8.2.気づき/今のボクを
気づき
端末のスリープ画面を、サキはしばらく見ていた。
カーソルが点滅している。入力待ちの状態。何も入力されないまま、ただ点滅を繰り返している。サキは義眼でその点滅を記録した。0.5秒間隔。規則的。
〔……今日、シェリーが「覚えていない」と言った〕
処理を始めた。
ーーー
「学園祭のとき——ステージ袖で、最後に何を言ったっけ、わたし」
廊下でのシェリーの言葉を、サキは逐語的に再生した。音声の記録はない——義体化後、他者との会話を無断で録音することには、当初から慎重だった。だが、記憶には残っている。発話の間隔。声のトーン。「よく思い出せなくて」と続けたときの、わずかな間。
(あれは本当に「覚えていない」のか)
「思い出せない」と「消えた」は、同じではない。人間の記憶は本来、不正確で再構成的なものだ。ある出来事の詳細を忘れることは、珍しくない。
しかし。
サキは処理を続けた。
学園祭の機材トラブル——あれはシェリーとサキが初めて言葉を交わした場面だ。シェリーのような記憶の傾向を持つ人間が、「あのとき何を言ったか」を忘れることは、あり得ないわけではない。だが——
〔タイムリープ。代償。記憶の消失〕
情報が、ログとして浮かんだ。
シェリーのタイムリープが持つ代償——繰り返すたびに、何かが削れていく。それは知っていた。シェリー本人から聞いていた。でも、そのとき「何が削れていくか」の具体的な推定を、サキはしていなかった。
(なぜ、していなかったのか)
〔処理優先度:低、として分類していた〕
今、それが間違いだったと気づいた。
ーーー
「どこから消えるか」を考えた。
記憶の消失に一定のパターンがあるとすれば——感情的な重要度が低いものから。次に、出来事の詳細。やがて、出来事の輪郭。最後に、存在そのものへの認識。
これは推定だ。根拠となるデータが少なすぎる。
それでも——
〔学園祭の「内容」が消えた。「あった」という事実は残っている〕
つまり今は、「詳細」の段階だ。輪郭はある。中身がない。
(ボクとの記憶は、どの順番で消えるのか)
算出しようとした。シェリーにとって、「ボクとの記憶」の感情的重要度は——
できなかった。
データが足りなかった。そもそも、他者の記憶の優先順位を外部から算出することは、原理的に不可能だ。シェリーが何を大切にしているかは、シェリーにしか分からない。ボクにはアクセスできない。
〔……計算できない〕
端末の点滅が続いた。
ーーー
「なぜ、それが怖いのか」
サキは自問した。感情の名前をつけようとしていた——違う。感情が存在するかどうかを確認しようとしていた。
シェリーがボクのことを覚えていなくなる。それは——何を意味するか。
ボクが存在することへの承認を失う?
否。ボクの存在は、シェリーの記憶に依存しない。ボクは今ここにいる。シェリーがボクを覚えていなくても、ボクの義体は動き、センサーはデータを取り、バッテリーは消費される。存在の継続は、他者の記憶とは無関係だ。
シェリーにとってのボクの価値を失う?
否。記憶がなくても、関係性は続きうる。シェリーがボクと話せば、ボクはシェリーに答える。毎日その繰り返しが起きれば、記憶がなくても関係は積み上がる。
〔……では、何が〕
何が怖いのか。
端末を見たまま、サキは少し止まった。
(……シェリーが、ボクとの時間を「なかったこと」のように感じるようになることが、恐ろしい)
言語化できた。
でも——その先に、もう一つあった。
(ボクはその時間を覚えている。でも、彼女が覚えていなければ——二人の間に、その時間は存在したことになるのか)
存在したことになるのか。
その問いが、サキの処理を一瞬だけ止めた。
〔存在した。ボクが覚えている。それは事実だ〕
だが、「二人の間に存在した時間」というのは、一人が覚えていれば成立するのか。それとも、両方が記憶していて初めて存在したと言えるのか。
答えが出なかった。
ーーー
端末を開いた。
新しいフォルダを作成した。名前をつけた——「記録」。
入力を始めた。
「1年生・学園祭の記録。機材トラブル。シェリー・グレイソンとの初めての会話。」
打鍵しながら、場面を再生した。大講堂。マナコンダクター装置が止まった瞬間。ステージに駆け上がるシェリーの後ろ姿。実行委員が止めようとして、届かなかった。
「通信機越しに指示を送った。復旧時間の見込みを計算しながら。」
「シェリーが『苔が歌って道を教えてくれた』と言った。ボクが誤りを指摘した。シェリーが反論した。ボクが感情的になった——正確には、想定外のパラメータが入力されて処理が追いつかなかった。それを感情的、と呼ぶかどうかは保留する。」
「会場が笑った。シェリーが後から来て、『天才的なコンビじゃない?』と言った。ボクは『悪くないかもしれませんね』と答えた。それが最初だった。」
書き続けた。
シェリーの立ち位置。通信機越しに聞こえた呼吸のリズム。会場の笑い声の周波数。「面白かった」とシェリーが言ったときの声のトーン——記録にはない。でも、記憶にはある。それを言語化して、書いた。
数値で書けないものは、文章で書いた。
ーーー
一時間後、フォルダの中に複数のファイルができていた。
