8.1.2.メモが答えない/ダミエンの言葉
メモが答えない
目が覚めたら、夜だった。
天井が、自室のものだった。
体を起こした。——左肩が、脇腹が、まだ熱を持っていた。動かすたびに重かった。筋肉は残る。魔力で消える傷とは別の話だと、今夜はっきり分かった。
夜着を着ていた。
訓練着ではなかった。自分で着替えた記憶はない。誰かがやってくれた。
洗面台のそばに、畳まれた布が置いてあった。端が少し色づいていた。砂と血を拭いた跡だろう、と思った。丁寧に絞ってある。急いでやった感じではなかった。
首元を触った。封止環はなかった。
机の上に、ノートが置いてあった。閉じられたまま、ちゃんとそこにあった。
(……誰か来てくれたんか)
誰かは分からなかった。アキヅキ先生が手配したのかもしれない、と思った。それ以上は考えなかった。
寝返りを打つと、脇腹と左肩が重く鈍く訴えてきた。眠ろうとすればするほど、意識が体の内側へ向いていく。
だから、起きた。ノートを開いた。
ーーー
書く、という習慣は、第二部に入ってからついた。最初は義体保護法案の会議のメモだった。次第に、日常のことも書くようになった。サキとの会話。エディが言ったこと。マリアとの朝食。印象的だと思った瞬間。
(……なんで書き始めたんやろ)
理由を考えると、少し止まる。でも、今夜はその答えを探す気分ではなかった。ただ書いた——今日の訓練のこと。リアナさんの手が、気づいたら自分の重心を動かしていたこと。最後は立てなかったこと。砂の感触だけが残っていて、次に気づいたら夜だったこと。
書いたら、少し軽くなった。
ーーー
書きながら、何ページか前に戻ることがある。
今夜も、自然とページを遡っていた。入学後すぐの頃のページ。日付はある。その下に短い文。
「学園祭。機材トラブル。サキが助けてくれた。面白かった」
——そこで途切れていた。
シェリーは少し首を傾けた。続きを書いた記憶がない。それ自体は、よくある。書きかけてやめることもある。でも——内容を思い出そうとして、止まった。
(学園祭。機材が壊れて、わたしがステージに上がって……何があったんだっけ)
目を閉じた。
大講堂の喧騒はある。機材が止まった瞬間の静寂も。自分がステージに駆け上がったことも。でも——サキの声がどんなだったか。どんなふうに話が噛み合って、会場が笑ったか。最後にサキが何を言ったか。
輪郭だけがあった。
中身がなかった。
(……疲れとるからや。今日はさすがに消耗しとる。明日もう一回考えたら出てくる)
そう思った。ノートを閉じた。
ーーー
翌朝、出てこなかった。
大学の廊下を歩きながら、もう一度試みた。学園祭。機材が壊れた日。サキと最初に話した日。
ない。
ステージに飛び出したことは分かる。通信機から声が来たことも。会場が笑ったことも。でも——サキと話が噛み合って、「面白かった」と思った瞬間のことが、何かが薄い。霧がかかったような。いや——霧ではない。切り取られたみたいに、空白だ。
(……これは、疲れのせいじゃない)
認めるまで、少し時間がかかった。
ーーー
「ちょっといい?」
廊下の角でサキの後ろ姿を見かけて、シェリーは声をかけた。
サキが振り返った。義眼が廊下の光を受けて、一瞬だけ光った。NM-02に換装してからのサキは、向き直るときの焦点の合い方が少し速い。シェリーは、それに気づいている。サキは気づいていないと思っている。
「なんですか」
「……ねえ、学園祭のとき——ステージ袖で、最後に何を言ったっけ、わたし」
サキが「……え?」と止まった。
「なんか覚えてなくて。よく思い出せなくて」
軽い感じで言ったつもりだった。でも——言葉にしたら、自分の中で形がはっきりした。怖い、とまでは違う。ただ、確かに、空白がある。
サキが「……シェリー、少し——」と言いかけた。
止まった。
「少し、なんですか」
「……いえ」
「サキ?」
沈黙が一秒あった。サキが何かを判断していた——シェリーには、その間がそういう間だと分かるようになっていた。
「覚えています」とサキが言った。「そのときのこと、全部」
ーーー
「……機材が止まった後、シェリーがステージに飛び出しました。実行委員が止めようとしていましたが、すでに上がっていました。ボクは復旧作業をしながら、通信機でシェリーに指示を送りました」
「……うん」
「シェリーが『森で迷ったとき、苔が歌って道を教えてくれた』と言いました。ボクが『苔は歌いません。胞子による幻聴の可能性があります』と返しました。シェリーが『サキちゃんだってケトル壊してたじゃん』と言いました。ボクが『あれはバグです』と答えました。そこで会場が笑いました」
