7.1.2.単独潜入
確認だけ、のつもりだった。
アストラリス郊外の倉庫群は、夜になると人通りが消える。ラゼルが送ってきた座標の場所に立って、シェリーは最初に思った——見た目は普通の倉庫だ。
でも、外縁の壁に沿って歩いてみると、違和感がある。
古びた外観に不釣り合いな、新しいセンサー。裏口の鍵が、ただの南京錠ではなく魔導式の認証装置に換わっている。排気口のパターンが、一般の倉庫とは違う——熱量が大きすぎる。内側で何かが動いている。
(……やっぱり確認だけじゃ終わらんやつだ、これ)
分かっていて、通気口を探した。
ーーー
内部に入って三十秒で、失敗だったと気づいた。
でも、その三十秒の間に見てしまったものが、頭から離れなかった。
一つ目の部屋に続く通路の格子越しに見えたのは——製造ラインだった。完全に自動化された、広大なフロア。ロボットアームが無音に近い精度で動いていた。棚に並ぶ部品は、シェリーが見たことのない品質だった。関節ユニット、神経接続インターフェース、義体用の感圧センサー——市販品とは比較にならない精度で整列している。
(純潔同盟が、義体を作っとる?)
矛盾が、また膨らんだ。でも今は考えている場合じゃない。
二つ目——隣のフロアへ続く扉が半開きになっていた。視線の先に、見慣れたものと見慣れないものが混在していた。マナコンダクターの大型変換装置。でも規模が違う。学術機関や軍の施設でしか見ないレベルの電力収集システムが、整然と並んでいる。
(これを作れる組織が——)
足音が来た。
気づいた瞬間には、もう複数の人間に囲まれていた。
ーーー
抵抗しようとした。
でも右手首を押さえられた瞬間に、何かが変わった。手首に触れた金属——枷が閉じた瞬間、体の中で何かが抑えられるような感覚があった。神聖エネルギーが、遮断された。
(……魔法が使えない)
左手首にも、同型の枷。足首にも。
引きずられるように連行されて、小さな部屋に入れられた。壁際のリングに手首の鎖を繋がれて、腕を上げた状態で固定された。足首の枷は左右に広げる形で床面に固定される——床に座る格好になった。
人員は撤収した。ドアが閉まった。沈黙が来た。
(落ち着け、落ち着け)
深呼吸する。まず枷の構造を確認する。魔導式の鍵。鍵穴がない。物理的に壊すには——腕が上に固定されていて力が入らない。足首は左右に引っ張られているから蹴ることもできない。
シェリーは壁を背にして、とりあえず状況を整理しようとした。
ーーー
気づいたのは、五分か十分か、それほど経ってからだった。
手の甲の色が、変わっていた。
光の下で見ると分かりやすい——肌の色が深みを増している。褐色に。指先から、手首へ。次第に腕へと広がっていく。
(……あ、これ)
枷が光属性を遮断し続けることで、闇属性が滲み出してくる。昔、母に聞いたことがある——光と闇のバランスが崩れると、体の表面に出てくることがある、と。
「……まずい」と、声に出してしまった。
暗い部屋の輪郭が、少しはっきりしてきた。闇属性の感覚が鋭くなっている証拠だ。自分の手が、見慣れない色をしている。
(落ち着け。枷が外れれば戻る)
でも枷は外れない。
ーーー
部屋の中央に、機械があった。
丸い台座を持つ、背の低い装置。電源が入っていなかったが——見た目の印象が、さっきの通路の一角で見た「同型の装置が並ぶライン」と一致した。
(量産品だ。あれも、作っとった)
考える間もなく、装置が起動した。
自動で、静かに。台座から二本のアームが伸びてきた。
シェリーは足を引こうとした——枷があって動けない。アームはためらいなく、シェリーの右足のブーツの留め金を外し始めた。淡々と、精密に。
「ちょっ——待って——」
ブーツが脱がされた。靴下も続けて、するりと引き抜かれた。アームが折りたたまれて、台座に戻っていく。
足裏が、むき出しになった。
床の冷たさが、直接伝わってくる。潜入中に倉庫の床や通路を歩き回ってきた足の裏は、薄く汚れている——埃と、コンクリートの粉と、わずかな土。その感触が、今になって際立つ。
左足も同じように脱がされた。
(……なにこれ、なんの装置——)
別のアームが展開した。細い。先端に、金属の繊維が束になっている。
シェリーはそれを見た瞬間に、分かってしまった。
(——あ、だめだ、これは笑う)
まだ何もされていない。アームはゆっくりと近づいてくるだけだ。それなのに、もうすでに顔が熱い。笑うと分かっている羞恥が、触れられるより先に来た。体が緊張する。足の指が無意識に丸まる。
(来る、来る——落ち着け、笑わん、笑わんって——)
繊維がかかとに触れた。
「——っ」
声が出た。笑い声ではなく、ただの息だった。でも次の瞬間にはもう、こらえる余地がなくなっていた。
繊維がゆっくりと動く。かかとから、土踏まずの際を伝って、足指の付け根へ。
「——はっ、ちょ、やめ——っ、やめて——」
笑いが出た。制御できない笑いが。枷が鳴るほど体が揺れた。腕が上に引っ張られたまま、背中が壁から浮く。
繊維が足指の裏を一本ずつなぞる。小指から薬指、中指——
「——っは、だめ、声、でる——やめ、てっ——」
言葉にならない。息が続かない。
左足にも、別のアームが展開した。
ーーー
両足に、同時。
