8.6.禁書庫
夜の王城は、音が少なかった。
シェリーは廊下の端を歩いた。巡回の兵士の動きは分かっている——何度も来た城だ。角を曲がるタイミングを見計らって、足音を抑えた。一度だけ兵士と鉢合わせそうになった。「自室に戻るところです」と言った。兵士が「お気をつけて」と言って、通してくれた。
地下への入口は、城の南翼の一番奥にある。
ダミエンの言葉が頭の隅に残っていた。「直系の血族なら入れるように設計してあるのが普通だ——お前、自分の城を探したことないのか」。あのとき、石のように落ちた言葉だった。それからずっと、そこにあった。
調査を続けるうちに、大逆乱前後の記録が封じられているという話が出てきた。純潔同盟の思想的な源流を辿っていくと、どこかで「光と闇のバランスの崩壊」という言葉に行き着く。その記録がどこにあるか——禁書庫だと判断した。
地下通路の奥に、扉があった。
ーーー
金属ではなく、石だった。
表面に術式の刻印が浮いている。古い字体——百年以上前のものだ。封印の構造自体は分かる。何かを「鍵」として認識して開く仕組みだ。魔力ではない。別の何かを。
(ここまで来て、開かなかったらどうしようか)
手を当てた。
扉が、開いた。
音はなかった。重さを感じなかった。ただ、石の扉が内側へ引かれて——開いた。それと同時に、左の手のひらにわずかな熱を感じた。
見ると、指先に細い線が走っていた。
石の縁が、皮膚を掠めていた。ごく浅い傷だ。血が滲んでいた。
(……これが王家の血ってことか)
魔力で感じる「直系」ではなく、血そのものを読んでいた。そういう設計だった。
シェリーは指先を見た。それからもう一度、開いた扉を見た。体で知った、と思った。知識として知っていたことが、今夜初めて自分のことになった。
ーーー
中は棚が並んでいた。
分類はある。だが古い体系で、現在の資料分類とは違う。「年代」「種族」「地域」の順で並んでいた。魔法陣の光が薄く灯っている——外から光が入らない設計だ。
「大逆乱」の棚はすぐに見つかった。分量が多かった。公式記録が整然と収まっている。天族の支配に対する魔族の叛乱。多大な被害。体制の崩壊と再編。知っている内容がほとんどだった。
でも。
棚の奥に、別の封印がかかっていた。
通常の施錠とは違う。個人の魔力がかかっている——誰かが「自分専用の鍵」で閉じた。古い封印だ。でも、まだ生きている。かけた人間がまだ存在している証拠だ。
(——エドモンドだ)
根拠はなかった。でも——そう思った。
ーーー
解くのに時間がかかった。
個人の魔力を鍵とした封印は、力で突破するものではない。構造を読んで、隙間を探す。シェリーは術式の端を一本ずつ確かめながら、ゆっくりとほどいた。一時間近くかかった。
封印が解けた。
中に、手書きの資料が入っていた。
筆跡を見た。先週、執務室で署名を見た。同じ字だった。
(……やっぱりエドモンドや)
読み始めた。
ーーー
最初の資料の題が「クロノエルとの計画覚書」だった。
次が「闇の半身の解放について」。
次が「大逆乱への介入——記録と所見」。
読んだ。止まれなかった。
大逆乱は——人為的に起こされた。
天族の支配が強まりすぎていた時代に、クロノエルとエドモンドが共同で「揺り戻し」を設計した。「闇の半身」を意図的に解放・拡散させることで、各地に混乱を起こし、天族優位の均衡を崩す。多くの犠牲が出ることは、事前に予測していた。それでも実行した。
結果として——均衡は回復された。
記録の末尾に、一行あった。
「均衡は回復された。しかしこれは歴史に残せない」
シェリーは、そこで少し止まった。
(——残せない、か)
残せないから、ここにある。封印をかけて、自分だけが読める場所に。「歴史に残せない」と書きながら、それでも書いた。捨てなかった。
ーーー
「闇の半身の解放について」に戻った。
「闇の半身」の出所を探した。どこから引き出したのか。
書かれていた。
「——との合意のもと、半身を一時的に外界へ」
名前があった。
シェリーは、その名前を読んだ。
〈ナサニエル〉
息が、止まった。
(——お父さんの名前や)
「ナサニエル」は古い天族の名前だ。珍しくはない。この時代の記録に出てきても、おかしくはない。別の誰かかもしれない。同じ名前の人間は、他にもいる。
(ちがう人やろ。ちがう人に決まっとる)
でも——目が、離れなかった。
エドモンドの字で、書かれている。この城の、この封印の奥に。そこに、その名前がある。
(……なんでここにあるんや)
