9.1.1.前日
泥と白
雨だった。
着替え室に入ったときからすでに降っていた。石造りの壁越しに音がする——細かい、一定の雨だ。やむ気配はない。
シェリーはいつも通り着替えた。黒いコンプレッションの上から白の訓練着を重ねる。今日はいつもより素早くやった。雨の中で着替えを引き伸ばしても意味がない、と分かっていたから。
封止環を自分で首に当てた。施錠は兵士がやってくれる。金属の冷たさも、カチッという音も、魔力が消える感覚も——もう全部知っている。
扉を開けた。
雨が顔に当たった。冷たかった。演習場の石畳が黒く濡れていて、端の方に水たまりが光っている。
リアナが中央に立っていた。ずぶ濡れだった。いつ来たのかは知らない。
ーーー
「今日から木剣を使います」
リアナが短く言った。濡れた木剣が二本、ベンチの上に置かれていた。
シェリーが一本を手に取った。重さが来た。体術のときとは違う重心の感覚——重さが端に偏っている。握り方を探す。リアナが「逆」と言った。直した。「もう少し下」。また直した。「そこでいい」
構えた。
訓練着の肩と背中が、もうすでに濡れていた。
ーーー
最初の一撃で弾かれた。
かんっ——木剣が手から離れた。泥の上に落ちて、ぬちゃ、と沈んだ。シェリーも前に崩れた。両手を地面についた。濡れた砂が掌に貼りついた。
(あ、弾かれた。もう)
拾った。立った。構えた。
「もう一回」
ーーー
二回目は腰から落ちた。
ぐちゃっ、と泥に沈んだ。「ぐっ」と声が出た——声にしたかったわけじゃない、衝撃が勝手に出した。
(腰だ、また腰。まあそりゃそうか)
三回目は背中から。石畳の端に当たって——ばんっ、と来た。
「——っ」
息が出ていった。全部。入ってこなかった。雨が顔に落ちてきた。空が白かった。
(は……は……)
喋れなかった。三秒くらい、ただ呼吸だけした。
それから立った。
ーーー
四回目——リアナの木剣が右肩を打った。
ぱしっ、と乾いた音がした。
「っ」
薄い訓練着を通して、鈍い衝撃が来た。同時に足元が払われて、横に倒れた。水たまりに手をついた——ばしゃっ、と冷たい水が跳ねた。泥混じりの水が袖まで来た。
(痛——っ、でも立てる、立てる)
立った。
白い訓練着の左側面が、もう茶色くなっていた。
ーーー
何回目かで、膝を擦った。
砂地の縁に膝をついたとき、石畳の角が当たった。ざっ、という感触と同時に——
「っ、あ——」
声が出た。出るつもりはなかった。じわっと熱い感触。少し遅れて血が滲んだ。雨で薄まって、白い裾の端を伝った。赤が水に溶けて、淡い色になって、消えた。
(……きれいな色しとるな。そんなこと言うてる場合じゃない)
確認だけして、立った。
ーーー
中盤に入ったあたりで、何かが変わった。
リアナの動きが読めた、というわけではない。それほど甘くない。ただ——体が少し前に出るようになっていた。弾かれるまでの時間が、わずかに伸びていた。
ある型で、足が自然に動いた。内側に踏み込んで、重心を落とす。
(え、なんか動いた。これいつ覚えたんだっけ)
(……そんなこと今どうでもいいか)
リアナが「……そう」と言った。
それだけだった。小さかった。でも聞こえた。
かんっ——次の瞬間には弾かれて泥の中にいたが、その「そう」だけが残った。
ーーー
何度倒れたか、数えるのをやめた。
白は完全に消えていた。訓練着の前面も背面も、泥と砂と雨水で茶色と灰色が混ざった色になっていた。右肘の擦り傷からも血が出ていた——いつ擦ったかは分からない。雨が洗い流しながら、それでも薄い赤が残っていた。
腕が重かった。木剣を持つ手に力を入れ直す。指が冷たくて、握るたびに少し滑る。
(しんどい。でもまあ、しんどいのはいつもそうだ)
立つ。構える。
「もう一回」
立つ。構える。
ーーー
また払われた。ぐちゃっ、と落ちた。
「ぐっ——は、は」
息を戻す。砂が口の端についた。立つ。
また打たれた。ぱしっ、左の脇腹。「っ——」思ったより痛かった。それでも足は動いた。
また弾かれた。かんっ。木剣が泥に飛んで、ぬちゃ、と沈んだ。
(またか、もう)
拾う。泥がついたまま握る。冷たかった。構える。
「もう一回」
ーーー
最後だと思った、わけではなかった。
ただ——踏み出したとき、体の中に「もう一回分しかない」という感触があった。貯えがそこまで来ている、という感覚だ。計算ではなく、体が教えてきた。
(全部使うか)
(止まらんでいい)
踏み込んだ。
雨の中を、まっすぐに。止まることを考えなかった。届くところまで行く——そういう決め方だった。
リアナが体を開いた。
シェリーの踏み込みが空を切った。そのまま前に崩れた。止まれなかった。
泥の中に、顔から落ちた。
ーーー
冷たかった。
泥が鼻と口の脇についた。雨が耳の後ろを濡らした。
手のひらを地面に押しあてた。立とうとした。腕が動かなかった。
もう一回。力を入れた。少し浮いて——落ちた。
