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半分の吸血姫、半分の…?  作者: u-nyu
6.日常という名の戦場
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6.5.笑う理由

 リハビリ室は、廊下に面した窓がある。


 歩行練習の間、その窓の向こうを人が通る。外来患者、看護師、見舞い客——サキはそれを意識しないようにしていた。意識しないようにしているということは、意識している、ということだが、分析するほどの情報ではないのでそのまま保留している。


 今日の練習は五メートルの直線歩行を十往復、その後に段差越えを三回、最後に把持の練習という流れだ。数値としては先週より右膝の接地タイミングが0.03秒改善している。改善している、という事実はある。それが「良い」なのかどうかは、基準によって変わる。アキヅキ先生は良い、と言う。


 「右膝の可動域、まだ硬いですね」


 アキヅキ先生が言った。サキは歩行を続けた。「……自覚しています。雨天時に応答速度が低下する現象と、おそらく関連しています」


 「関節のシールに微細な歪みが出ています。次の定期検査で確認しましょう」


 「はい」


 「痛みは?」


 「フィードバック値は正常範囲内です」


 アキヅキ先生が少し間を置いた。「聞き方がよくありませんでした。痛みはありませんか?」


 サキが歩きながら考えた。「……重い感じはあります。痛みとは違いますが、関節の動きに余計な負荷がかかっている感覚はあります」


 「…それを早く報告してください」


 「改善します」


 「改善、しなくていいです。感覚があるなら言ってくれれば問題ありません。」


 アキヅキ先生はこういうことを言う。感覚を報告することと、改善策を提示することを、別の行為として扱っている。最初はその区別が難しかった。——今もまだ、意識しないとできない。


 折り返して、また歩く。腕の振り方を調整した。歩行安定性が0.7ポイント上昇した。数値は追えるが、「自然に歩く」が何を意味するのかは、まだよく分からない。アキヅキ先生が「それです」と言った。


ーーー


 歩行の後、把持の練習があった。


 様々な形状の物体を、指定された力加減で持つ。柔らかいもの——高反発フォームのブロック——を握る場合、センサーが適切な力の上限を監視している。義体化前の記憶では、卵を割らないように持つことが「繊細さ」を示す動作とされていた。今のボクは数値で制御できる。繊細さが「感覚」から「数値」に変換されている。


 〔これは失ったのか、変わったのか〕


 変わった、と思うことにしている。そう思う方が、処理が早い。


 次は布。薄い絹の布を、引き裂かないように引き出す課題だ。力ではなく、指の腹の動かし方で制御する。これは数値だけでは難しい——布の状態を感じながら動かす必要がある。三回目でアキヅキ先生が「良い」と言った。


 「感触が、少し前と違います」とサキが言った。


 「どう違いますか」


 「前は数値を見ながらやっていました。今は布を——見ています。感じているのかもしれない」


 アキヅキ先生が少し黙った。それから「それがリハビリですね」と言った。説明はそれだけだった。


 窓の向こうを、また人が通った。今度は立ち止まった。ガラス越しに、シェリーがいた。


ーーー


 廊下の向こうで「あ」という顔をして、そのまま窓に近づいてきた。軽くノックして、親指を立てる。「うまくいってる?」というジェスチャーだと解釈した。


 サキが頷いた。シェリーが「よし」という感じに拳を握った。


 〔これは、なんだ〕


 評価しているわけではないと思う。激励とも、報告の受取りとも少し違う。心配しているのかもしれないが、心配の表情と一致していない。ただそこにいて、確認している——それだけのことが、サキには少し奇妙な感覚を生んだ。


 〔なぜ、ここに来たのか。用があるわけではない〕


 〔——用がなくても来る。そういうことが、ある〕


 知識としては知っていた。でも今それが起きているのを見ると、処理が一拍遅れた。


 アキヅキ先生が「シェリーお嬢様か」と言った。「ええ、シェリーさんです」「それはいいですが、集中してください」「しています」


ーーー


 少し後、扉が開いた。


 シェリーが入ってきた。「手伝うよ」と言いながら、平行棒の脇を持とうとした。アキヅキ先生が「邪魔してはいけません」と言った。シェリーが「見てるだけにします!」と言った。アキヅキ先生が「……まあいいでしょう」と言った。