均一な速度で、止まらない。かかとの縁、土踏まず、指の間——交互に、重なるように。
「——っは、はっ、やめっ——もうっ——っ!」
笑い声ではなくなってきた。喉の奥で詰まって、ただ息が削り取られている。一回一回が半端に切れて、「ひっ」「ぁっ」が止まらない——自分の声だと認識する前に出てくる。
お腹が痛い。涙が出る。それとは別の熱が頬に広がっている——笑いから来るものとは、少し違う。
(頭が——白い)
繊維が足指の間に入ってきた。一本ずつ、指の付け根を、丁寧に。
「——ひぁっ! そこ——そこはっ——ぁ、ぁあっ——!」
腰が浮いた。鎖が鳴った。笑いではなかった、あれは。笑いの形をしていたけれど、違うものだった。喉から出てきた音の質が、変わっていた。
繊維が足の甲にも回ってきた。足の裏と甲、同時——指の隙間も、かかとの縁も、全部。
「——ぁっ、あっ——はっ、やだっ——ん、んっ——!」
これは笑い声じゃない。
笑っている、確かに笑っている——お腹が痛いし涙も出ている——でも今出てきた音は、何か別のものだった。シェリーはそれに気づいて、余計に顔が熱くなった。
「——ち、ちがっ——ちがうっ——っは、はっ、ひぁっ——!」
違う、と言おうとして、また笑いが来た。
両足の感覚が溶けてきた。足の裏という認識が薄くなって、そこから上にじわじわと広がっていく——皮膚から内側へ、体の真ん中の方へ。理由もなく、ただ全身が熱い。
アームが一時停止した。
シェリーは息を継いだ。「……ぁ」と声が出た。語尾も何もない、ただの息。頭が壁に預かったままになっていた。目が半分しか開いていない。
(……今、すごく、変な声、出てた)
分かっている。分かっているのに——足の裏がまだじんじんしていて、その余韻が首筋まで来ている。
再開した。
「——っひゃ、ぁあっ——! もうっ——やめっ——ぁ、はっ、はぁっ——!」
声が詰まった。喉の奥で何かがこじ開けられるみたいに、形のない音が出てくる。笑いが来て、笑いの隙間に何かが来て、また笑いが来る——その繰り返しが、どんどん短くなっていく。
両手が鎖を引く。体が曲がろうとする。足指が繊維に絡まっている。
頭が後ろに倒れた。天井を見ていた——見えていた、かどうかも分からない。目の端に光が滲んでいる。
「——ぁっ、ぁあっ——んっ——!」
もう笑えていない。笑う余裕がなくなっている。ただ声が出ている。何の声かも分からない。皮膚の上を繊維が動くたびに、脊髄から直接声が引き出されてくるみたいだった。
(……だめ、これは——)
だめだ、と思った。でも何がだめなのか、自分でもよく分からなかった。
頭が、完全に白くなっていた。
繊維が止まった。
しばらく、何も考えられなかった。壁に頭を預けたまま、天井を見ていた。目が半開きで、口も少し開いていた。息だけが続いている。
(…………)
ゆっくりと、思考が帰ってきた。
(……あれを作れる組織が、いる)
さっき見た製造ライン。マナコンダクターの設備。そして今、体に直接刻まれたこの機械の精度——草の根の運動に、こんなものは作れない。資金ではなく、技術力の問題だ。設計と製造の、規格が違う。
確信だった。証拠ではなく、体を通った確信だった。
ーーー
ドアが外から破られた。
エディが飛び込んできた。部屋を一瞬で確認して、機械の背面パネルを開いて電源を強制遮断した。アームが止まった。
エディがシェリーの手首の枷を外す道具を取り出した。小型の魔導解錠器——ラゼルから得た情報を元に用意してきたのだ。
枷が外れた瞬間、体の中に光が戻ってくる感覚があった。神聖エネルギーが、少しずつ流れ始める。
足首の枷も外れた。
エディは、シェリーの状態を全部見ていた。褐色の体。靴下も履いていない足裏。半分しか開いていない目。
何も言わなかった。
シェリーが「……エディ」と言った。声がかすれていた。
「立てるか」とエディが言った。それだけだった。
「……うん」
エディが無言でシェリーの腕を取って、立たせた。落ちていたブーツと靴下を拾って持った。出口へ向かいながら、一度もシェリーの顔を見なかった。
シェリーも、エディの顔を見なかった。
ーーー
外に出ると、夜明け前の空気があった。
冷たかった。体に入ってくる。
シェリーはブーツを受け取って、その場に座り込んで履いた。エディが別の方向を向いていた。
「……見た?」とシェリーが聞いた。施設の内部のことだ。
「扉が開いとったとこを一瞬だけ」とエディが言った。「あれは同盟が作ったもんじゃなかろうもん」
「うん。そう思う」
二人でしばらく黙っていた。東の空が、少しだけ白んでいた。
「……ラゼルに怒られるな」とシェリーが言った。
「みんなに怒られる」とエディが言った。
シェリーが「……ごめん」と言った。「迷惑かけた」
エディが「うん」と答えた。怒っているわけでも、許しているわけでもない声で。ただ「うん」と言った。
「朝になったら作戦会議だ。みんなには俺から——」「私が言う」「一緒に言う」
シェリーが頷いた。
立ち上がるとき、自分の手の甲を見た。褐色がまだ残っていた。首筋にも、指先にも、まだかすかに色がある。光属性は戻ってきているが、完全ではない。
エディが先に歩き始めた。シェリーがついていった。
夜が、終わりかけていた。




