7.3.2.足湯と、知っていたこと
マリアの部屋のドアを叩くのは、いつだって十一時を過ぎた頃になる。
昼間は「それなりに大丈夫」な顔をしていられる。夜になると、その貯金が尽きていく。だからドアを叩けるのは、夜が深くなってからだった。
「どうぞ」という声がした。
マリアが手を止めてルナを見た。書き物をしていたらしく、ペンを持っていた。何も聞かない。「座りますか」と言った。
カーペットの上に座った。体が低い場所にあると、少し安心する。
しばらくして、マリアがルナの足元に視線を落とした。
「靴を脱いでいましたのね」
「……廊下が冷たくて」とルナが言った。靴下越しでも、夜の石畳は足の先まで冷えてくる。
マリアが少し考えてから「足湯にしましょうか」と言った。
「そんな、いいです——」
「靴下を取ってください」とマリアが言った。
その言い方に、有無を言わさないものがあった。
ーーー
マリアが小さなたらいを出した。お湯を張って、部屋に戻ってくる。湯気が白く立ちのぼっていた。
「足を入れてください」
ルナが靴下を脱いだ。足裏が空気に触れた。今日も一日、歩き回っていた。朝から講義で、その後図書館で、夕方は施設の廊下を何度も往復した。かかとに、うっすらと埃が積もっていた。
「……入れます」
お湯に、足先が触れた。
——熱かった。
熱いのに、引かなかった。温度が足の甲を包む。かかとが沈む。足首まで、ゆっくりと。
足の指の間を、お湯が満たした。
「……あ」
声が出た。自分でも気づかずに。
温かい——ただ温かい、という感覚が、指の股からかかとまで、じわじわと全体に広がっていく。足の甲が溶けていくみたいに弛んでいく。ふくらはぎの裏の筋肉が、重さを手放していく。膝の内側まで、温度が上がってくる。
(……体って、こんなに冷えていたのか)
知らなかった。ずっと冷えていたことに、温めてもらって初めて気づいた。
ーーー
マリアが隣に座って、本を開いた。
何も言わない。ルナも何も言わない。たらいの中で、お湯が少しゆれていた。
五分が経った。十分が経ったかもしれなかった。
温度が、膝から太ももの内側まで上がってきていた。足がたらいの中で完全に弛んでいる——足の指が、動かそうとしなくても、自然に開いていた。
体の中で、何かが変わっていた。
ルナはずっと、全身のどこかに力が入っていた。廊下では、誰かとすれ違うたびに肩が上がった。授業中は、背中を壁につけた席を選んだ。食堂では、出口に近い端に座った。腰から下に、ずっと何かを締めつけるような力があった——締めつけることが、当たり前になりすぎて、力が入っていることにも気づいていなかった。
それが全部、少しずつほどけていく。
膝の力が抜けた。太ももの内側が、重くなった。おなかの下のあたりが——
(あ)
分かった。私はこの感覚を知っている。
ーーー
止めようとした。
いつもなら止められる。昼間は、何時間でも止めていられる。でも今、締めつけるための筋肉が、どこにあるか分からなくなっていた。足の指が弛んでいる。ふくらはぎが弛んでいる。太ももが弛んでいる。腰が弛んでいる——全部がほどけていて、そこだけを締めようとしても、もう場所が見つからない。
(だめだ、だめだ、止まって——)
最初はほんの少しだった。ごく微かな感覚として、下腹のあたりから始まった。止めようとした力が、空振りした。次の瞬間には、もう止められなかった。
温かいものが、ゆっくりと広がった。
足の周りのお湯と、同じ温度で。
吸収体が受けていく——その感覚を、ルナは知っている。厚みが、少し増す。重さが、静かに戻ってくる。布の内側が、あたたかく、均一になっていく。太ももの内側が、じんわりとあたたかい。
一秒。二秒。
全部が終わった。
たらいのお湯は、まだ温かかった。
ーーー
ルナは動けなかった。
足がたらいの中にある。外はお湯。内側は——重く、あたたかく、静かになった布が、肌に当たっている。
マリアが本のページを繰った。
何も言わなかった。
ルナは天井を見ることもできず、カーペットの一点を見ていた。動けなかった。足をたらいから出すことも、何か言うことも、できなかった。
(……マリアの部屋で)
(マリアの、部屋で)
頭の中がそれだけになった。でも体は動かない。足の下のお湯が少し冷えてきた。吸収体の温度と、足の周りの温度が、少しずつ変わっていく——内側の方が、まだ温かかった。
少し体を動かした拍子に、腰のあたりで、重さが揺れた。
(……ある。まだ、ある)
当たり前だ。吸収されているだけで、なくなってはいない。体を動かすたびに、それを感じる。太ももの内側に、均一なあたたかさ。
ーーー
「そろそろ、たらいを替えましょうか」とマリアが言ったのは、しばらく経ってからだった。
ルナが足をたらいから出した。タオルが差し出される。足を拭きながら、膝を折って体を起こした——ナイトドレスの裾が、腰のあたりから持ち上がった。
空気が、少し変わった気がした。
マリアの視線が一瞬、止まった。
白い布が、ナイトドレスの薄い生地越しに浮いていた。腰のテープの端。吸収体が重みを持っているぶん、裾がわずかに引っ張られていた。平らではない輪郭が、そこにあった。
「——っ」
体が固まった。
でも、マリアが何も言わなかった。ただたらいを持って、部屋の奥へ歩いていった。「タオル、そこにありますわ」と言った。普通の声だった。
ルナが動けないでいると、マリアが戻ってきた。
「……マリアさん」
「なんですか」
「……見ましたか」
マリアが少し間を置いた。「はい」
「……いつから」
「初めてここに来た夜から」
ーーー
ルナが息を吐いた。声にならない息だった。
「ずっと……知ってて」
「はい」
「なんで……言わなかったんですか」
マリアが床に腰を落として、ルナと目線を合わせた。
「あなたが話してくれるまで、待っていましたから」
ルナが、顔を伏せた。
腰のあたりに、まだ重さがある。吸収体が熱を持ったままで、冷えきらない。太ももの内側がまだあたたかい。そういう状態のまま、ルナはそこに座っていた。
「……怒らないんですか」
「怒る理由がありませんわ」
「でも——」
「あなたがここに来ることを、わたくしは迷惑に思ったことはありません」
ルナが黙った。
泣かなかった。でも目の奥が、少し熱かった。
「……一人で、ずっと」
「ええ」
「……一人でずっと、こんなことしてたの、わたし」
「ええ」
マリアが何も言わなかった。付け足すような言葉を、何も言わなかった。ただ「ええ」と言って、そこにいた。
ーーー
少し間があってから、マリアが立ち上がった。
引き出しを開ける音がした。何かを取り出している。
「替えましょうか」とマリアが言った。
ルナが顔を上げた。
マリアが手に持っているものを見た。薄い水色。無地に近いパッケージ。——ルナが使っているものと、同じ品だった。
「……なんで」
「もし必要になったとき用に、少し置いていましたの」
いつから。ルナが聞こうとして、聞けなかった。でも、分かった。初めてここに来た夜から——ずっと前から。
「……一人でできます」
「そうですか」とマリアが言った。「では、わたくしは向こうを向いていますわ」
マリアが窓の方へ向いた。
ルナが立ち上がった。腰のあたりで、重さが揺れた。テープを外した。左。右。
吸収体が、手のひらに重さとして伝わってきた。あたたかかった。袋に入れて、口を縛った。
タオルで拭いた。腰から太ももにかけて、念入りに。
新しいものを足から通して、引き上げた。テープを左、右。乾いた布が肌に触れた。さっきまでの温度が、もうない。
「……終わりました」
マリアが振り返った。
「ありがとうございます」とルナが言った。こんな言葉を、こういう場面で言ったことは、一度もなかった。
マリアが「いいえ」と言った。それだけだった。
ーーー
もう一度カーペットの上に座った。
「……話せるかどうか、まだ分かりません」とルナが言った。「どこから話せばいいのかも」
「いつでも」とマリアが言った。「話せる日が来たら、そのときに」
「……もし来なかったら」
「来なくていいです。でも——来ると思っています」
ルナがしばらく黙っていた。
「……足湯、温かかったです」
「ええ」
「また、してもらえますか」
「もちろんですわ」とマリアが言った。
それだけだった。
それだけで、十分だった。




