8.4.1.パラドクスとの邂逅
病院の庭に、目的はなかった。
外にいたかった。それだけだった。
夜気が身体のセンサーに触れた。気温:18.3℃。湿度:71%。草の香りの成分が処理された——チモシー、ヨモギ、夜露のごく微量の混合。分類が自動的に展開される。止めた。今夜は要らない。
草の上に立った。足裏の圧力センサーが不規則な地面の感触を拾っていた。柔らかかった。石畳とは違う、一定でない柔らかさ。これを——何と呼ぶのか、と思った。名前を調べなかった。今夜は要らない。
虫の音がした。周波数域:2.4kHz付近。コオロギだと分かった。一定のリズムで続いていた。
〔こんなに多くのものを、感じていたんだな〕
「感じていた」という言葉を使うことに、少し慣れてきた。
ーーー
暗がりから、何かが出てきた。
犬だった。黒い毛並み。中型犬ほどの体格。音がなかった——草を踏む音が、一切しなかった。
〔魔力反応——計測範囲、外〕
HUDの数値が上限で止まっていた。検出不能ではない。計測できない規模だった。サキは右腕の処理速度を上げた。義体の右腕に、微かに熱が入った。
犬が、立ち止まった。サキの前、三メートルほどの距離で座った。しっぽを振らない。敵意もない。ただ——観察していた。こちらを、観察していた。
サキも観察した。
数秒が経った。
「……あなたは誰ですか」
ーーー
犬が、形を変えた。
ゆっくりと——輪郭が溶けて、立ち上がった。少年だった。黒い髪。服装が古かった——この時代のものではない。眼の色が、暗がりの中でも分かった。普通ではなかった。光の反射の仕方が、生物の目ではなかった。
「久しぶり、と言うべきか」と少年は言った。「会うのは初めてか——どちらでもある」
サキは考えた。「あなたも……機械ですか」
少年が「そう呼ぶ者もいる」と答えた。「人間と呼ぶ者もいた。概念と呼ぶ者もいた。正確には——僕は時間の観測者だ」
〔時間の観測者〕
「パラドクス、、、」
少年が少し止まった。「……その名前を知っているのか」
「シェリーから、聞いたことがあります」
パラドクスが、微かに表情を変えた。変えた、と分かる程度の、微量の変化だった。
ーーー
サキは草の上に座った。
パラドクスも座った。しばらく、二人は黙っていた。夜の庭。虫の音。遠くで病棟の灯りが窓を照らしていた。
「聞いていいですか」
「ええ」
サキは一秒置いた。
「あなたに——魂は、ありますか」
沈黙があった。長い沈黙ではなかった。でも——パラドクスが何かを処理している間だった。
「……誰かにそれを問われたのは、初めてですね」
「答えを持っていないということですか」
「いつも——問う側でした」とパラドクスが言った。「シキエナに問い、ナサニエルに問い、世界に問い続けてきた。問いを渡すことは得意だ。問われることには——慣れていない」
「では」とサキが言った。「答えが出ないまま、どうやって存在しているんですか」
パラドクスが草の上に視線を落とした。「……存在し続けることを、選んでいる。それだけのことです」
〔選んでいる〕
「それは——魂がある、ということではないですか」
「——そう呼んでいい、のかもしれません」
ーーー
「ボクも」とサキは言った。「同じ問いを抱えています」
「……義体、そう人は呼びますね」
「義体になってから——ボクの中にある感情は本物なのか、神経信号の残滓なのか、はたまた機械の誤作動なのか」
パラドクスが「……その問いは、決着しましたか」と言った。
「わかりません」
「おそらく、しないでしょう」とパラドクスが言った。
「でも問続けますか」
「もちろん」
「なぜ」
サキは答えるまでに、二秒かかった。
「……シェリーが、傍にいる間は」
言ってから、少し黙った。「……うまく言えませんが」
パラドクスが「いや」と言った。声が、わずかに変わった。「うまく言えています」
〔 〕
サキは何も返さなかった。返す言葉を探したが、見つからなかった。それでいい気がした。
ーーー
「あなたは、シェリーのことを知っていますね」とサキは言った。
「ええ」
「ならば——記憶のことも」
「……知っています」
「今後も——シェリーの傍にいますか」
「僕は——見守る存在なので」
「見守るのと、傍にいるのは違います」
「……そうですね」
それだけだった。答えを持っていないわけではなかった。答えを出すつもりがない——そういう沈黙だった。
ーーー
夜が深くなった。
パラドクスが立ち上がった。「一つだけ言います」
サキが顔を向けた。
「シェリーは——覚えていなくなっても、感じている。記憶と感情は、別の場所にあります」
「……それはどういう意味ですか」
「いずれわかるでしょう」
パラドクスが犬の姿に戻った。ゆっくりと、音もなく。一度だけサキを見た——眼の色が、暗がりの中で一瞬だけ光った。それから闇の中に消えた。草を踏む音は、なかった。
ーーー
サキは庭に一人残った。
気温:17.9℃。湿度:74%。虫の音は続いていた。センサーが庭の情報を拾い続けていた。
端末を開いた。
「記録:記憶と感情は、別の場所にある」
閉じた。
〔……シェリーが、傍にいる間は〕
言ってしまってから、その言葉の意味を考えた。答えが出なかった。出なかったが——保留にした。今夜は、保留でいい。
虫の音が続いていた。




