8.1.1.訓練場の一日
着替え室は石造りで、夜明け前の空気がそのまま壁に染みていた。
ランプが一つ。ベンチが一つ。訓練着が畳まれて置いてある。それだけの部屋だ。
シェリーは私服を脱いだ。急ぐ理由はなかった。窓の外はまだ暗い。訓練開始まで、もう少しある。
最初に手に取ったのは、黒いコンプレッションタイツだった。
手の中で生地を確かめた。思ったより厚みがある。伸縮性のある素材で、引っ張ると抵抗があって、離すと元に戻る。足から通して、腰まで引き上げる。素材が足の形に沿って密着していく——腿の外側、膝の裏、脛。空気を押しつつ、ゆっくりと体に馴染んでいく。腰まで上げると、生地が腹部をわずかに圧迫する感触があった。きつくはない。でも、確かにそこにある。
シャツは半袖だった。
頭から通して、腕を袖に通す。生地を胸の方へ引き下ろす——肩甲骨のあたりで少し抵抗して、それからすっと落ちた。脇腹のラインに素材が寄り添って、呼吸のたびに微かに動く。鏡はなかったが、体の輪郭がそのまま布に出ているのは分かった。
(……なるほど、こういうものか)
普段これを着て動く人たちが、どういう感覚でいるのかが少し分かった気がした。
その上から白の訓練着を着た。上着はVネック、腰まであるシンプルな形。パンツは腰でゆったりしているが、裾に向かって細くなっている。白——というより、薄いグレーがかった白だ。動いても捲れない素材で、今朝はまだきれいな白だった。
ーーー
扉が叩かれた。
「入ってください」とシェリーが言うと、王室警備庁の兵士が一人、小さな箱を持って入ってきた。礼をして、箱をベンチに置いた。
「封止環です、殿下。お申し付けの通り、魔力抑制仕様の標準型を」
蓋を開けた。
金属のリングが一つ。幅は三センチほど。表面は鈍い銀色で、光をあまり反射しない。内側に細かな刻印が入っているのが見えた——魔力封止の術式だろう。後部に小さな施錠機構がついていた。
持ってみた。
(……重い)
見た目よりずっと重かった。金属の重さではなく、中に何かが詰まっているような、密度のある重さだ。
「首に当てていただければ、後ろの錠は私どもが施錠いたします」と兵士が言った。
シェリーはリングを両手で持ち、首の前に当てた。金属が肌に触れた。冷たかった。石造りの部屋の温度を、そのまま持ってきたような冷たさだ。リングを首の後ろへ回して、合わさる位置を探す。
カチッ、と音がした。
小さな音だった。でも、部屋の中でよく聞こえた。
兵士が「施錠いたしました」と言った。「解除は別の鍵が必要です。訓練終了後、担当者が参ります」
「ありがとう」
兵士が出ていった。扉が閉まった。
ーーー
静かになった部屋で、シェリーはそのまま立っていた。
首の後ろ側に、錠の小さな出っ張りがある。金属がまだ冷たかった。慣れるのに少し時間がかかりそうだった。
ふと気づいた。
(……あ)
何かが、ない。
具体的に何が変わったのか、最初は分からなかった。痛みはない。動けなくなったわけでもない。息苦しくもない。でも——ずっとそこにあった何かが、静かに消えていた。
(……これが、「それ」か)
数日前のことを思い出した。リアナさんとの最初の相談。最初に言われたのが、それだった。「お前は無意識に魔力で体を底上げしている。反射速度も、出力も——魔力が乗っている間は、素の地力は育たない」。
シェリーにはすぐ分かった。身に覚えがあったから。意識して流しているつもりはなかった——それだけ当たり前になっていた、ということだ。
「魔力ごと封じることはできますか」とシェリーが聞いた。
リアナは少し考えた。「抑制具がある」と言った。「完全に封じる。使うか」「使います」。それだけだった。