答えが出なかった。出るわけがなかった——今夜この場所で出せる答えではない。
出ないまま、ページを閉じた。
ーーー
記録を元の場所に戻した。封印をかけ直した。
来たときと同じ状態に、なるべく近く。
禁書庫を出て、扉が閉まる音を聞いた。左手の指先の傷は、もう塞がっていた。
地下通路を引き返した。足音を抑えて、廊下に出た。
夜明けの光が、東向きの窓から差し込んでいた。
(怒り、来るかと思ってたけど)
来なかった。
大逆乱が人為的に起こされたと知って、クロノエルが関わっていたと知って——怒りが来ると思っていた。でも、来たのはそれではなかった。
(なぜ)
それが先だった。なぜそうする必要があったのか。なぜ歴史に残せないと分かっていてやったのか。なぜ捨てずに書き残したのか。なぜあの名前が、そこにあるのか。
問いだけが、積み重なっていた。
シェリーは廊下を歩き始めた。
ーーー
翌日の午後、シェリーは執務室の扉をノックした。
「入れ」
エドモンドが書類に目を落としていた。来客を見ずに言う、いつものやり方だった。シェリーが入って、扉を閉めた。
「用件は」
「禁書庫に行きました」
エドモンドが、書類から目を離した。
シェリーを見た。何も言わなかった。ただ見た——それが一番長い間だった。
ーーー
「……読んだのか」
「はい」
「どこまで」
「クロノエルとの覚書まで」
またひと間があった。
「封印は」
「かけ直してきました。来る前と同じ状態に、なるべく近く」
「……そうか」
怒っていなかった。責めていなかった。ただ確認した——シェリーにはそれが分かった。そして自分も、怒りを持ってここへ来ていなかった。昨夜、怒りは来なかった。今日も来ていない。
(ただ——聞きたいことがある)
ーーー
「あれは」とシェリーは言った。
「——正しかったと、今も思いますか」
エドモンドが沈黙した。
窓の外で、風が木を揺らす音がした。それだけが聞こえていた。
「……均衡は回復された」とエドモンドが言った。「それは事実だ」
「でも被害も出た。それも事実ですよね」
「……ああ」
「では」
エドモンドが少し間を置いた。
「正しかったかどうかは——世界がこの先どうなるかが、決めるのかもしれない」
シェリーは黙って、その言葉を聞いた。
「答えは出ていない、ということですか」
「……私の中では。ずっと」
ーーー
シェリーは少し間を置いた。
「そうですか」とだけ言った。責めなかった。「でもやったんでしょう」とも言わなかった。
「……答えが出ていないまま、それを抱えて統治してきたんですね」
エドモンドが、微かに表情を変えた。変えた、と分かる程度の、小さな動きだった。
「……そういうことになる」
「分かりました」とシェリーは言った。
(答えが出ていない人間が、それでも決断した。その重さを、この人はずっと持ち続けとる)
理解した、ということと、許した、ということは違う。シェリーには、それが分かっていた。今日ここへ来たのは、どちらでもなかった。ただ——知りたかった。
ーーー
「お前はなぜそれを聞きに来た」
エドモンドが問いを返した。
「議場に立ちたいと思っています」とシェリーは言った。「義体化の問題について、証言したい」
「……それと、禁書庫の記録に何の関係がある」
シェリーは少し考えた。
「正義と正義がぶつかって、被害が出ることがある——ということを、知っていたかったから。それを知らないまま議場に立つのと、知った上で立つのでは、違う気がして」
エドモンドが書類を端に寄せた。
「……場を作ろう」
「ありがとうございます」
「それが私にできることだ」
それ以上は言わなかった。シェリーは立ち上がった。
ーーー
「——シェリー」
扉に向かいかけたとき、声が来た。
振り返った。エドモンドが窓の方を向いていた。こちらを見ていなかった。
「禁書庫の記録には、もう一つある。お前がまだ辿り着いていない部分が」
シェリーの足が、止まった。
「……教えてくれますか」
「自分で読め」とエドモンドが言った。「ただし——覚悟してから行け」
それだけだった。
ーーー
廊下に出た。扉を閉めた。
少しだけ、壁に背をもたせかけた。
(……もう一つ、ある)
ナサニエルという名前が、また頭の端で動いた。押さえようとした。押さえきれなかった。
「覚悟してから」——エドモンドはそう言った。今夜すぐに行くものではない、ということだ。
(分かった。今夜は行かへん)
でも——いつか行く。必ず行く。それだけは、分かっていた。
壁から背を離した。廊下を歩き始めた。




