9.1.2.前夜 / その朝
前夜
食事を終えて部屋に戻ってから、シェリーはしばらく椅子に座ったまま動けなかった。
議会通いが続いている。今日も廊下を何往復したか分からない。答弁、根回し、移動、また戻る——それを一週間続けた。革靴の底が薄くなった気がする。足の指の付け根に、何かが当たり続けている感覚が抜けない。
ドアをノックする音がした。
「……どうぞ」
マリアが入ってきた。小さな白いタオルと、手のひらサイズの薬瓶を持っていた。
「足を見せてください」
「え」
「見ればわかります」とマリアが言った。反論の余地がなかった。
ーーー
シェリーは靴下を脱いだ。
足裏が空気に触れた。数日ぶりだという感覚があった。かかとの端が固くなっている。土踏まずの近くに、小さな水泡が一つ。指の間に、石畳の埃がこびりついていた。
「……汚いな」
「歩いていたのですから」とマリアが言った。
マリアが床に膝をついた。シェリーの右足を両手で持ち上げ、濡らしたタオルで拭き始める。温かい。湿ったタオルの温度が、固まった皮膚に染み込んでくる。
「力を抜いてください」
「抜いてる」
「足首を、です」
——知らなかった。力が入っていた。
マリアが事務的に言いながら、親指でかかとの縁をゆっくりと押した。
「——っ」
声が出た。痛みではない。もっと深いところからくる、硬直が解けていく感覚だった。
「反応するということは、そこに疲れが溜まっていますのね」とマリアが言った。「少し痛いかもしれませんが」
「……分かった」
ーーー
マリアの親指が、土踏まずの中心を押した。
シェリーは椅子の縁を両手で掴んだ。
痛みとは違う。ものすごく痛みに近い、でも痛みではない何かが、足の裏から腰の方へ向かって走り上がる。体が一瞬だけ強ばって、次の瞬間にそれが抜けていく——その落差が、控えめに言っても、参った。
「……っ、ちょっと、そこ——」「疲れています」「分かってる、でも——」「もう少しです」
マリアが止まらなかった。
親指が同じ場所を、今度はゆっくり、小さく円を描くように動かす。シェリーの膝が、わずかに浮いた。体が逃げようとした。
「動かないでください」
「……うん」
声が出せない。息だけが出る。
治癒魔法が流れ込んできた——指の先からじわじわと、温かいものが皮膚の中に入ってくる感覚。修復の熱。固くなった組織が、少しずつほぐれていく。
土踏まずから、かかとへ。かかとから、指の付け根へ。一本ずつ。
小指の下の骨の際を押されたとき、シェリーは椅子の縁を握り直した。声を噛み殺した。噛み殺せなかった。
「……っ、は——」
「出力、落としますか」とマリアが聞いた。
「……いい。このままで」
「そうですか」とマリアが言って、続けた。
ーーー
指の股を一本ずつ、丁寧に。爪の付け根の際を、ゆっくりと。
シェリーは天井を見ていた。
体の中で何かが変わっていく——長い間かけて固まったものが、手のひら一枚の向こうで解かれていく。治癒の熱が足裏から脚を伝って腰へ、背骨を沿って肩の方へ上がっていく。足の指が、動かしていないのに一本ずつ、力が抜けていく。
(……一週間、こんな状態だったのか)
気がつかなかった。体がそういう状態であることを、頭が後回しにしていた。議会のことを考えていた。法案のことを考えていた。誰がどの票を持っているかを考えていた。自分の足の裏のことなど、一度も考えていなかった。
「終わりましたわ」とマリアが言った。
シェリーは足裏を見た。かかとの固さが消えていた。水泡がない。指の間が、清潔だった。
「……すごいな」
「義体ではないのですから、もう少し自分の体に気を向けてください」
「……はい」
シェリーが、珍しく素直に言った。
ーーー
マリアが道具を片付けながら「明日、足はもちますか」と聞いた。
「……うん、大丈夫だと思う」
「では、明後日の分は保証できません」
「明後日は終わってるから」
マリアが少し間を置いた。「そうですか」
「うん」
「——うまくいくといいですわね」
感想でも激励でも祈りでもない、ただの事実のような言い方だった。シェリーはそれを聞いて、少し笑った。
「ありがとう、マリア」
「処置なので」
マリアが部屋を出た。シェリーは椅子に深くもたれた。足の裏が、嘘みたいに軽かった。
ーーーーーー
深夜
深夜。
二つの配信が、別々の画面で、同時に動いていた。
ーーー
【シェリーの配信 / 顔出し】
シェリー:「えー今日はゆるく雑談してましたが……今夜、最後に一個だけ言っていいですか」
コメント:なに?