 見てるだけにならなかった。


 「ねえここ持ってていい?」「だめです」「ちょっとだけ」「だめです」「ほんのちょっとだけ」「お嬢様」「はい」


 その後、シェリーはサキの横に来た。「腕の振り、そんな感じ?」「そうです」「なんか……すごいね」「何がですか」「いや、ちゃんと考えてやってるんだなって」


 〔それは当たり前では〕と思ったが、言わなかった。シェリーが「すごい」と言うとき、それは比較ではなく、ただそのままを見ている言い方だと、以前気づいた。


 歩行練習を再開した。シェリーが平行棒から少し離れたところに立って、腕を組んで見ている。見られていることを意識した——意識した、という事実だけ記録した。アキヅキ先生に見られながら歩くことと、何かが違う。数値ではなく、あの目が何かを見ている。それが何かは分からない。


 練習が終わって、アキヅキ先生が「あとは柔軟運動だけです」と言った。シェリーが「じゃあ手伝う」と言って、平行棒の脇を持とうとした。


 その瞬間だった。


ーーー


 シェリーが床の段差に足を取られた。


 「わっ」という声が出た。転ぶ寸前で止まった。靴の底がキュッと鳴った。シェリーがそのまま静止した。


 サキは一瞬、手を出そうとした。出なかった。もう転んでいなかったから。でも、手を出そうとした、という事実だけが残った。


 シェリーが「……っと、大丈夫大丈夫、こけてない、ぎりぎりセーフ」と言った。


 情けない顔をした。自分でも分かっているという顔だった。「笑っていいよ」と言った。


 サキが笑った。


 声で、笑った。


 義体化後、声帯の調整が完了してから、こういう形で笑ったのは初めてだった。笑おうとして笑ったのではない。先に笑いが来た。反射的な何かが、声帯を動かした。


 シェリーが「あ、笑った」と言った。


 嬉しそうだった。本当に、なんというか、損得のない嬉しさだった。驚きと、嬉しさが同時にある顔——驚いていること自体も嬉しさの一部になっている、という、そういう顔だった。


 〔なぜ、嬉しそうなのか〕


 〔ボクが笑ったから。ボクが笑ったことが、シェリーにとって価値があるから〕


 〔——そうか〕


 アキヅキ先生が何も言わなかった。見ていたはずだが、記録に書くつもりなのかどうかは分からない。書かれても、困らない、と思った。今日はそれだけで十分だ。


ーーー


 なぜ、この人の前でだけ笑えたのか。


 サキが分析を始めた。笑いが発生した要因を列挙する——シェリーの転び方の意外性。状況の落差。「笑っていいよ」という許可の存在。神経反射的な応答。複数の要因が同時に重なった——


 やめた。


 〔今はいい〕


 今の笑いに、理由は要らない。少なくとも今は、理由より先に笑いが来た。理由を後から貼り付けることに意味はない。


 それに——分析すると、何かが変わる気がした。変えたくなかった。それが何かも、まだ分からないが。


ーーー


 リハビリが終わって、シェリーが「よくなってきてる?」と聞いた。


 「少しずつ」


 「そっか。急がなくていいから」


 「……急いでいるのはボクじゃなくてアキヅキ先生です」


 アキヅキ先生が「聞こえていますよ」と言った。シェリーが「あはは、先生にそれ言っといて」と言って笑った。


 「サキ」とシェリーが言った。「また来ていいか」


 サキは少し考えた。「……来ても、邪魔だとアキヅキ先生に言われます」


 「いっつもそれ言われてる」


 「知ってますか」「うん」「なのに来るんですか」「うん」


 それ以上の説明はなかった。シェリーはそれを必要とする顔をしていなかった。


 短い会話だった。でも今日はそれで十分だった——とサキは思った。


 「十分」という評価が出るのが不思議だったが、出た以上はそれが今の答えだ。


 窓から、シェリーが廊下を歩いて行くのを見た。


 〔体温変動:+0.4℃。発生要因:不明〕


 不明のまま保留した。記録だけしておく。今はそれでいい。

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