表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
半分の吸血姫、半分の…?  作者: u-nyu
9.2つの戦場
94/96

9.1.2.前夜 / その朝

前夜


 食事を終えて部屋に戻ってから、シェリーはしばらく椅子に座ったまま動けなかった。


 議会通いが続いている。今日も廊下を何往復したか分からない。答弁、根回し、移動、また戻る——それを一週間続けた。革靴の底が薄くなった気がする。足の指の付け根に、何かが当たり続けている感覚が抜けない。


 ドアをノックする音がした。


 「……どうぞ」


 マリアが入ってきた。小さな白いタオルと、手のひらサイズの薬瓶を持っていた。


 「足を見せてください」


 「え」


 「見ればわかります」とマリアが言った。反論の余地がなかった。


ーーー


 シェリーは靴下を脱いだ。


 足裏が空気に触れた。数日ぶりだという感覚があった。かかとの端が固くなっている。土踏まずの近くに、小さな水泡が一つ。指の間に、石畳の埃がこびりついていた。


 「……汚いな」


 「歩いていたのですから」とマリアが言った。


 マリアが床に膝をついた。シェリーの右足を両手で持ち上げ、濡らしたタオルで拭き始める。温かい。湿ったタオルの温度が、固まった皮膚に染み込んでくる。


 「力を抜いてください」


 「抜いてる」


 「足首を、です」


 ——知らなかった。力が入っていた。


 マリアが事務的に言いながら、親指でかかとの縁をゆっくりと押した。


 「——っ」


 声が出た。痛みではない。もっと深いところからくる、硬直が解けていく感覚だった。


 「反応するということは、そこに疲れが溜まっていますのね」とマリアが言った。「少し痛いかもしれませんが」


 「……分かった」


ーーー


 マリアの親指が、土踏まずの中心を押した。


 シェリーは椅子の縁を両手で掴んだ。


 痛みとは違う。ものすごく痛みに近い、でも痛みではない何かが、足の裏から腰の方へ向かって走り上がる。体が一瞬だけ強ばって、次の瞬間にそれが抜けていく——その落差が、控えめに言っても、参った。


 「……っ、ちょっと、そこ——」「疲れています」「分かってる、でも——」「もう少しです」


 マリアが止まらなかった。


 親指が同じ場所を、今度はゆっくり、小さく円を描くように動かす。シェリーの膝が、わずかに浮いた。体が逃げようとした。


 「動かないでください」


 「……うん」


 声が出せない。息だけが出る。


 治癒魔法が流れ込んできた——指の先からじわじわと、温かいものが皮膚の中に入ってくる感覚。修復の熱。固くなった組織が、少しずつほぐれていく。


 土踏まずから、かかとへ。かかとから、指の付け根へ。一本ずつ。


 小指の下の骨の際を押されたとき、シェリーは椅子の縁を握り直した。声を噛み殺した。噛み殺せなかった。


 「……っ、は——」


 「出力、落としますか」とマリアが聞いた。


 「……いい。このままで」


 「そうですか」とマリアが言って、続けた。


ーーー


 指の股を一本ずつ、丁寧に。爪の付け根の際を、ゆっくりと。


 シェリーは天井を見ていた。


 体の中で何かが変わっていく——長い間かけて固まったものが、手のひら一枚の向こうで解かれていく。治癒の熱が足裏から脚を伝って腰へ、背骨を沿って肩の方へ上がっていく。足の指が、動かしていないのに一本ずつ、力が抜けていく。


 (……一週間、こんな状態だったのか)


 気がつかなかった。体がそういう状態であることを、頭が後回しにしていた。議会のことを考えていた。法案のことを考えていた。誰がどの票を持っているかを考えていた。自分の足の裏のことなど、一度も考えていなかった。


 「終わりましたわ」とマリアが言った。


 シェリーは足裏を見た。かかとの固さが消えていた。水泡がない。指の間が、清潔だった。


 「……すごいな」


 「義体ではないのですから、もう少し自分の体に気を向けてください」


 「……はい」


 シェリーが、珍しく素直に言った。


ーーー


 マリアが道具を片付けながら「明日、足はもちますか」と聞いた。


 「……うん、大丈夫だと思う」


 「では、明後日の分は保証できません」


 「明後日は終わってるから」


 マリアが少し間を置いた。「そうですか」


 「うん」


 「——うまくいくといいですわね」


 感想でも激励でも祈りでもない、ただの事実のような言い方だった。シェリーはそれを聞いて、少し笑った。


 「ありがとう、マリア」


 「処置なので」


 マリアが部屋を出た。シェリーは椅子に深くもたれた。足の裏が、嘘みたいに軽かった。


ーーーーーー

深夜


 深夜。


 二つの配信が、別々の画面で、同時に動いていた。


ーーー


【シェリーの配信 / 顔出し】


シェリー:「えー今日はゆるく雑談してましたが……今夜、最後に一個だけ言っていいですか」


コメント:なに?