学園祭。最初のコラボ配信。囁きの森から帰ったシェリーと廊下で話した夜。サキが入院中にシェリーが来た朝。ピクニックの日。
全部、書いた。
〔……これは何をしているのか〕
自問した。
記録を作っている。シェリーが覚えていなくなっても残るように。
そうだ。でも——それだけではない気がした。
〔シェリーが覚えていなくなっても——ボクが覚えている〕
その言葉が、端末の中に書かれることなく、サキの処理の中だけに浮かんだ。声には出さなかった。出す必要がなかった——今は、そこにあるだけでいい。
端末を閉じた。
部屋が静かだった。義耳が外廊下の足音を一つ拾った。すぐに遠ざかった。
〔バッテリー残量:74%〕
充電を開始した。今夜はそれだけでいい。
ーーーーーー
今のボクを
深夜、配信ソフトの管理画面を開いた。
アバター設定。カーソルが「アバター変更」の上にある。数秒前からそこにある。サキはまだクリックしていなかった。
画面には、現在のアバターのプレビューが表示されている。2頭身のデフォルメキャラクター。黒髪をまとめた髪型。白衣。小さな丸眼鏡。完全に人間の外見——機械要素はゼロ。
〔……これは、術前の姿だ〕
設計したとき、そう意図した。覚えている。「自分の知っている姿を可愛くデフォルメした」バージョン。当時は、それが自然だと思った。自分の姿は手術前の姿だ、と。
でも——今、このアバターを見ると、少し違う感触がある。
ーーー
〔術前の姿を使い続けることは——消えていくことへの抵抗だ〕
言語化できた。
抵抗、という言葉が正しいかどうかは保留する。でも、構造としてはそうだ。「今の自分ではなく、かつての自分の姿を使い続ける」——それは、今の姿を回避していることと等しい。
〔でも、ボクは今ここにいる〕
今の形で。両腕が義体で。義眼で今夜の画面を見ていて。センサーが部屋の温度を拾っていて。バッテリーが充電中で。
今の形のまま、ここにいる。
〔シェリーは——今のボクを、覚えていてくれている〕
記憶が消えていく話ではない。今現在の話だ。シェリーは今、サキのことを知っている。義体になってからのサキを。義眼がある顔を。義手の六角形の継ぎ目を。
〔ならば〕
カーソルがクリックされた。
ーーー
新しいアバターファイルを選択した。
数週間前に作っておいたものだ。完成はしていたが、適用するかどうかを決めていなかった。今夜、決めた。
プレビューが切り替わった。
同じ2頭身。同じ輪郭。同じ体型。ただ——肌の質感が少し違う。右腕が機械アームのデザインになっている。義手の外装モチーフ。左目に、小さな光の点——義眼のHUDを模した表現。服の袖から覗く関節のモチーフ。
眼鏡は、ない。
〔……術前の面影がある。でも、今のボクだ〕
配信ボタンを押した。
ーーー
「……こんにちは。義体観察日記です」
いつも通りの書き出しで始めた。コメントが流れ始めた。「サキちゃんだ」「今日も来た」「こんにちはー」。常連の名前がいくつか見えた。義眼が文字を認識して、全部記録した。
「今日は、お知らせがあります」
コメントが少し止まった。待っている。
「アバターを変えました」
画面が切り替わって、新しいアバターが表示された。
コメント欄が動いた。
「あっ」「変わった!」「かわいい!!」「なんかメカっぽくなった?」「義体デザインだ」「メカかわいい系になったの嬉しい」「眼鏡なくなってる」「でも同じキャラだってわかる」
サキは画面を見ていた。
〔……思ったより、速い〕
コメントの反応速度は予測していた。好意的な反応の割合は予測していなかった——というより、算出するための変数が足りなかった。
「……理由を聞いてもいいですか」とコメントが来た。
「——今のボクを、ちゃんと映したかったので」
それだけ言った。それ以上は言わなかった。
ーーー
しばらく、コメントが続いた。
「義体モチーフ、リアルっぽくて好き」「設定が細かい」「ちょっと待って、このアバターって……」「本当に義体なんじゃないかって前から思ってた」「シェルの友達の義体化した子って確か」「いやでも本人が配信するか?」「するかもしれない……」
〔……考察が始まった〕
想定内だった。アバターを変えた時点で、この流れは予測していた。止めるつもりはなかった。
「……思ったより好意的ですね」とサキが言った。
コメントが反応した。「当たり前じゃん」「ずっと見てるから」「デザインより中身が好きだよ」「サキちゃんのこと好き」「応援してる」「これからも来る」。
〔……そうか〕
名前をつけようとした。
嬉しい? 違う気がした。認められた? それとも違う。何か別の言葉があるはずだった——でも、出てこなかった。
今夜は、出なくていい。
「……そうか」とサキが言った。それだけ。
ーーー
コメントがまだ流れていた。
サキは義眼でそれを一つずつ読んだ。「好き」という言葉が、いくつかあった。義体デザインへの好意が、いくつかあった。「本当に義体なのでは」という考察が、増えてきていた。
画面の中で、コメントの文字が小さな光の粒のように流れていく。
〔……ボクは今ここにいる〕
今の形で。
それだけが、今夜確認できたことだった。