サキが淡々と言った。感情は乗っていない。でも全部、正確に見えた。
「……その後、ステージ袖で、シェリーが『私たち天才的なコンビじゃない?』と言いました。ボクは、『悪くないかもしれませんね』と答えました。それが最初です」
シェリーは笑おうとした——うまく笑えなかった。
「そうか。……そうやったな。あったな、そういうこと」
「……あった」
(思い出した気がする)
でも——本当に思い出したのか。サキが言ったから、そう思っているだけかもしれない。その区別が、どこかで消えていた。
ーーー
別れた後、廊下の端でノートを開いた。
「機材停止。ステージへ。苔は歌わない。バグです。悪くないかもしれませんね」
書いた。書けば残る。
(でも——なんで書かんと消えるんだ)
タイムリープの話を思い出した。代償のこと。繰り返すたびに、何かが削れていくと——どこかで聞いた。覚えていた。悪くはならない、と思っていた。そういう代償があっても、今がある、と思っていた。
でも。
(サキのことが消える、とは思っとらんかった)
廊下の向こうで、学生たちが喋っている声がした。授業開始の鐘が遠くで鳴り始めた。シェリーはノートを閉じて、正面を向いた。
(覚えていたい)
それだけだ。
(だから——今この瞬間を、全力で生きる。書く。残す。それだけでええ)
足が動き始めた。
ーーー
その夜、端末を開いたのは、睡眠前の習慣になっていた歌詞の整理のためだった。
最近書いたフレーズ。「どこにでもいる、誰かのために」。
義体保護法案のことを書いたつもりは、なかった。サキのことを書いたつもりも、なかった。ただ、思ったことを書いた。「誰かが、誰かのためにいる」という感触。
読み返したら——重なっていた。
(あ)
法案のこと。サキが廊下を歩いたとき、それが「器物損壊」になるかどうか分からない国の話。シェリーが言葉でやろうとしていること。言葉では届かない人がいるということ。
(言葉じゃないところで——戦えてた、かもしれない)
気づいたら、そう思っていた。意図して書いたわけではなかった。どこかで繋がっていた。
「サキ、どう思うかな」
つぶやいた。誰も聞いていない。でも問いかけたくなった。
端末を閉じる前に、メモを一行加えた。「この曲、仕上げる」と。
それだけ書いて、端末を閉じた。
ーーーーーー
ダミエンの言葉
午後、シェリーは大学の中庭のテーブルに資料を広げていた。
純潔同盟の声明文と、過去十年の義体化関連法案の否決履歴。思想的な源流をどこまで辿れるか——そこを探っていた。
人が来た気配がした。
「調査が進んでいるな」
テーブルの向かいに立っていたのは、見覚えのある外套の男だった。ナイトフォールの第一王子。ラゼルから「接触あり」と報告が来ていた人物でもある。
「ダミエン君かぁ、今は何て呼べばいい?」
「今は個人だ。名前で呼んでいい」
男は座らなかった。ただ、テーブルの上の資料を一度だけ見た。
ーーー
「否決履歴を手繰るより、どう書き換えられてきたかを調べた方が早い。法案の文面は三十年で三回、方向が変わっている」
シェリーは少し止まった。「……知ってるの?」
「調べた」
短い答えだった。それだけで情報の質が伝わる。
シェリーは問いを切り替えた。「何で教えてくれるの」
「お前が調べていることと、俺が調べていることが重なっているから」
「……ナイトフォールに、関係がある?」
男はそれには答えなかった。代わりに資料の一枚を軽く指先で叩いた。「議会の公式記録だけを追っている間は、見えないものがある」
「表に出せない記録、ってこと?」
「どこの王室にも、そういう場所はある」ダミエンが言った。「うちもそうだが——直系の血族なら入れるように設計してあるのが普通だ。お前、自分の城を探したことはないか」
ーーー
シェリーは答えるより先に、一拍止まった。
「……ない」
「だろうな」
それだけで、男は歩き出した。外套の裾が風に揺れた。
「また話す機会があれば」と言い置いて、遠ざかった。
ーーー
シェリーはしばらく、その言葉を頭の中で繰り返した。
自分の城を探したことはないか。
——あるはず、ということだ。あるとしたら、王城地下。王家の正史に近い場所。血族なら入れる。
(もし仮に自分の血は、そこで「王家の直系」として認識される?)
答えは持っていない。ただ、頭の隅に石のように落ちた。