指を首元に当てた。リングは動かなかった。
魔力が、動かない。封じられている。これが目的だった。これで、体の底上げなしで動ける。今日の体は、素の筋肉だけで動く。
(分かった)
これで底上げなしで動ける。選んで来た。それだけだ。
(大丈夫)
シェリーはランプを消した。扉を開けた。夜明け前の空気が来た。
ーーー
夜明け前から、訓練場には光がある。
王室警備庁の屋外演習場——石畳と砂の混じった地面が広い。端に兵士たちの朝練がすでに始まっていた。こっちには来ない。それだけが指定されていた。この区画だけが空けてある。
リアナ・ストームが中央に立っていた。
すでに来ていた。何時から来ているのかは分からない。猫獣人の金色の瞳が、シェリーを見た。帰っていいとも、歓迎するとも言わない目だ。
「来たか」
それだけだった。
ーーー
「動いてみろ」
リアナが言った。「自由に。いつも動く通りに」
シェリーが構えた。戦闘用ではなく——というか、正確な型は知らない。自然に体が落ちた重心の位置。手の置き場。これが「いつも動く通り」だ。
リアナが一周した。シェリーの周りを、ゆっくりと。触れない。ただ見る。足の角度。肩の高さ。手首の向き。全部を順番に見て——
「……なるほど」
そのひとことで終わった。
「来い」
ーーー
一瞬だった。
ばんっ——次の瞬間、背中に石畳の固さが来た。息が出た。全部出た。
「——っ」
何が起きたか、整理できないうちに三秒が経っていた。天井の空が白かった。
(……なんか一瞬で終わった)
(投げられた、たぶん)
右腕が、どこかを起点に動かされた、という感覚だけがある。それ以外は何も分からなかった。は、は、と息を戻してから、掌を地面に押しあてた。立った。
「もう一回」
リアナが動いた。また空が見えた。今度は石畳ではなく砂の部分に落ちた。
ぐちゃっ、と砂に沈んで、「ぐっ」と声が出た。腰の右側が鈍く痛んだ。砂が鼻に入った。
(腰だ。腰に来た)
立った。「もう一回」
三度目。今度は来ると身構えた。それでも終わっていた。重心を変えようとした瞬間、足ごとすくわれていた。落ちる方向が変わって、今度は左肩から落ちた。石畳の角が肩甲骨の外側に当たった。ばんっ——さっきより硬い音がした。
「っ——痛っ」
声が出た。出すつもりはなかった。
(普段なら消えるのに)
熱だけが残った。抑制具がある。シェリーはそれを改めて理解した——今日は全部、残る。
ーーー
四度目。右肘を地面で擦った。ざっ、という感触と「っ」という声が同時に出た。皮膚が剥けた。砂が入った。
五度目。頭が石畳に近いところで止まった——リアナが寸前で調整した。殺しにきているわけではない、というのだけは分かった。
(それだけが救いや、今は)
六度目。膝から落ちた。膝頭が石畳を打った——がんっ、と骨に響く感触があった。
「いた——っ」
声が出た。立ち上がるとき、膝が滲んでいるのが分かった。血だった。指で触れると砂が混じっていた。
(……治らへん)
治らない、という事実が、じわじわと意識に馴染んでいく。普段の体なら傷は消えていく。今日の体では傷は積まれていく。それだけの違いだ。でも——それだけの違いが、こんなに重いとは思わなかった。
立った。「もう一回」
ーーー
端の方で、兵士の一人が朝練の手を止めた気配がした。
「……リアナ隊長に六回投げられてまだ立ってる」と誰かが声を潜めた。「殿下が、封じてまで来るとは思っていなかった」「……命令がなければ止めに入っているところだ」「命令だ」「分かっている」
(聞こえとる。でも関係ない)
今、頭の中にあるのは——次に来るとき、どこが先に動くか、それだけだった。
