7.2.2.授業
【シェリー|属性魔法実習・午前】
演習棟の実習室は、いつも少し埃っぽい。
古い建物だ。床は磨き込まれた石。天井は高く、日当たりがいい。壁際に魔法陣の残滓が染みついている——歴代の学生が練習で刻んだものが、百年以上かけて積み重なった跡だ。
シェリーは自分に割り当てられた演習スペースに立っていた。
隣では同学科の学生が黙々と作業している。術式の手順を確認する声が時折聞こえる。指導棟のどこかから、魔力が弾ける音がした。いつもの朝だ。
今週の課題は「複合属性制御」。光属性を基調として、副属性を乗せて安定させる。属性魔法学科の2年次では標準的な課題だ。シェリーはここ数日、うまく仕上がらずにいた。
(できないわけじゃないんだけど)
呼吸を整えた。マナを引き寄せる。光の流れを手のひらに感じる——それはある。安定している。問題はその次だ。
副属性を重ねようとした瞬間、何かがずれた。
光の中に、別の色が滲んだ。
淡く、深く、暗い——光と同じ根から来たような色。術式の隙間から染み出るように広がって、シェリーが慌てて引き戻すより早く、演習スペースの空気を変えた。
一秒もなかった。気づいたときには、消えていた。
「……」
シェリーは手のひらを見た。なにも残っていない。ただの手だ。
「ふむ」
声がした。振り返ると、アーサー教授が立っていた。いつの間にかそこにいた。エルフの白髪と緑の瞳。長い白髭に指を添えて、シェリーの手のひらを見ていた。
「——先生」
「続けなさい」とアーサー教授は言った。評価の言葉はなかった。
シェリーが続けようとする。もう一度、光を引き寄せる。今度は副属性には触れない。ただ光だけを展開する。それは問題なくできた。安定した術式が広がる。
アーサー教授が少し間を置いた。
「……興味深い」
それだけ言って、別の学生のもとへ歩いていった。
何が興味深いのか、教えてくれなかった。
(そういうもんなのかな、あの人)
シェリーはもう一度手のひらを見た。さっきの色のことを考えた。考えて——やめた。今日の課題をやり直す。
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【エディ|護衛クエスト・同日午後】
依頼書には「市内護衛・危険度C」と書いてあった。
商人が言うには、テロ以来どうも落ち着かなくて、と。荷物を隣区まで運ぶだけだが、一人では心配なので、とのことだった。ついては護衛を、と。
エディは依頼を請けた。危険度Cだ。実習単位にもなる。
結論から言うと、何もなかった。
荷車を引く商人の隣を歩いて、目立った問題もなく隣区の倉庫に到着した。商人が丁寧に礼を言い、報酬を払い、お茶まで出してくれた。テロ後の市内は確かに少し空気が重かったが、それだけだった。
(これくらいが今はちょうどいいのかもな)
引き受けた仕事を終えて帰り道に入ったとき、路地の角にラゼルが立っていた。
「待ってたのか」
「通りがかっただけだ」
「どこから来たんだよ」
ラゼルは答えなかった。答えないのがラゼルだ。エディはもう気にしない。
二人で並んで歩いた。
「どうだった」とラゼルが言った。
「こんな依頼ばかりだな」
「今は仕方ない」
短い返事だった。エディはそれ以上言わなかった。ラゼルも黙った。夕方の大通りを、二人でただ歩いた。
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【マリア・ルナ|アキヅキ先生の講義・同日午後】
講義室は小さかった。
エーテル医科学科の専門科目は受講者が少ない。今日は十数人。前の方の席に、マリアとルナが並んで座っていた。マリアはノートを開いている。ルナは教科書の端に付箋を貼り終えたところだった。
アキヅキ先生が入ってきた。
白衣。白髪。眼鏡。ゆっくりと教壇に向かい、荷物を置き、受講者をひと渡り見た。
「今日は義体化の適応基準について話します」
穏やかな声だった。いつもの声だった。
講義が始まった。部分義体化、多重義体化、完全義体化——定義の確認から入る。現行法上の扱い、倫理審査委員会の基準、種族差による生体反応の違い。板書は丁寧で、説明は正確だった。
ルナはメモをとりながら、手元の付箋を一枚剥がして教科書に追加した。
しばらくして、アキヅキ先生が質問を投げかけた。
「義体化の適応基準において、最も重要な要素はどれだと思いますか」
しばらく間があった。
ルナが手を挙げた。マリアが少し驚いた——ルナが先に挙げることは少ない。
「あの……まず第一に患者の意思、だと思います」
「続けて」
「患者が望んでいること。それが前提で、次に医学的な必要性があるんじゃないかと……」
「正しいです」とアキヅキ先生が言った。「ただし——昨今議論されている義体化人権法案について、知っていますね」
学生たちがざわりとした。今の時代、知らない者はいない。
「法案が可決されれば、義体化された人間に法的な保護が与えられます。しかし——現行の審査基準では、完全義体化は承認されていない施術です」
「先生は——」
ルナが言いかけて、少し止まった。耳が伏せ気味になっているのをマリアは見た。それでも、ルナは続けた。
「先生は、この法案について、どう思われますか」
講義室が静かになった。
アキヅキ先生は答えるまでに、ひと呼吸置いた。眼鏡のレンズに指を触れた——外すほどではなく、ただ少しだけ。
「……授業の範囲で話します」
それから先は、法律の条文の話に戻った。
マリアはノートにペンを走らせながら、さっきの「ひと呼吸」のことを考えた。
(なんだろう、あの間は)
言葉にできなかった。ただ、何かが引っかかった。
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【シェリー|夕方・学食】
夕方の食堂はいつもより静かだった。
テロの後、しばらくはそういう時間帯が続いている。騒がしい時間帯が、少し遅くなった。それだけのことだ。授業は続いている。課題は出る。食事の時間も来る。
シェリーがトレーを持って席を探していると、エディが手を挙げた。
「こっちこっち」
隣にラゼルもいた。向かいに座った。三人でしばらく黙々と食べた。
「今日は何もなかったよな」
エディが言った。食べながら、特に誰に向けるでもなく。
シェリーは少し間を置いた。
「……そうだね」
そうだ。今日は何もなかった。授業があって、実習があって、クエストがあって、食事がある。
(あの色のことを、誰かに話すべきなんだろうか)
エディが茶を飲んでいる。ラゼルが静かに食べている。
(……今日はいいか)
シェリーは箸を持ち直した。
窓の外が、夕暮れになっていた。




