
少しの間があった。
「見上げてください。誰が何のために動いているか——それだけを、見てください」
ーーー
演説台を降りた。
席に戻る途中、端末が一度振動した。マリアからだった。テキスト一行。
〔タワーで光が——〕
続きは来なかった。
シェリーは席に座った。議長が「採決に移ります」と言った。