コメント:急に真剣な顔
コメント:どうした
コメント:いって
コメント:いいよ
シェリー:「明日、議会に行きます」
コメント:……
コメント:知ってる
コメント:行ってきて
コメント:ずっと見てるよ
コメント:絶対見てる
コメント:見届ける
コメント:がんばれ
コメント:ついてる
コメント:行ってきて
コメント:行ってきて
シェリー:「……見てくれてる人、いつもありがとうな。じゃあ、また」
配信終了。
ーーー
【サキの配信 / アバター・義体版】
サキ:「——以上が、現行の接合限界値と個体差の関係についての解説です。次回は数値の測定方法に入る予定です」
コメント:毎回ためになる
コメント:サキちゃんの説明わかりやすい
コメント:ありがとう
コメント:次回も来る
サキ:「……一点、お知らせがあります」
コメント:え?
コメント:珍しい
コメント:なに
コメント:どうした
サキ:「明日、大切なことが決まります。見届けたいと思っています」
コメント:義体保護法案!
コメント:みんなで見よう
コメント:俺も見る
コメント:一緒に見ようぜ
コメント:フォロワー数いま——
コメント:100万超えてる!!
コメント:100万いった!!
コメント:サキちゃん100万おめでとう!!
コメント:100万人に見られてる
コメント:ありがとうは?
サキ:「……」
サキ:「そうですか」
コメント:そうですかじゃないよ!!
コメント:もっと喜んで!!
コメント:ちゃんと受け取って!!
サキ:「……では、見ていてください。全員で」
配信終了。
ーーー
二つの画面が、暗くなった。
それぞれの視聴者が、それぞれの場所で、明日を待った。
ーーーーーー
その朝
朝の病院の廊下は、まだ静かだった。
エディとラゼルは先に準備へ向かっていた。マリアが「行ってらっしゃいませ」と言って、それぞれを見送った。ルシアンは外出許可を取って大聖堂のルートから動くと、昨夜言っていた。
廊下に残ったのは、シェリーとサキの二人だった。
ーーー
「確認、いいですか」とサキが言った。
「どうぞ」
「シェリーは議会へ。エディ、ラゼル、ボクはタワーへ。マリアは遠隔支援。通信は15分ごとに確認。緊急時は——」
「優先」
「はい」
そこで終わった。確認することは全部した。それ以上は、言葉にできなかった——というより、言葉にしても何も増えなかった。
「行ってくる」とシェリーは言った。
「……気をつけてください」
「サキも」
「はい」
ーーー
シェリーが歩き出しかけて、止まった。
「……ねえ、サキ」
「なんですか」
「名前——消えなくてよかった」
サキが「……え?」と言った。
「サキって名前。まだちゃんと覚えてる」
サキが黙った。何かを処理している間があった。
「……記憶のこと、知ってたんですか」
「薄々」とシェリーは言った。「……怖かったよ、正直」
(ある日、何かが消えている。その感覚が——何度かあった)
「でも——名前は残ってる。それだけで、今日は行ける気がした」
ーーー
サキが少し間を置いた。
「……ボクの記録も、残っています」
「うん」
「全部。シェリーが覚えていなくなっても——ボクが覚えている。それでいい、と思っています」
シェリーは止まった。
(この人は。言葉の前に、もうそこにいる)
「……そういう人だな、サキは」
「……どういう人ですか」
「言葉より先に、動く人」
サキが「それはシェリーの言葉の返しですか」と言った。
「うん、返してもらった」
どちらも、少し笑った。短く。廊下の静かな朝の中で。
ーーー
「行ってきます」とシェリーが言った。
「行ってきます」とサキが言った。
同時だった。
どちらも、先に動いた。




