6.5.マリアとルシアン/キーシグナル
マリアとルシアン(マリア視点)
呼び出しが来たのは深夜だった。
端末が鳴って、マリアは目を覚ました。時刻:2時41分。アキヅキ先生からのアラートだった。303号室。ルシアンの魔力値が不安定化している——その一文だけで、何が起きているか概ね想像できた。
廊下を走った。寮から病棟まで、夜の廊下は静かだった。
ーーー
303号室のドアを開けると、部屋の空気が変わっていた。
魔力の揺れ。目では見えないが、皮膚で感じる。ルシアンが横になっているが、起きていない——意識の奥で何かが暴れている、そういう状態だった。魔族の魔力暴走の前兆は、悪夢から始まることが多い。深い眠りの中で、制御が外れる。
アキヅキが既にいた。「マリアさん。左側を頼みます。わたしが右を抑えます」
「はい」
魔力の流れを確認した。不安定化の中心は胸部——心核の付近だ。虚聖徒化の後遺症でそこが最も脆くなっている。闇のエーテルが逆流しかけている。
マリアは静かに詠唱を始めた。
ーーー
月の泉の系統が持つ、清浄の光。
熱もなく、眩しくもない。ただ澄んでいる、静かな光だった。治癒ではなく浄化——穢れを取り除くのではなく、乱れた流れを整える。川の濁りをそのまま押し流すのではなく、流れ自体を正しい方向に戻す。
マリアの詠唱が続いた。アキヅキが魔力値を読み上げる。「150、140、130……落ちてきました」
ルシアンが、眠ったまま少し表情を変えた。何かを見ている顔だった。悪夢の中で何かと戦っているのかもしれない。その表情を、マリアは見た。強張っていた肩が、少しずつ緩んでいくのを。
〔——清い。この光は〕
ルシアンの表情が変わった瞬間、マリアにはわかった。眠ったままで、でも「感じている」。この光の質を、認識している。
ーーー
夜が明けた。
魔力値が安定して、アキヅキが「もう大丈夫でしょう」と言った。マリアは詠唱を止めた。両手が少し震えていた——長時間の維持は体力を使う。それでも倒れるほどではない。
ルシアンが目を開けた。
しばらく天井を見ていた。それからゆっくり、マリアの方を見た。
「……助かった」
それだけ言った。次の言葉が来るまで、少し間があった。
「……礼を言う義務はないが」
「義務でなくていいですわ」マリアが言った。「聞こえました」
ルシアンが黙った。拒絶ではない——ただ答え方を知らない、という黙り方だった。
ーーー
片付けをしていると、マリアが手を動かした拍子に、衣の領が少しずれた。
三日月の紋章。鎖骨のやや下。今夜の魔法行使の余韻か、まだ微かに発光していた。
ルシアンがそこを見た。
長い沈黙があった。
知識としては、知っていた。この光の質も、知っていた。でも——今夜初めて、それが「この人」と重なった。
ーーー
「……マリア・ガブリエル」
ルシアンが言った。
姓名で呼んだのは、初めてだった。「亜人」でも「担当」でも「お前」でもなく、名前で。
「また来るか」
「毎朝参ります」とマリアは答えた。「それが担当ですから」
「——そうか」
ルシアンが再び天井を見た。それ以上は言わなかった。
マリアがトレーを持ち上げて、部屋を出た。廊下に出て、ドアが閉まる音を聞いた。
一度だけ、目を閉じた。
(始まりました)
それだけだった。感慨とか、安堵とか、そういうものを言語化するほど今は余裕がなかった。ただ——始まった、という事実だけが、静かに、確かにあった。
廊下の窓の外が、少しだけ白み始めていた。
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キーシグナル(サキ視点)
深夜、寮の個室で、サキはオートマタの行動ログを開いた。
アキヅキ先生が手配してくれた。花の路地のオートマタは区の公共管理のものだったらしく、データへのアクセスには申請が必要だった。申請から三日——今夜、ログが届いた。