七度目。リアナの右腕が動いた瞬間、シェリーは体を左に寄せようとした——間に合わなかったが、一瞬だけ粘れた。空中で体の向きが変わって、背中ではなく脇腹から落ちた。
ぐ、と鈍い衝撃が来た。肋骨の下あたりが熱くなった。息を吸うと少し痛かった。
(ちょっと粘れた、さっきより)
立った。
八度目。角度が変わった。左から来た。対応できなかった。また左肩が落ちた。さっきと同じ場所だった。石畳の角が同じ箇所を打った。ばんっ——今度はさっきより鈍い音がした。同じ場所が二回。
「っ——」
今度は声にならなかった。息だけが出た。立ち上がるのに少し時間がかかった。三秒。四秒。それだけだ。立てた。
九度目。正面から来た。足ごとすくわれた。前に崩れた。ぐちゃっ、と砂に両手が沈んだ。「ぐっ」と声が出た。砂が指の間に入った。
立った。
ーーー
十回を過ぎた頃、リアナが技を変えた。
投げではなかった。組み合った状態から、手首に圧がかかった。逃げ場を断つ角度だった。シェリーが動こうとするほど圧が増す。降参するか、関節が限界を超えるか、どちらかだった。
シェリーは降参しなかった。
「折れる」とリアナが言った。
「折れた後も試合続くなら続ける」とシェリーが言った。
一秒の沈黙があった。リアナが圧を緩めた。「……折れる前に離せ。今はそれを覚えろ」と言った。
また投げられた。今度はゆっくりだった——技の形を教えるように、丁寧に。それでも落ちた。ばんっ、と石畳に背中がついた。「っ」と声が出た。
(教えてくれとる、ということか)
何度倒れたか、数えるのをやめた。
ーーー
また落ちた。砂地に背中から落ちた。ぐちゃっ——砂が首の後ろまで入った。「っ」と息が出た。立った。
また打たれた。左の脇腹に圧がかかった。「ぐっ」と声が出た。膝が折れた。横向きに倒れた。右の腰骨が石畳の縁に当たった。「っ——」
また払われた。ばんっ、と背中から砂地に落ちた。「っ」と声が出た。立った。
白が消えていた。訓練着の前面も背面も、砂と汗で茶色と灰色が混ざった色になっていた。左肩の布が変色していた。膝の血が乾いて、動くたびに割れる感触がした。
「……」
端の兵士の声が、少し変わっていた。「……顔に傷ついてきたぞ」「治らないのか」「抑制具つけてる、見えるか、首元に」「……あれで訓練させるのか」「命令だ」
何度目かで、頬を地面に擦った。ざっ——砂が頬に食い込んだ。「っ」と声が出た。顔を上げると、砂が剥がれる感触があった。
(顔か。顔にもきた)
立った。
また腕をとられた。ぐちゃっ、と砂に腰から落ちた。「ぐっ」と声が出た。立った。
また前に出した足を止められた。体だけが前に飛んだ。ばんっ、と両手と膝が同時に砂に落ちた。「っ——」と声が出た。砂が口の端についた。立った。
ーーー
それ以降、足が少し言うことを聞かなくなってきた。
立てる。歩ける。構えられる。でも——体の奥の方で、何かが削れている感覚があった。筋肉が警告を出している感覚。普段の体なら回復しながら動けるから気づかない消耗が、今日は全部積まれていた。
左肩が、腕を持ち上げるたびに痛んだ。右ひざが曲げ伸ばしのたびに重かった。呼吸がいつもより浅かった——脇腹の打ち傷が、深く吸うたびに痛むからだ。
「素材はいい」とリアナが言った。
(……褒められとるんかな、これ)
(たぶん褒められとるんかな)
嬉しいとは思わなかった。褒め言葉ではなく、天気を言うような声だったから。
ただ——少しだけ、何かが変わった気がした。技を覚えようとするより前に、体が先に動こうとしていた。意識の手前で、何かが学んでいた。
