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半分の吸血姫、半分の…?  作者: u-nyu
5.(2部)目覚め
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5.6.夜の話と、言わないままのこと(幕間)

 端末の明かりだけが、部屋を照らしていた。


 画面の中で、白衣の医師が何かを説明している。字幕が流れる。「完全義体化手術、患者の意識確認——」。数日前から繰り返し流れているニュースだ。サキ・ニノマエ。ルナは、その名前を読むたびに少し止まる。


 医学部の知識で言えば、あの手術がどれだけのことか分かる。


 分かるからこそ——


 (……無事でよかった)


 それだけだった。それ以上の言葉は出てこなかった。


 画面が切り替わった。議会の廊下。シェリー・グレイソンが答弁を終えて出てくる場面だった。記者が集まっている。シェリーが何かを答えていた。字幕が追いつかなくて、ルナには聞き取れなかった。


 (……ああいう場所に、立てるって...わたしには...)


 端末を閉じた。


ーーー


 就寝前のルーティンは、決まっていた。


 歯を磨く。洗顔する。ドアの鍵を確認する——一回ではなく、三回。それでも安心しきれなくて、もう一回。窓の鍵も同じように確認する。


 それから、引き出しを開ける。


 一番下の引き出し。他の荷物の下に、袋ごと収めてある。


 大人用のおむつ。


 パッケージは無地に近い。薄い水色。薬局のプライベートブランドの品だ。テープ式で、マジックテープが両端についている。ルナは袋から一枚を取り出した。


 手順は体で覚えていた。


 ナイトドレスを腰までたくし上げて、下着を脱いで、広げた白いそれを足から通して引き上げる。テープを左から留めて、右を留めて、腹の前でまっすぐにする。布の内側が肌に触れる。やわらかい。ぱさついた柔らかさではなく、内側に吸収体があるぶん、少し厚みのある感触——それが太ももの内側に当たる。


 (……慣れた、とは思いたくないんだけど)


 でも、手が止まらなくなってしばらく経つ。


 朝の処理も含めて、もう迷わない。共用のゴミ箱ではなく、袋に包んで部屋のゴミ箱へ。タイミングは廊下に人が少ない早朝。一年分の実践で、動線を全部覚えた。


 誰にも話していない。


 マリアにも。


ーーー


 準備を終えて、布団に入った。


 電気を消した。


 暗くなった。


 ナイトドレスの裾が太ももの上にある。腰のあたりに、吸収体のかすかな膨らみがある。それが肌着越しに感じられる——このあたたかく厚い感触も、もう何十回と経験している。


 (——まずい)


 分かっていても、体が先に反応する。背中が床に着く感覚。天井が見える感覚。夜が静かになる感覚。


 それらが全部、あの頃の夜と繋がっている。


 廊下の方で、足音がした。誰かが通り過ぎる音。それだけで、肩に力が入った。呼吸が浅くなった。違う、今は違う。もう一年生の頃じゃない。ここは安全だ。鍵もかけてある。


 ——でも、かけても意味がなかった夜が、あった。


 ドアの隙間から光が差し込んできた夜が、あった。


 足音が止まった夜が、あった。


 (……だめだ、考えたら)


 目を開けた。天井を見た。暗い。でも今は自分の部屋だ。一人だ。誰もいない。大丈夫。


 大丈夫、と思ったのに、体が震えていた。


 息を吸うたびに胸が詰まる。手が冷たい。脚の力が抜けていく——


 そして、来た。


 最初はほんの少しだった。ごく微かな感覚として、下腹のあたりから始まった。(あ)と思う前に、もう止められない。温かいものが、ゆっくりと広がっていく。外には漏れない。全部、白い布の中に収まっていく。体の熱が、吸われていく。


 一秒。二秒。


 ルナは動けなかった。


 天井を見たまま、震えながら——布の内側がじわじわと重くなっていく感触を、ただ感じていた。温度が均一になっていく。太ももの内側が、じんわりとあたたかい。収まった。全部、収まった。


 (……また)


 また、だ。何度目かは、数えていない。


 電気をつけずに起き上がった。


ーーー


 テープを外すとき、いつも少し迷う。あの温かさをこうして終わらせる——という感覚が、理屈ではなくて、指先に来る。


 左のテープを剥がす。右を剥がす。


 ナイトドレスをたくし上げたまま、下ろす。吸収体が重くなっていた。手のひらに、その重さがある。そのまま袋に入れて、口を縛る。


 タオルで体を拭いた。腰のあたりから太ももにかけて、念入りに。


 新しいものを引き出しから一枚出した。また同じように広げて、足から通して、引き上げる。テープを左、右。腹の前でまっすぐに整える。


 サイズは合っている。でも——こうして一枚目を付け替えた直後は、いつも少し変な気持ちになる。乾いた布が肌に触れる。さっきまでの温かさが、もうない。でもまた同じような夜が来るかもしれないから、これをつけていた方がいい。


 (……そういうものだ)


 着替えを終えた。部屋が静かになった。


ーーー


 最初は魔法のせいだった。かけられた翌朝、シーツが濡れていた。理由が分からなかった。自分がそういう体質だったのか、夢を見たのか——二度目の夜が来て、やっと気づいた。魔法だ、と。


