表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
半分の吸血姫、半分の…?  作者: u-nyu
7.偽旗
79/96

7.3.2.足湯と、知っていたこと

 マリアの部屋のドアを叩くのは、いつだって十一時を過ぎた頃になる。


 昼間は「それなりに大丈夫」な顔をしていられる。夜になると、その貯金が尽きていく。だからドアを叩けるのは、夜が深くなってからだった。


 「どうぞ」という声がした。


 マリアが手を止めてルナを見た。書き物をしていたらしく、ペンを持っていた。何も聞かない。「座りますか」と言った。


 カーペットの上に座った。体が低い場所にあると、少し安心する。


 しばらくして、マリアがルナの足元に視線を落とした。


 「靴を脱いでいましたのね」


 「……廊下が冷たくて」とルナが言った。靴下越しでも、夜の石畳は足の先まで冷えてくる。


 マリアが少し考えてから「足湯にしましょうか」と言った。


 「そんな、いいです——」


 「靴下を取ってください」とマリアが言った。


 その言い方に、有無を言わさないものがあった。


ーーー


 マリアが小さなたらいを出した。お湯を張って、部屋に戻ってくる。湯気が白く立ちのぼっていた。


 「足を入れてください」


 ルナが靴下を脱いだ。足裏が空気に触れた。今日も一日、歩き回っていた。朝から講義で、その後図書館で、夕方は施設の廊下を何度も往復した。かかとに、うっすらと埃が積もっていた。


 「……入れます」


 お湯に、足先が触れた。


 ——熱かった。


 熱いのに、引かなかった。温度が足の甲を包む。かかとが沈む。足首まで、ゆっくりと。


 足の指の間を、お湯が満たした。


 「……あ」


 声が出た。自分でも気づかずに。


 温かい——ただ温かい、という感覚が、指の股からかかとまで、じわじわと全体に広がっていく。足の甲が溶けていくみたいに弛んでいく。ふくらはぎの裏の筋肉が、重さを手放していく。膝の内側まで、温度が上がってくる。


 (……体って、こんなに冷えていたのか)


 知らなかった。ずっと冷えていたことに、温めてもらって初めて気づいた。


ーーー


 マリアが隣に座って、本を開いた。


 何も言わない。ルナも何も言わない。たらいの中で、お湯が少しゆれていた。


 五分が経った。十分が経ったかもしれなかった。


 温度が、膝から太ももの内側まで上がってきていた。足がたらいの中で完全に弛んでいる——足の指が、動かそうとしなくても、自然に開いていた。


 体の中で、何かが変わっていた。


 ルナはずっと、全身のどこかに力が入っていた。廊下では、誰かとすれ違うたびに肩が上がった。授業中は、背中を壁につけた席を選んだ。食堂では、出口に近い端に座った。腰から下に、ずっと何かを締めつけるような力があった——締めつけることが、当たり前になりすぎて、力が入っていることにも気づいていなかった。


 それが全部、少しずつほどけていく。


 膝の力が抜けた。太ももの内側が、重くなった。おなかの下のあたりが——


 (あ)


 分かった。私はこの感覚を知っている。


ーーー


 止めようとした。


 いつもなら止められる。昼間は、何時間でも止めていられる。でも今、締めつけるための筋肉が、どこにあるか分からなくなっていた。足の指が弛んでいる。ふくらはぎが弛んでいる。太ももが弛んでいる。腰が弛んでいる——全部がほどけていて、そこだけを締めようとしても、もう場所が見つからない。


 (だめだ、だめだ、止まって——)


 最初はほんの少しだった。ごく微かな感覚として、下腹のあたりから始まった。止めようとした力が、空振りした。次の瞬間には、もう止められなかった。


 温かいものが、ゆっくりと広がった。


 足の周りのお湯と、同じ温度で。


 吸収体が受けていく——その感覚を、ルナは知っている。厚みが、少し増す。重さが、静かに戻ってくる。布の内側が、あたたかく、均一になっていく。太ももの内側が、じんわりとあたたかい。


 一秒。二秒。


 全部が終わった。


 たらいのお湯は、まだ温かかった。


ーーー


 ルナは動けなかった。


 足がたらいの中にある。外はお湯。内側は——重く、あたたかく、静かになった布が、肌に当たっている。


 マリアが本のページを繰った。


 何も言わなかった。


 ルナは天井を見ることもできず、カーペットの一点を見ていた。動けなかった。足をたらいから出すことも、何か言うことも、できなかった。


 (……マリアの部屋で)