(あれ、立たれんのんだけど)
もう一回。動かなかった。
(おかしいな)
(……おかしくはないか、十分しんどかったし)
声を出そうとした。「も」まで来た。出なかった。
視界が暗くなっていった。雨の音だけが残った。一定の、細かい、ずっと続く雨の音。
意識が、途切れた。
ーーー
シェリーには見えていなかった。
リアナが近づいた。膝をついた。泥の中に両膝がついた。それを気にしなかった。
呼吸を確認した。ある。一定だ。気絶だ、死ではない。
それから——少しの間、動かなかった。
シェリーの顔から泥を拭った。それだけのつもりだった。でも手が止まった。雨に濡れた髪が、頬に貼りついていた。
一度だけ、その髪に手を置いた。
触れただけだった。一秒も経たなかった。
「……」
何も言わなかった。言葉は持っていなかった。十六年、ずっとそうだった。
立ち上がった。
「担架を」と、遠くにいる兵士に向かって言った。いつもの声だった。
ーーー
前日の昼
ザカリアス研究室の端末には、朝からニュースフィードが流れていた。
「義体化人権法案、本日採決へ」
サキは画面を流し読みしながら、別の分析作業を続けていた。試算は前夜に完了していた。〔可決確率:72.3%〕——この数値が何を意味するかは、計算した本人にも確定できなかった。72%は高い。27.7%は、しかし決して小さくなかった。
〔……十分かどうかは、誰にも分からない〕
作業ログに追記した。外の廊下で、学生が二人、「採決どうなると思う?」と話しながら通り過ぎた。サキは顔を上げなかった。
ーーー
昼過ぎ、アキヅキ先生が研究室を通りがかった。
「……作業中?」
「はい」
先生は棚に何かを取りに来たようだった。それを済ませて、立ち去りかけた。扉のところで、少し止まった。
「明日——来られる?」
サキが顔を上げた。文脈は、聞かなくても分かった。医療の話だ。予定していた処置の話だ。
「います」
「そう」とアキヅキ先生が言った。それ以上は何も言わなかった。扉が閉まった。
サキは作業に戻った。〔明日、来られる〕という言い方を、少しだけ保留した。
ーーー
食堂は混んでいた。
エディはいつもの席——窓から少し離れた、柱の陰に近い四人掛け——にランチのトレーを置いた。隣のテーブルで、学生たちが声を落とさずに話していた。
「採決、今日か明日らしいけど」
「どうなんだろうね。義体化を進めるって言っても、テロに使われた実績があるわけだし」
「でも——」
別の声が言った。「義体は義体でしょ。人間と一緒にするのはちょっと」
エディはトレーの上を見ていた。定食の魚だった。食った。
「法律で認めたら、今度は義体の権利主張し始めるんじゃないの」
「サキちゃんのこと知ってるじゃん。あの子は——」
「あの子は特別だよ。ああいう子の話をしてるんじゃなくて、一般的に言えば」
エディは食い終わった。トレーを持って立ち上がった。
返却口に向かいながら、「義体は義体でしょ」と言った学生の横を通り過ぎた。学生と目が合った。一秒、正面から見た。何も言わなかった。それだけだった。
食堂を出た。
ーーー
寮の部屋は静かだった。
マリアがベッドの端に腰かけ、ルナが窓際の椅子にいた。外が夕暮れに変わりかけていた。
「明日——どうなると思う?」
マリアが言った。珍しい聞き方だった。ルナに意見を求めることが、普段は少なかった。
「……可決すると思う」とルナが言った。「かなぁ」
「そうですわね」
「ただ」とルナが続けた。「何かが劇的に変わるわけじゃないとは思う。でも——何かは、始まると思う。制度として名前がついたら、それ以前には戻れないから」
マリアが少し間を置いた。窓の外が橙色になっていた。
「サキさんのことが——ちょっと、心配で」
「……うん」とルナが言った。
理由は聞かなかった。聞かなくても、分かる気がした。
ーーー
夕方、シェリーはキャンパスの南門から入った。
今日は授業には出ていなかった。議会側との連絡調整と、明日の段取りの確認で一日が消えた。ただ——夕方、一度だけここに来たかった。なぜかは分からなかった。でも来た。
噴水の近くを歩いていたとき、一年生らしい女子学生に声をかけられた。
「グレイソンさん——採決、うまくいくといいですね」
「……ありがとう」
学生は嬉しそうに会釈して、駆けていった。その後ろ姿を少しだけ見た。
(この子は、知らない。明日、何が起きるかを)
知らないまま「うまくいくといいですね」と言った。その言葉の軽さと重さが、今夜は同時にあった。
シェリーは歩き続けた。
キャンパスが夕暮れの中に沈んでいた。煉瓦の建物が橙色に染まって、学生たちがそれぞれの夕方に帰っていく。普通の昼が、普通のまま終わろうとしていた。
(明日——変わる)
変わるかもしれない。変わらないかもしれない。でも——ここに来てよかった、と思った。この景色を、今夜の自分に残しておきたかった。
南門を出た。明日へ向かって歩き始めた。




