8.4.2.生命倫理
講義室は小さかった。
エーテル医科学科の専門科目は受講者が少ない。今日は十二人。前の方の席に、マリアとルナが並んで座っていた。マリアはノートを開いている。ルナは教科書の端に付箋を一枚、追加したところだった。
サキはやや後方の席に一人でいた。端末をテーブルの上に置いている。副専攻の聴講枠——参加義務はない。だが来た。
アキヅキ先生が入ってきた。白衣。白髪。眼鏡。荷物を置いて、受講者を一渡り見た。
「今日は義体化の適応基準について話します」
ーーー
前半は技術的な内容だった。
部分義体化・多重義体化・完全義体化の定義と違い。現行法上の扱い——完全義体化は承認されていない施術。魂と義体の接合限界——エーテル工学的な観点からの説明。板書は丁寧で、説明は正確だった。
ルナが付箋を一枚、別の頁に追加した。「接合限界の数値って、個体差が大きいんですよね」と小声でマリアに言った。「義体化してから測定するものだから、事前に予測できない部分が多くて」
「事前に分からないまま、踏み越えるんですね」とマリアが言った。ペンを持ち替えながら。
ルナが「……うん」と返した。
サキは端末に走り書きをしていた。授業の内容ではなかった。知っている数値がほとんどだった。どの定義も、義体化前から資料で確認していたものだ。
ーーー
中盤に入ったとき、アキヅキ先生が問いかけた。
「一つ、問いを立てます」
板書した。
——死を回避するためであれば、完全義体化は許容されうるか。
講義室が少し変わった。技術の話から倫理の話になった——その切り替わりが、空気として部屋の中に起きた。
最初に手を挙げたのは、マリアだった。
「患者の意思と、医師の判断が一致していれば——許容されうると思います」
「続けて」
「患者が望んでいること。医師が医学的に可能と判断していること。その二つが揃えば、少なくとも選択の根拠にはなりますわ」
間があって、別の学生が言った。「でも、社会的な承認がなければ医療行為とは言えないんじゃないですか。制度の外にある施術は、どこまでいっても非公式のままで——」
「……それも正しい」とマリアが言った。静かに。「制度のなかに存在しない施術は、やった人間が守られない」
「患者も」
「……そうなりますわね」
二つの正しさがそこで並んで、動けなくなった。
ーーー
アキヅキ先生がひと呼吸置いた。眼鏡のレンズの端に指を触れた——外すほどではなく、ただ少しだけ。
「……それぞれの言っていることは、どちらも正しい」
少し間があった。
「ただし」
「——今この瞬間に、それをやる医者がいたとしたら。その医者は、何かを失う」
講義室が静かになった。
マリアがアキヅキ先生の顔を見た。
何か、と思った。言葉にできなかった。「間」がある——先生にはいつも間がある。でも今日のは、質が少し違った。何かを言い終えたあとの間ではなく、何かを決めてから言い始めるための間のような。
「……先生は、今の話について、どう思われますか」
ルナが聞いた。顔を上げないまま。
アキヅキ先生は「……授業の範囲で話します」と言った。それから法律の条文の話に戻った。
ーーー
後方の席で、サキは端末を見ていた。
授業の内容ではなかった。
走り書きが一行ある。
「死を回避するために選ぶ、ということは——」
続きを書いていなかった。書こうとして——止まっていた。
「何かを失う」という言葉が、サキの処理の中を通過した。
〔……〕
顔は上げなかった。アキヅキ先生の方は、見なかった。
ーーー
授業が終わった。
廊下に出て、マリアはルナの隣に並んだ。
「先生、なんか——変だったね」
「うん」とルナが言った。
二人は理由を知らなかった。知らないまま、廊下を歩いた。




