7.6.2.贈り物(幕間)
ルシアンの病室を出たのは、夜の十一時を過ぎた頃だった。
廊下を歩いていると、向こうから同じ棟の学生が来た——確か、二年生の魔法薬学の学生だった。
「あ、マリアさん。良かった、探してました。これ、渡してほしいって頼まれて」と言って、白いリボンのかかった小さな包みを差し出した。「私も友達から頼まれたんで、誰からかはよく分からないんですけど。マリアさんへって」
「どなたからとは」
「それが、私に頼んだ子も、また別の子から頼まれたって言ってて。すみません、はっきりしなくて」
悪意はなかった。ただ経緯を知らないだけだ。
マリアは包みを受け取った。「ありがとうございます」と言った。
ーーー
部屋に入った。机の上に包みを置いた。
差出人の名前はなかった。リボンをほどいた。包装紙に手をかけた——
紙が裂けた音がした。
白い蔓が、包みの中から一気に展開した。マリアが身を引く間はなかった。右足首を掴まれた。次いで左。体が前に引き寄せられ、膝をついた。立ち上がろうとした腕が、手首ごと左右に広げて固定された。腰に太い蔓が回った。
最終的にマリアは床に座った形になった。両腕を左右に引かれ、腰と膝を蔓で押さえられた状態で。
痛くはない。ただ——動けない。
植物の根元から、深い青紫の花が三輪、暗がりの中でゆっくりと開いていた。
(——ミラーブルーム)
マリアは目を細めた。見れば分かった。月の泉の南域に自生する魔法植物。捕食型ではない。獲物を保存するタイプだ。分泌液には媚薬と——
(強制排泄作用)
知識が先回りした。これから何が起きるかを、全部理解した。
だから余計に——顔が、熱くなった。
ーーー
植物の蔓は、マリアを固定した後、少しだけ動いた。
腰の蔓が、ほんのわずかに締まりを調整した。きつくなるのではなく——均等に。まるで座り心地を確かめるように。背中側にもう一本、蔓が回った。背骨に沿って、ゆっくりと上を向かう。首の後ろに触れた。冷たくはない。むしろ少し温かい。
(……獲物を管理している)
知識として知っていた。ミラーブルームは捕らえた対象が傷つかないよう、状態を維持する。長期間の「保存」を目的とする植物は、こうして宿主の姿勢を定期的に整える。
知識として、知っていた。
それでも、首の後ろの蔓が丁寧に動く感触には——慣れられなかった。
花の中心に、雫が浮いた。
ーーー
蔓の先端がその雫をマリアの唇の前まで運んできた。
甘い香りが漂う。
「……やめてくださいまし」
蔓は待った。急がない。その忍耐が、かえって不気味だった。唇を閉じて顔を背けようとしたが、首の後ろの蔓がそれを止めた。強引ではない。ただ——向かせたい方向を、静かに保持する。
三十秒。一分。一分半。
「……っ」
わずかに唇が開いた。雫が舌の上に落ちた。
甘かった。そして熱が来た。胃の底から、じわじわと全身に広がる温度。月の泉の感覚器が反応する。これは薬だ。よく精製された、強い薬だ。
熱が、皮膚の内側を伝って広がっていく。指先が、敏感になっていく。固定された腕の付け根、腰の蔓が触れている部分——全部の触覚が、少し鮮明になっていく。
そして、下腹部に重さが来た。
ーーー
マリアは太ももに力を入れた。
治癒師としての判断はまだ機能していた。ミラーブルームの利尿作用が出るまでには数分ある。その間に誰かが——
蔓が動いた。
背中を支えていた蔓が、ゆっくりと肩甲骨の間を撫でるように動いた。
「——っ」
声が出た。意図していなかった。体が少しだけ動いたが、すぐに蔓が元の位置に戻した。
(……管理されている)
植物が宿主の状態を確認している。反応があった場所を記録している。マリアはそれを理解していた。理解した上で、首の後ろが熱かった。頬が熱かった。
下腹部の重さが、増した。
太ももに力を入れ続けた。膝の蔓が角度を少しだけ変えた——閉じる方向への動きを、静かに妨げていた。植物がそれを許さないように設計されているのか、あるいは単なる姿勢保持なのか。
どちらにしても、結果は同じだった。
圧が増した。一分が経った。二分が経った。もう一つの花が開いて、次の雫が準備されていた。
(——だめだ)
分かった瞬間に、もう止まらなかった。
温かいものが広がった。スカートの内側で、静かに、あたたかく。床に触れているところから、じわじわと広がっていく。小さな音がした。
マリアは目を閉じた。
顔が熱かった。頬だけではない、全部が。
「……わたくしが」と声に出した。誰にも聞こえない。それでも出てしまった。
植物は、何も変えなかった。ただ静かにそこにあった。次の雫が、準備されていた。
ーーー
二度目の雫を飲まされた後から、思考の輪郭が柔らかくなっていった。
ミラーブルームの媚薬成分は蓄積型だ——一度目は基礎体温を上げる。二度目で感覚の閾値が下がる。三度目で——
(……考えるな)
でも考えることしかできなかった。体は動かせない。蔓が背中側を定期的に動く。その感触が、鮮明に伝わってくる。首の後ろ。肩甲骨の間。腰の蔓が呼吸に合わせて微妙に動く。