コメント:急に真剣な顔

コメント:どうした

コメント:いって

コメント:いいよ


シェリー:「明日、議会に行きます」


コメント:……

コメント:知ってる

コメント:行ってきて

コメント:ずっと見てるよ

コメント:絶対見てる

コメント:見届ける

コメント:がんばれ

コメント:ついてる

コメント:行ってきて

コメント:行ってきて


シェリー:「……見てくれてる人、いつもありがとうな。じゃあ、また」


配信終了。


ーーー


【サキの配信 / アバター・義体版】


サキ:「——以上が、現行の接合限界値と個体差の関係についての解説です。次回は数値の測定方法に入る予定です」


コメント:毎回ためになる

コメント:サキちゃんの説明わかりやすい

コメント:ありがとう

コメント:次回も来る


サキ:「……一点、お知らせがあります」


コメント:え?

コメント:珍しい

コメント:なに

コメント:どうした


サキ:「明日、大切なことが決まります。見届けたいと思っています」


コメント:義体保護法案!

コメント:みんなで見よう

コメント:俺も見る

コメント:一緒に見ようぜ

コメント:フォロワー数いま——

コメント:100万超えてる!!

コメント:100万いった!!

コメント:サキちゃん100万おめでとう!!

コメント:100万人に見られてる

コメント:ありがとうは?


サキ:「……」


サキ:「そうですか」


コメント:そうですかじゃないよ!!

コメント:もっと喜んで!!

コメント:ちゃんと受け取って!!


サキ:「……では、見ていてください。全員で」


配信終了。


ーーー


 二つの画面が、暗くなった。


 それぞれの視聴者が、それぞれの場所で、明日を待った。


ーーーーーー

その朝


 朝の病院の廊下は、まだ静かだった。


 エディとラゼルは先に準備へ向かっていた。マリアが「行ってらっしゃいませ」と言って、それぞれを見送った。ルシアンは外出許可を取って大聖堂のルートから動くと、昨夜言っていた。


 廊下に残ったのは、シェリーとサキの二人だった。


ーーー


 「確認、いいですか」とサキが言った。


 「どうぞ」


 「シェリーは議会へ。エディ、ラゼル、ボクはタワーへ。マリアは遠隔支援。通信は15分ごとに確認。緊急時は——」


 「優先」


 「はい」


 そこで終わった。確認することは全部した。それ以上は、言葉にできなかった——というより、言葉にしても何も増えなかった。


 「行ってくる」とシェリーは言った。


 「……気をつけてください」


 「サキも」


 「はい」


ーーー


 シェリーが歩き出しかけて、止まった。


 「……ねえ、サキ」


 「なんですか」


 「名前——消えなくてよかった」


 サキが「……え?」と言った。


 「サキって名前。まだちゃんと覚えてる」


 サキが黙った。何かを処理している間があった。


 「……記憶のこと、知ってたんですか」


 「薄々」とシェリーは言った。「……怖かったよ、正直」


 (ある日、何かが消えている。その感覚が——何度かあった)


 「でも——名前は残ってる。それだけで、今日は行ける気がした」


ーーー


 サキが少し間を置いた。


 「……ボクの記録も、残っています」


 「うん」


 「全部。シェリーが覚えていなくなっても——ボクが覚えている。それでいい、と思っています」


 シェリーは止まった。


 (この人は。言葉の前に、もうそこにいる)


 「……そういう人だな、サキは」


 「……どういう人ですか」


 「言葉より先に、動く人」


 サキが「それはシェリーの言葉の返しですか」と言った。


 「うん、返してもらった」


 どちらも、少し笑った。短く。廊下の静かな朝の中で。


ーーー


 「行ってきます」とシェリーが言った。


 「行ってきます」とサキが言った。


 同時だった。


 どちらも、先に動いた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