 でも、誰にも言えなかった。言えば、相手に「効いた」と知らせることになる。それが嫌だった。ひどく嫌だった。だから黙っていた。黙ったまま、翌朝のシーツを畳んで、洗濯袋の底に隠した。


 その後、魔法をかけてくる人がいなくなった。でも体は、覚えていた。怖い夜が来るたびに、同じことが起きた。


 防水シーツを買ったのが入学二ヶ月後。おむつを使い始めたのが、その三ヶ月後。薬局の前を三回通り過ぎてから入った、あの日のことは、もう忘れかけている。でも棚の前に立って、自分の手がそれを取った瞬間のことは、まだ覚えている。何も言われなかった。当たり前だ。でも顔が熱かった。今でも、別の店まで歩いていく。顔を知っている人がいない店の方がいい。


 自分の体が、自分のものではないようだった。


 壊されたわけではない——壊されたのに、跡が残らなかった。目に見えない場所を傷つけられて、それが夜ごとに滲んでくる。そういう傷だと、後から気づいた。


 (……最初は泣いていた)


 今は泣かない。——正確に言えば、泣く気力が感情より先になくなった。体の方が先に動く。テープを外す。袋に入れる。締める。ゴミ箱に入れる。そうしているうちに、泣くタイミングがなくなる。朝が来る。また一日が始まる。それだけだ。


ーーー


 マリアの部屋をノックしたのは、十一時を過ぎた頃だった。


 「……ルナ」


 マリアがドアを開けた。驚いた様子はなかった。「入りますか」とだけ言った。


 部屋の中は暖かかった。マリアが薬草のお茶を淹れてくれた。白い湯気が立ちのぼっていた。


 二人で床に座った。マリアがベッドの端を勧めたが、ルナは「ここでいいです」と言った。カーペットの上の方が、落ち着いた。体が低い場所にあると、少し安心する。


 腰の下、吸収体の薄い膨らみが、ナイトドレス越しに少し感じられた。ルナは、それを意識しないようにした。


 マリアは、何も聞かなかった。


 「今夜は満月に近いですわ」とだけ言って、カップを両手で持った。「月の泉では、こういう夜に長老が詠唱をするんですの。子どもの頃は一緒に聞いていましたわ」


 「……どんな詠唱ですか」


 「古い言葉で。意味は半分くらいしか分からなかったけれど、声が綺麗でした」


 ルナが少しだけ笑った。マリアの声は変わらない。静かで、凛として、いつもどこかに芯がある。こういう夜に、この声の隣にいると——


 (……落ち着く)


 理由は分からない。でも落ち着く。


ーーー


 しばらく経ってから、ルナが言った。「あの……シェリーさんのニュース、見ましたか」


 「見ましたわ」


 「……怖くないんですかね、ああいう場所に立つの」


 マリアが少し考えた。


 「怖いと思いますわよ」


 「でも立てる」


 「……ええ」


 ルナがカップを両手で持った。「わたし、には……無理だと思います。ああいうの」


 「今は、それでいいと思いますわ」とマリアが言った。


 「今は、って……」


 「今は、です」マリアが静かに繰り返した。「今できないことが、ずっとできないとは限りませんから。——でも、今できなくても、それで終わりでもない」


 ルナが黙った。


 (……そうかな)


 (……そうだったらいいな)


 「マリアさんは、こういうとき怖くならないんですか」


 「なりますわよ」


 「……嘘みたいに聞こえます」


 「本当のことですわ」マリアがほんの少し目を細めた。「ただ、怖い、という事実と、動く、という選択は、別のことだと思っていますから」


 ルナが少し考えた。「……分けられるものなんですか」


 「分けようとすることが、できること——なのかもしれませんわ」


ーーー


 お茶が空になった。


 「そろそろ戻ります」とルナが言った。


 「ええ」


 ルナが立ち上がろうとした——膝を折って、体を起こす。ナイトドレスの裾が、一瞬だけ動いた。


 マリアの視線が、そこへ向いた。


 ほんの一瞬だった。


 腰のあたりにある、かすかな厚みの輪郭。ナイトドレスの布が薄く張って、それが透けるわけではないが——形として、分かる人には分かる。


 次の瞬間には、マリアはカップに視線を戻していた。


 「気をつけて帰ってくださいね」


 普通の声だった。何も変わらない声だった。


 「……はい、ありがとうございました」


 ルナがドアを開けて、廊下に出た。ドアが静かに閉まった。


ーーー


 マリアは、しばらくそのままでいた。


 カップを持ったまま、床の上。部屋が静かになった。


 ルナが夜に来ることは、これが初めてではなかった。何かを抱えていることも、最初から気配で分かっていた。月の泉の系譜が持つ感覚は、言葉にならないものをよく拾う——ルナの夜の重さは、ずっと前から感じていた。


 でも、今夜——


 (……そういうことでしたのね)


 言葉には、しない。


 今言えば、ルナは来なくなる。恥ずかしさで、来られなくなる。それでは意味がない。


 マリアはお茶を飲み干した。


 窓の外、月が雲の間にあった。月の泉の方角ではない。でも同じ月が、あの泉の水面にも映っているはずだった。


 目を閉じた。


 (いつか——)


 その先は、今夜は言葉にしない。いつか、この子が話せるようになったとき。そのときに、ちゃんと聞く。それだけを、静かに決めた。

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