全部が、普段の何倍も感じられた。
下腹部に、また重さが来た。今度は堪えようとする気力が最初から弱かった。二度目は一度目より早く来た。体が学習していた——こうなると知っているから、先に諦めていた。
温かいものが、また広がった。
先ほどより多かった。床の感触が、変わった。
マリアは頭を後ろに預けた。天井を見た。首の後ろの蔓が、その動きに合わせて少し位置を変えた。
(……ルナ)
頭の中に浮かんだ。今夜、来ると言っていた。
来てほしい。でも——こんな状態で。
「……来ないでください」と、もう一度だけ、誰にも聞こえない声で言った。
ーーー
「マリアさん?」
ドアを叩く音がした。返事が出なかった。数秒後、扉が開いた。
ルナが部屋の中を見た。
ルナの視線が、順番に動いた。蔓。植物。マリアの状態。床。
それが全部見えたとき——ルナの顔から、表情が一度、全部落ちた。
「——マリアさん」
駆け寄ってくる足音。ルナが床に膝をついてマリアの顔を覗き込んだ。目が合った。
「大丈夫ですか」と言った。声が、いつもより一段低かった。揺れを処理しながら喋っているときの声だ。
「……ルナ」マリアの声は、かすれていた。「この植物を——」
「見ています」ルナが立ち上がった。鞄を開けた。「ミラーブルーム。分かります」
「……覚えていましたの」
「マリアさんが教えてくれた植物ですから」
ーーー
ルナの動きは速かった。
封印符を根元の蔓に貼る。拮抗試薬を根の中心へ塗布する。植物の活動が段階的に低下していく。蔓がゆるみ始めた。
手首が解放された。腰。足首。ルナがマリアを支えながら蔓を外していく——その作業で、二人は必然的に近くなった。ルナの手がマリアの手首に触れた。温度が伝わった。ルナが息を一瞬だけ止めた。
「……熱いですね」とルナが言った。
「……ええ」
「媚薬の作用は、植物を退かせても体内に残ります。少し時間がかかります」
「……存じていますわ」
蔓の最後の一本が外れた。
マリアがルナの肩に手をついて体を起こそうとした。ルナが腰を支えた。
その瞬間、マリアの顔がルナのすぐ近くにあった。
ーーー
「ルナ」
声が、違った。
いつもの丁寧さの下に、別のものが溶け込んでいた。柔らかくて、低くて、熱をはらんでいた。
ルナがマリアの顔を見た。目が合った。
「まだ媚薬が——」
「分かっています」マリアが言った。「分かっていますわ」
少しの間があった。
「……止められませんの」
ルナが何かを言おうとした——次の瞬間、視界が変わっていた。
ベッドの上に仰向けになっていた。いつ移動したかも分からなかった。上にマリアがいた。
いつも丁寧に結われた髪がほどけていた。肌が上気して、赤みを帯びている。目の奥に——ルナが一度も見たことのない表情があった。
「マリアさ——」
「ごめんなさいね」
マリアの手が、ルナの頬に触れた。
ーーー
熱かった。
指先が頬の輪郭をなぞった。髪を耳の後ろに払った。その動きが、丁寧だった——乱暴ではなく、ただ、止まらなかった。
ルナは声を出そうとした。出なかった。
マリアが近づいてきた。息が、かかった。甘い香りが——植物の残り香か、それともマリアの体温が発する熱なのか、もう分からなかった。
「……待って」とルナが言った。かすれた声だった。「マリアさん、これは薬の——」
「ええ」とマリアが言った。「薬です」
「だったら——」
「でも」マリアがルナの目を見た。「あなたが来てくれて、よかったと思っていますの。それは薬ではありませんわ」
ルナが、息を吸った。
それ以上、言葉が出なかった。
マリアの髪が、ルナの頬に触れた。
ーーー
朝の光が、カーテンの隙間から入ってきた。
ルナは目を覚ました。
天井を見た。マリアの部屋だ。自分の鞄が床の上にある。昨夜から着替えていた——鞄の中の予備を使っていた。
隣で、マリアが眠っていた。
いつもの穏やかな寝顔だった。昨夜の熱も、熱っぽさも、全部収まっていた。静かに呼吸している。
ルナはその横顔をしばらく見ていた。
「あなたが来てくれて、よかった」という言葉を、ルナはまだ覚えていた。
薬だったかもしれない。薬の言葉だったかもしれない。でも——マリアがルナの目を見て言った言葉は、ルナが聞いてきた中で一番、揺れていなかった。
(……どうしよう)
医療的な判断としては正しかった。媚薬作用は他者との接触で早く収まる。ルナは知識として知っていた。だから正しかった。
だとしたら。
この胸の中の感覚は、何だろう。
「……おはようございます」とルナは言った。誰にも聞こえない声で。
マリアが、少し動いた。目が、開いた。
二人の視線が、合った。
マリアが目を細めた。「……おはようございます、ルナ」と言った。いつもの声だった。凛とした、丁寧な声だった。
でも——頬が、少し赤かった。
「おはようございます」とルナが、もう一度言った。今度は、ちゃんと聞こえる声で。