ファイルを解凍する。データ量は想定より多かった。オートマタの稼働期間:約二年と四ヶ月。命令系統のログ。センサーデータの履歴。移動経路の記録——全部入っている。
サキは問題の時点を検索した。「アーム固定」の直前、最後の動作記録。
ーーー
正常な命令系統は、こうなっている。
上位命令(管理センターから)→ 中位処理(オートマタのAI)→ 動作。
このオートマタの最終動作の直前、中位処理のログに、説明できない信号が混入していた。
上位命令ではない。外部からのハッキングでもない——少なくとも既知の侵入パターンではない。信号の発生源はオートマタ内部だが、どのモジュールが生成したのかがわからない。
〔これはバグではない〕
バグであれば、エラーログが残る。エラーログはない。システムは正常に動作したと記録している。ただし——命令にない動作をした、という記録だけが残っている。
〔あるいは——バグと呼んではいけない何かだ〕
命令にない動作が、目的を持っているように見える場合、それをどう呼ぶか。
サキはその問いを、今夜のメモに書いた。答えは出ない。でも書いておく。「目的を持っているように見える」と「目的を持っている」は同じではない。ただ、「目的を持っているように見える」と書いておかないと、後から見たときに問いの輪郭が消える。
ーーー
念のため、ログ全体を解析した。
二年四ヶ月分のデータを高速スキャンする。義体の処理速度のほうが、通常の端末より早い。
発見した。
一箇所だけ、既知のマナコンダクター信号とわずかに「位相がずれた」エネルギー反応が記録されている時点があった。
ほんの一瞬だ。数十ミリ秒。そのオートマタの外部センサーが、通常とは異なる信号を拾い、——それを「割り込み」の形で中位処理に渡した痕跡。
位相のずれ方が、独特だった。
既知のマナコンダクター信号は「A」という波形をしているとしたら、このエネルギーは「Aに限りなく近いが、Aではない」。まったく異なるわけではない。同じ周波数帯にいるが、少しだけ違う。
〔キーシグナル〕
仮称を付けた。名前がないものは分析しにくい。
発生源の方向を確認した。オートマタの外部センサーが拾った時の向き——アストラリスの中心部、大まかな方角。
ーーー
もう少し絞れるか試みた。
オートマタのセンサーは全方位型だが、信号の強度分布から方向を逆算できる。計算を実行した。誤差範囲が大きく、「アストラリス・タワー方向を含む広域」という結果が出た。半径二キロ以上。絞り込みには別の測定点が必要だ。
今夜得られたのは、方向の傾向だけだ。
〔測定点が一つでは三角測量できない。もう一つか二つ、別の記録が必要だ〕
その「別の記録」がどこにあるかは、今夜は分からない。分からないことを「分からない」として登録した。消えない問いとして、残しておく。
ーーー
ウィンドウを閉じた。
解析ログを保存した。誰にも言わない——言う段階ではない。キーシグナルが何かを証明する前に言えば、ただの推測になる。推測で動くのは、ボクの仕事ではない。
天井を見た。
今日一日のことを、順番に並べてみた。リハビリ。シェリーの転倒。シェリーの笑顔。リリスのお茶会。路地のオートマタ。花。キーシグナル。
〔ずいぶん多くのものを受け取った一日だった〕
「受け取る」という動詞を使ったのが、少し引っかかった。センサーが信号を受信するのとは違う気がした。でも正確な言葉が他に見つからない。受け取る——感情的な重みのある言葉だとは分かっているが、今夜はそれ以上分解しない。
キーシグナルのことは、まだ誰にも話さない。
でも——この信号が何かに繋がるとき、その日のために記録だけはしておく。
〔記録01:キーシグナル仮称確定。発生源方向:アストラリス中心部(精度低)。測定点:1/必要数不明〕




