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半分の吸血姫、半分の…?  作者: u-nyu
9.2つの戦場
93/96

9.1.1.前日

泥と白


 雨だった。


 着替え室に入ったときからすでに降っていた。石造りの壁越しに音がする——細かい、一定の雨だ。やむ気配はない。


 シェリーはいつも通り着替えた。黒いコンプレッションの上から白の訓練着を重ねる。今日はいつもより素早くやった。雨の中で着替えを引き伸ばしても意味がない、と分かっていたから。


 封止環を自分で首に当てた。施錠は兵士がやってくれる。金属の冷たさも、カチッという音も、魔力が消える感覚も——もう全部知っている。


 扉を開けた。


 雨が顔に当たった。冷たかった。演習場の石畳が黒く濡れていて、端の方に水たまりが光っている。


 リアナが中央に立っていた。ずぶ濡れだった。いつ来たのかは知らない。


ーーー


 「今日から木剣を使います」


 リアナが短く言った。濡れた木剣が二本、ベンチの上に置かれていた。


 シェリーが一本を手に取った。重さが来た。体術のときとは違う重心の感覚——重さが端に偏っている。握り方を探す。リアナが「逆」と言った。直した。「もう少し下」。また直した。「そこでいい」


 構えた。


 訓練着の肩と背中が、もうすでに濡れていた。


ーーー


 最初の一撃で弾かれた。


 かんっ——木剣が手から離れた。泥の上に落ちて、ぬちゃ、と沈んだ。シェリーも前に崩れた。両手を地面についた。濡れた砂が掌に貼りついた。


 (あ、弾かれた。もう)


 拾った。立った。構えた。


 「もう一回」


ーーー


 二回目は腰から落ちた。


 ぐちゃっ、と泥に沈んだ。「ぐっ」と声が出た——声にしたかったわけじゃない、衝撃が勝手に出した。


 (腰だ、また腰。まあそりゃそうか)


 三回目は背中から。石畳の端に当たって——ばんっ、と来た。


 「——っ」


 息が出ていった。全部。入ってこなかった。雨が顔に落ちてきた。空が白かった。


 (は……は……)


 喋れなかった。三秒くらい、ただ呼吸だけした。


 それから立った。


ーーー


 四回目——リアナの木剣が右肩を打った。


 ぱしっ、と乾いた音がした。


 「っ」


 薄い訓練着を通して、鈍い衝撃が来た。同時に足元が払われて、横に倒れた。水たまりに手をついた——ばしゃっ、と冷たい水が跳ねた。泥混じりの水が袖まで来た。


 (痛——っ、でも立てる、立てる)


 立った。


 白い訓練着の左側面が、もう茶色くなっていた。


ーーー


 何回目かで、膝を擦った。


 砂地の縁に膝をついたとき、石畳の角が当たった。ざっ、という感触と同時に——


 「っ、あ——」


 声が出た。出るつもりはなかった。じわっと熱い感触。少し遅れて血が滲んだ。雨で薄まって、白い裾の端を伝った。赤が水に溶けて、淡い色になって、消えた。


 (……きれいな色しとるな。そんなこと言うてる場合じゃない)


 確認だけして、立った。


ーーー


 中盤に入ったあたりで、何かが変わった。


 リアナの動きが読めた、というわけではない。それほど甘くない。ただ——体が少し前に出るようになっていた。弾かれるまでの時間が、わずかに伸びていた。


 ある型で、足が自然に動いた。内側に踏み込んで、重心を落とす。


 (え、なんか動いた。これいつ覚えたんだっけ)

 (……そんなこと今どうでもいいか)


 リアナが「……そう」と言った。


 それだけだった。小さかった。でも聞こえた。


 かんっ——次の瞬間には弾かれて泥の中にいたが、その「そう」だけが残った。


ーーー


 何度倒れたか、数えるのをやめた。


 白は完全に消えていた。訓練着の前面も背面も、泥と砂と雨水で茶色と灰色が混ざった色になっていた。右肘の擦り傷からも血が出ていた——いつ擦ったかは分からない。雨が洗い流しながら、それでも薄い赤が残っていた。


 腕が重かった。木剣を持つ手に力を入れ直す。指が冷たくて、握るたびに少し滑る。


 (しんどい。でもまあ、しんどいのはいつもそうだ)


 立つ。構える。


 「もう一回」


 立つ。構える。


ーーー


 また払われた。ぐちゃっ、と落ちた。


 「ぐっ——は、は」


 息を戻す。砂が口の端についた。立つ。


 また打たれた。ぱしっ、左の脇腹。「っ——」思ったより痛かった。それでも足は動いた。


 また弾かれた。かんっ。木剣が泥に飛んで、ぬちゃ、と沈んだ。


 (またか、もう)


 拾う。泥がついたまま握る。冷たかった。構える。


 「もう一回」


ーーー


 最後だと思った、わけではなかった。


 ただ——踏み出したとき、体の中に「もう一回分しかない」という感触があった。貯えがそこまで来ている、という感覚だ。計算ではなく、体が教えてきた。


 (全部使うか)

 (止まらんでいい)


 踏み込んだ。


 雨の中を、まっすぐに。止まることを考えなかった。届くところまで行く——そういう決め方だった。


 リアナが体を開いた。


 シェリーの踏み込みが空を切った。そのまま前に崩れた。止まれなかった。


 泥の中に、顔から落ちた。


ーーー


 冷たかった。


 泥が鼻と口の脇についた。雨が耳の後ろを濡らした。


 手のひらを地面に押しあてた。立とうとした。腕が動かなかった。


 もう一回。力を入れた。少し浮いて——落ちた。


 (あれ、立たれんのんだけど)