また後ろから足を刈られた。視界が回った。背中から落ちた。ばんっ——さっきより鈍い音がした。「っ——は」と声が出た。
ーーー
また落ちた。
リアナが最初とは全く違う動きをした。シェリーが反応しようとした瞬間、足を止められていた。前に倒れた。受け身を取ったが、今日で一番、大きく落ちた。
ばんっ——砂の上に手をついた。体を起こそうとした。腕が震えた。
(……あ)
震えている、と気づいた。腕だけではなかった。膝も、少し震えていた。意識とは別のところで、体が「もう限界だ」と言い始めていた。
(限界って、こういう感触なんか)
でも、まだ立てた。立てる間は立つ、と決めていた。手を押して、足を曲げて、体を起こした。震えながら、立った。
また落ちた。ぐちゃっ、と腰から砂に落ちた。「ぐっ」と声が出た。立つのに五秒かかった。
また落ちた。ばんっ、と背中から石畳に落ちた。「っ——」と息が出た。戻ってくるのに四秒かかった。立った。
ーーー
端の兵士が、一人、背を向けた。
「見てられん」とその人が言った。「守るのが仕事なのに」「命令だ」「……どっちの命令だ。守れという命令か、見ていろという命令か」「見ていろという命令だ」「分かってる」と言った人は、それでも背を向けたままだった。
(聞こえとる)
シェリーにはその声が聞こえていた。でも関係なかった。今は足に力を入れること、それだけに使える力を全部使っていた。
ーーー
また落ちるたびに、立ち上がる時間が伸びた。
三秒。五秒。七秒。
痛くないわけではなかった。脇腹が、左肩が、膝が、頬が——全部の傷が、重なって、熱くなっていた。治らない傷の熱は行き場がなく体の中に留まっていた。汗が傷に入ると、砂と混ざってひりひりした。
それでも立った。
(やめたいか)
ある。あった。正直に言えばある。やめたいという気持ちはある。でも——帰ったとして。あの施設で、魔力を封じられて、何もできなかった事実は消えない。次また同じことが起きたとき、同じ場所で終わる自分のままでいいのか。
(やめたくはない。やめたいけど、やめたくない)
「まだ来るか」とリアナが言った。
「来る」とシェリーが言った。声がかすれていた。
また落ちた。ばんっ——石畳に背中が落ちた。「っ——は」と声が出た。戻すのに六秒かかった。立った。
また落ちた。ぐちゃっ、と前のめりに砂に沈んだ。「ぐっ」と息が出た。砂が唇についた。七秒かかった。立った。
ーーー
最後の一落ちになるとは、思っていなかった。
体が素直に倒れた。あらかじめそう決まっていたように、後ろへ。
ばんっ——背中が砂地に落ちた。
砂が手のひらに刺さった。押した。腕が動かなかった。
もう一度。力を入れた。上がらなかった。
(あれ、立たれんのんだけど)
もう一回。動かなかった。
(おかしいな)
(……おかしくはないか、十分しんどかったし)
声を出そうとした。「も」まで来た。出なかった。
空が赤かった。夕焼けが進んでいた。砂の感触だけがあった。
意識が、途切れた。
ーーー
シェリーには見えていなかった。
足音が来た。速かった。エディだった。
膝をついた。「——生きてる」と声が出た。声が変だった。感情が混じっていた。リアナはそれを聞いていた。
「封止環を外してくれ」とエディが兵士に言った。鍵が合わなかった。もう一度。回らなかった。
リアナが近づいた。両手で圧をかけた。乾いた音がして、リングが二つに割れた。
エディはシェリーを抱き上げた。軽かった。目の端が、少し赤かった。何も言わなかった。
リアナは動かなかった。
砂に残った手のひらの形を、一度だけ見た。それから目を逸らした。
「今日はここまでだ」
誰も聞いていなかった。