 (マリアの、部屋で)


 頭の中がそれだけになった。でも体は動かない。足の下のお湯が少し冷えてきた。吸収体の温度と、足の周りの温度が、少しずつ変わっていく——内側の方が、まだ温かかった。


 少し体を動かした拍子に、腰のあたりで、重さが揺れた。


 (……ある。まだ、ある)


 当たり前だ。吸収されているだけで、なくなってはいない。体を動かすたびに、それを感じる。太ももの内側に、均一なあたたかさ。


ーーー


 「そろそろ、たらいを替えましょうか」とマリアが言ったのは、しばらく経ってからだった。


 ルナが足をたらいから出した。タオルが差し出される。足を拭きながら、膝を折って体を起こした——ナイトドレスの裾が、腰のあたりから持ち上がった。


 空気が、少し変わった気がした。


 マリアの視線が一瞬、止まった。


 白い布が、ナイトドレスの薄い生地越しに浮いていた。腰のテープの端。吸収体が重みを持っているぶん、裾がわずかに引っ張られていた。平らではない輪郭が、そこにあった。


 「——っ」


 体が固まった。


 でも、マリアが何も言わなかった。ただたらいを持って、部屋の奥へ歩いていった。「タオル、そこにありますわ」と言った。普通の声だった。


 ルナが動けないでいると、マリアが戻ってきた。


 「……マリアさん」


 「なんですか」


 「……見ましたか」


 マリアが少し間を置いた。「はい」


 「……いつから」


 「初めてここに来た夜から」


ーーー


 ルナが息を吐いた。声にならない息だった。


 「ずっと……知ってて」


 「はい」


 「なんで……言わなかったんですか」


 マリアが床に腰を落として、ルナと目線を合わせた。


 「あなたが話してくれるまで、待っていましたから」


 ルナが、顔を伏せた。


 腰のあたりに、まだ重さがある。吸収体が熱を持ったままで、冷えきらない。太ももの内側がまだあたたかい。そういう状態のまま、ルナはそこに座っていた。


 「……怒らないんですか」


 「怒る理由がありませんわ」


 「でも——」


 「あなたがここに来ることを、わたくしは迷惑に思ったことはありません」


 ルナが黙った。


 泣かなかった。でも目の奥が、少し熱かった。


 「……一人で、ずっと」


 「ええ」


 「……一人でずっと、こんなことしてたの、わたし」


 「ええ」


 マリアが何も言わなかった。付け足すような言葉を、何も言わなかった。ただ「ええ」と言って、そこにいた。


ーーー


 少し間があってから、マリアが立ち上がった。


 引き出しを開ける音がした。何かを取り出している。


 「替えましょうか」とマリアが言った。


 ルナが顔を上げた。


 マリアが手に持っているものを見た。薄い水色。無地に近いパッケージ。——ルナが使っているものと、同じ品だった。


 「……なんで」


 「もし必要になったとき用に、少し置いていましたの」


 いつから。ルナが聞こうとして、聞けなかった。でも、分かった。初めてここに来た夜から——ずっと前から。


 「……一人でできます」


 「そうですか」とマリアが言った。「では、わたくしは向こうを向いていますわ」


 マリアが窓の方へ向いた。


 ルナが立ち上がった。腰のあたりで、重さが揺れた。テープを外した。左。右。


 吸収体が、手のひらに重さとして伝わってきた。あたたかかった。袋に入れて、口を縛った。


 タオルで拭いた。腰から太ももにかけて、念入りに。


 新しいものを足から通して、引き上げた。テープを左、右。乾いた布が肌に触れた。さっきまでの温度が、もうない。


 「……終わりました」


 マリアが振り返った。


 「ありがとうございます」とルナが言った。こんな言葉を、こういう場面で言ったことは、一度もなかった。


 マリアが「いいえ」と言った。それだけだった。


ーーー


 もう一度カーペットの上に座った。


 「……話せるかどうか、まだ分かりません」とルナが言った。「どこから話せばいいのかも」


 「いつでも」とマリアが言った。「話せる日が来たら、そのときに」


 「……もし来なかったら」


 「来なくていいです。でも——来ると思っています」


 ルナがしばらく黙っていた。


 「……足湯、温かかったです」


 「ええ」


 「また、してもらえますか」


 「もちろんですわ」とマリアが言った。


 それだけだった。


 それだけで、十分だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