8.3.父との対面
白すぎる廊下だった。
天井の蛍光灯が均等に並んでいる。壁も床も同じ白。影の出ない設計——実験室か医療施設の発想だ。消毒の匂いが奥から来ていた。サキは嗅覚センサーで成分を分析した。アルコール系の滅菌剤。微量の金属臭。機材が近い。
「2分あれば十分か」ラゼルが前を歩きながら言った。
「1分で済ませます」
返答しながら、サキは廊下の構造を義眼で記録した。監視カメラは3台。うち1台が死角になる位置——ラゼルがそこを選んで歩いているのは、当然だ。
ーーー
施設の下層は旧い。
廊下の幅が上層より狭くなっている。天井が低い。マナコンダクターの試験装置が壁際に並んでいる——型番を確認した。8年前に量産が終わった旧型だ。現行機種の3分の1の処理速度しか出ない。なぜこんなものが動いているのか。
その先に扉があった。
金属製。厚い。鍵は電子式——カードリーダーと数字キーの二重認証。
「開けられますか」
「合法的な手段では無理だ」とラゼルが言った。
「わかりました」
サキは左腕の義手を確認した。手首から先の関節部分。先月、アキヅキ先生に依頼して加えた仕様変更がある。指先の一部が工具として機能するように。
「……いつ覚えた」ラゼルが言った。
「つい最近です」
カードリーダーの側面パネルを開く。配線をたどる。ショートさせる位置を選ぶ。1分かからなかった。
扉が開いた。
ーーー
狭い部屋だった。
机が一つ。簡易ベッドが一つ。本が積んである。端末が一台。窓がない。
机の前に、男が座っていた。
白髪が増えている。サキが記憶している顔より、頬が落ちている。ただし目の色は変わっていない——黒に近い茶色。自分と同じ色だ。
男がこちらを向いた。
「……誰だ」
「ボクです」とサキは言った。
間があった。
男の顔が、ゆっくりと固まった。固まったまま、動かなくなった。それから——
「……サキ」
「ええ」
それだけ答えた。
ーーー
ラゼルが廊下に出た。「3分。声をかける」
扉が半分閉まった。
部屋の中に、サキと父親だけが残った。
男——ニノマエ・ジュンイチ——は立ち上がろうとして、止まった。そのまま椅子に座っていた。サキは部屋の入口に立ったまま動かなかった。
「生きていたのか」と父が言った。「いや——お前が義体を——ニュースで」
「ご覧になっていましたか」
「……当然だ」
短い答えだった。何かを堪えているような間があった。
サキは父の状態を観察した。栄養状態は良くない。睡眠は足りていない。ストレス反応の徴候——自律神経の乱れ。長期間のものだ。
「なぜここにいるんですか。科学技術院にいたはずです」
父が少し目を伏せた。「……春休みの頃だ。お前が手術を受けていたときに——クロノスの人間が来た」
ーーー
「散逸エーテルの件を、公表しようとしていた」と父が言った。「散逸共鳴波と義体の関係について——データがあった。それを出せば、クロノスの研究が問題になる。だが——」
〔散逸共鳴波——ボクがキーシグナルと呼んでいたものだ〕
「脅されたんですか」
父が答えるまでに、時間がかかった。
「……お前のことを、言われた。手術中のお前が——危ない目に遭うと」
サキは処理した。
〔手術で動けないボクを、担保にされた〕
口には出さなかった。
「それで、研究を続けることにしました。ここで」と父が言った。「自由意志ではなかった——させられている」
「わかりました」
「……それだけか」
「他に何を言えばいいんですか」とサキは言った。感情的な意味ではなく、純粋な問いとして。
父が口を閉じた。
ーーー
「テロに使われた義体は——父の設計ですか」
問いを変えた。
沈黙が来た。長かった。
父が「……知っていた」と言った。「止めようとした。できなかった」
「止めようとした、とはどういう意味ですか」
「カイロスに訴えた。これは研究の目的を逸脱していると。人を傷つけるために作るものではないと。しかし——聞き入れられなかった。ここに閉じ込められた。研究を続けなければ、もっと悪い用途に転用すると言われた」
「だから——続けた」
「だから、続けた」
反復した形になった。意図したわけではない——サキも、父も、同じ言葉を繰り返した。
サキはもう一度、同じ問いを口にした。
「止めようとしたのか」
聞こえていた。理解していた。それでも。
父が「……できなかった」と言った。しばらく間があった。「お前が生きていてくれれば——それだけが、ボクには——」
声が途切れた。
サキは父を見た。父はサキを見ていなかった。
ーーー
「父は、ボクに謝るつもりはありますか」
父の動きが止まった。
「謝っても——お前の身体は——」
「ボクの身体は関係ありません」
遮った。父が顔を上げた。
「他の人が死んだ。傷ついた。それについて」
父が顔を覆った。「……わかっている。わかっているが——」
「今、これ以上を聞いても、答えが出ないと思います」
サキは言った。正確な観測として。怒りでもなく、諦めでもなく。
「ただ一つだけ。今後も協力する気はありますか——こちら側に」
父が顔を上げた。サキを見た。「……お前はここに何をしに来た」
「父を助けに来ました。そして——カイロスを止めるための証拠が必要です」
父が、長い間サキを見た。
何かを確認するような目だった——今目の前にいるのが本当にサキなのかを、確かめるような。義体の腕を、義眼を、変わっていない声のトーンを。
「……義体になっても、お前はお前だな」と父が言った。
「当然です」
ーーー
「時間だ」
ラゼルの声が扉の外から来た。
サキは立ち上がった。扉に向かいながら、一度だけ振り返った。
「また来ます」
「……待っている」
父が言った。小さかった。
扉が閉まった。廊下に出た。白い壁が戻ってきた。消毒の匂いが残っていた。
〔処理:未完了〕
ラゼルが歩き始めた。サキがその後を歩いた。
今は動く。処理は後でいい。




