7.4.密会
市の中心部、繁華街の路地の突き当たり。看板のない扉。
ラゼルが手をかける前に、内側から気配を測った。一人。座っている。酒を飲んでいる。警戒心は低い——いや、低く見せている。
扉を開けた。
地下に続く木の階段。降りると薄暗いカウンターバーがあった。客は一人だった。
ラゼルは男の外套を見た。羽根を収めた跡の縫製——天族ではない。吸血鬼の上位血統だ。ナイトフォールの王家に近い。外套の裾の長さ、立ち姿の重心の位置、グラスを持つ指の角度——戦闘訓練を受けている。ただし今夜は武装していない。それも分かる。
魔力の密度が、周囲の空気と質が違う。高位血族特有の「静圧」——ただそこにいるだけで、空気が少しだけ重くなる感覚だ。
ラゼルはそれを認識した上で、カウンターの端に腰を下ろした。
ーーー
「邪魔するな。こっちも作業中だ」と男が言った。視線はグラスに向いたままだ。
「同業者?」
「違う」
「同じものを追っている」
「……見当違いだ」
ラゼルが少し間を置いた。「ダミエン・ブラッドオーデン」と言った。
男が初めて振り返った。
ーーー
深い色の瞳が、ラゼルを測った。ラゼルも測った。
一秒。
「なぜ名前を知っている」
「仕事なので」
「どこの組織だ」
「フリー」
「信用できない」
「だから公式な場所ではなく、ここで話しているんでしょう」
ダミエンが少し考えた。グラスの縁を指先で一度だけ叩いた。「情報の精度が高い。フリーにしては動きが読める。後ろ盾がないわけではないな」
ラゼルは答えなかった。答えないことが答えになると分かった上で、黙った。
「……一つだけ言う」とダミエンが言った。「純潔同盟に、企業からの資金が入っている。ルートは三段。最後の出所はまだ特定できていない——ただ、金回りが急に良くなったのはここ半年だ」
「企業の名前は」
「まだわからない」
「代価は」
「シェリー・グレイソンへの貸しだ。俺はそう呼ぶ」
「……王子が貸しを作るのか」
ダミエンが立ち上がった。外套の前を直した。「今は王子じゃない」
「では何ですか」
「個人だ」
ーーー
扉に向かいながら、止まった。振り返らない。
「次に会う場所は、もっと面倒なところになる。覚えておけ」
「——ナイトフォールとこの件に、何の関係がある」
ダミエンが、少しだけ動きを止めた。
「……言う必要はない」
「言う必要がないのと、言えないのは、違います」
一瞬の間があった。
「賢いな」とダミエンが言った。「だから答えない」
扉が開いた。階段を上がる足音。消えた。
ーーー
ラゼルは一人残った。
しばらく動かなかった。カウンターに一本だけ指を置いて、今の会話を整理した。
ダミエン・ブラッドオーデン。ナイトフォールの第一王子。公式には、王都への留学生という建前がある。建前通りに動いていないことは、今夜の場所が証明している。
情報の質は高かった。三段ルートという数字は、ラゼルが別ルートで把握していた資金の流れと整合する。名前を知っていなくても使える情報だ。
「賢いから答えない」——これは情報を持っている、という表明でもある。ナイトフォールが動いている理由を、彼は知っている。今夜は言わなかった。次に会うとき、また少しだけ開くかもしれない。そのための「次に会う場所」という言葉だ。
(利用するには、もう少し観察が必要だ)
端末を取り出した。シェリーへ短い文を打った。
〈ダミエンと接触。純潔同盟に企業資金三段ルートあり。名前不明。ダミエンは独自に調査中。ナイトフォール絡みの可能性。〉
送信した。
グラスを一杯だけ頼んだ。飲まなかった。
ーーーーーー
地下のバーから出ると、夜気が冷たかった。
ダミエンが去って十分が経っていた。ラゼルは路地を歩いた。人通りの少ない裏道を選ぶのは習慣だ。尾行を確認したいときも、したくないときも、同じ道を使う。今夜は後者だった。
頭の中で、今夜の会話を整理した。
ーーー
ダミエン・ブラッドオーデン。
公式には、ナイトフォール王国の第一王子という立場でアストラリスに留学している。建前だ。ラゼルが掴んでいる情報では、王室から切り離された形で動いている——命令系統に属していない。組織に属していない。彼が言った通り、「個人だ」というのは嘘ではない。
今夜の情報の質は高かった。「企業資金三段ルート」という数字は、ラゼルが別経路で掴んでいた資金の流れと整合する。共通の情報源があるか、あるいは別々のルートで同じ結論に辿り着いたか。後者なら、その情報の信頼度は上がる。
残った疑問は一つ。
「ナイトフォール」——それだけを言って去った。
深海の王国と純潔同盟を繋ぐ線がある、ということだ。しかし理由が見えない。ナイトフォールが義体化反対運動から何を得るのか。あるいは得るためではなく——失うものを守るためか。
(まだ分からない。分からない部分は分からないままにしておく)
ーーー
橋を渡った。川の水面が街灯を映していた。
ラゼルは立ち止まらなかった。立ち止まる癖は、若い頃に意図的に消した。考え込んでいる姿を見せないこと——そう決めてから、考えるときは歩きながら考えるようになった。
シェリーへ送った短文を振り返った。〈ダミエンと接触。純潔同盟に企業資金三段ルートあり。名前不明。ダミエンは独自に調査中。ナイトフォール絡みの可能性。〉
過不足ない。今夜分かったことを全部入れた。
ただ——「シェリー・グレイソンへの貸しだ。俺はそう呼ぶ」という発言は入れなかった。
(入れる必要がなかった、のか。それとも——)
入れたくなかった。という言い方の方が正確かもしれない。ダミエンがシェリーに対して特別な扱いをしている、という情報は、使い方を間違えれば関係を揺らす。情報の精度ではなく、タイミングと文脈の問題だ。
(ラゼル、お前が判断しすぎている)
そういう指摘が来るとしたら——昔の上司なら言ったかもしれない。今はその上司はいない。
ーーー
宿に入った。
部屋は小さかった。荷物が少ないのでちょうどよかった。テーブルの上に端末を置いて、今夜新たに生まれた「分からない」の一覧を更新した。
ナイトフォールの関与ルート。
企業名。
ダミエンの最終的な目的。
三項目。管理できる数だ。
一方で「分かった」の一覧も更新した。
資金ルートの存在が確定した。
ダミエンが動いていることが確定した。
彼が情報を持っているが、すべては開示しないことが分かった。
(利用できる。注意は必要だが、使える相手だ)
端末を閉じた。
窓の外に、アストラリスの光があった。
この街は、夜でも明るい。眠らない街というのは、眠れない人間の数が多い街でもある。ラゼルがこういう場所を選んで動き続けてきたのは、たぶんそういう理由だった——一人で起きていることを、誰も不思議に思わない場所。
(理由にするな。習慣だ)
着替えた。横になった。目を閉じた。