 もう一回。動かなかった。


 (おかしいな)

 (……おかしくはないか、十分しんどかったし)


 声を出そうとした。「も」まで来た。出なかった。


 視界が暗くなっていった。雨の音だけが残った。一定の、細かい、ずっと続く雨の音。


 意識が、途切れた。


ーーー


 シェリーには見えていなかった。


 リアナが近づいた。膝をついた。泥の中に両膝がついた。それを気にしなかった。


 呼吸を確認した。ある。一定だ。気絶だ、死ではない。


 それから——少しの間、動かなかった。


 シェリーの顔から泥を拭った。それだけのつもりだった。でも手が止まった。雨に濡れた髪が、頬に貼りついていた。


 一度だけ、その髪に手を置いた。


 触れただけだった。一秒も経たなかった。


 「……」


 何も言わなかった。言葉は持っていなかった。十六年、ずっとそうだった。


 立ち上がった。


 「担架を」と、遠くにいる兵士に向かって言った。いつもの声だった。


ーーー

前日の昼


 ザカリアス研究室の端末には、朝からニュースフィードが流れていた。


 「義体化人権法案、本日採決へ」


 サキは画面を流し読みしながら、別の分析作業を続けていた。試算は前夜に完了していた。〔可決確率:72.3%〕——この数値が何を意味するかは、計算した本人にも確定できなかった。72%は高い。27.7%は、しかし決して小さくなかった。


 〔……十分かどうかは、誰にも分からない〕


 作業ログに追記した。外の廊下で、学生が二人、「採決どうなると思う?」と話しながら通り過ぎた。サキは顔を上げなかった。


ーーー


 昼過ぎ、アキヅキ先生が研究室を通りがかった。


 「……作業中?」


 「はい」


 先生は棚に何かを取りに来たようだった。それを済ませて、立ち去りかけた。扉のところで、少し止まった。


 「明日——来られる?」


 サキが顔を上げた。文脈は、聞かなくても分かった。医療の話だ。予定していた処置の話だ。


 「います」


 「そう」とアキヅキ先生が言った。それ以上は何も言わなかった。扉が閉まった。


 サキは作業に戻った。〔明日、来られる〕という言い方を、少しだけ保留した。


ーーー


 食堂は混んでいた。


 エディはいつもの席——窓から少し離れた、柱の陰に近い四人掛け——にランチのトレーを置いた。隣のテーブルで、学生たちが声を落とさずに話していた。


 「採決、今日か明日らしいけど」


 「どうなんだろうね。義体化を進めるって言っても、テロに使われた実績があるわけだし」


 「でも——」


 別の声が言った。「義体は義体でしょ。人間と一緒にするのはちょっと」


 エディはトレーの上を見ていた。定食の魚だった。食った。


 「法律で認めたら、今度は義体の権利主張し始めるんじゃないの」


 「サキちゃんのこと知ってるじゃん。あの子は——」


 「あの子は特別だよ。ああいう子の話をしてるんじゃなくて、一般的に言えば」


 エディは食い終わった。トレーを持って立ち上がった。


 返却口に向かいながら、「義体は義体でしょ」と言った学生の横を通り過ぎた。学生と目が合った。一秒、正面から見た。何も言わなかった。それだけだった。


 食堂を出た。


ーーー


 寮の部屋は静かだった。


 マリアがベッドの端に腰かけ、ルナが窓際の椅子にいた。外が夕暮れに変わりかけていた。


 「明日——どうなると思う?」


 マリアが言った。珍しい聞き方だった。ルナに意見を求めることが、普段は少なかった。


 「……可決すると思う」とルナが言った。「かなぁ」


 「そうですわね」


 「ただ」とルナが続けた。「何かが劇的に変わるわけじゃないとは思う。でも——何かは、始まると思う。制度として名前がついたら、それ以前には戻れないから」


 マリアが少し間を置いた。窓の外が橙色になっていた。


 「サキさんのことが——ちょっと、心配で」


 「……うん」とルナが言った。


 理由は聞かなかった。聞かなくても、分かる気がした。


ーーー


 夕方、シェリーはキャンパスの南門から入った。


 今日は授業には出ていなかった。議会側との連絡調整と、明日の段取りの確認で一日が消えた。ただ——夕方、一度だけここに来たかった。なぜかは分からなかった。でも来た。


 噴水の近くを歩いていたとき、一年生らしい女子学生に声をかけられた。


 「グレイソンさん——採決、うまくいくといいですね」


 「……ありがとう」


 学生は嬉しそうに会釈して、駆けていった。その後ろ姿を少しだけ見た。


 (この子は、知らない。明日、何が起きるかを)


 知らないまま「うまくいくといいですね」と言った。その言葉の軽さと重さが、今夜は同時にあった。


 シェリーは歩き続けた。


 キャンパスが夕暮れの中に沈んでいた。煉瓦の建物が橙色に染まって、学生たちがそれぞれの夕方に帰っていく。普通の昼が、普通のまま終わろうとしていた。


 (明日——変わる)


 変わるかもしれない。変わらないかもしれない。でも——ここに来てよかった、と思った。この景色を、今夜の自分に残しておきたかった。


 南門を出た。明日へ向かって歩き始めた。

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