6.1.翼と秘密と、月の泉の二人
四月の廊下は、人が多かった。
一年生が、玄関口から群れをなして流れてくる。まだ大学の間取りに慣れていない顔をしている。地図を開いて、スマホで何かを確認して、立ち止まって、また歩き始める。去年の自分もそうだったと思う。去年もこんな感じだったかと記憶を手繰ると、もっと混乱していた気がする——少なくとも自分は。地図を広げて、閉じて、また広げて、エディに「どこ行くん」と笑われた。
「去年もこんな感じやったっけ」
エディが横から言った。視線は前を向いたまま、人の流れを何となく眺めている。
「もっと混乱してたよ私。一年生のとき」
「そやったかな。俺は入学初日にシェリーがぶつかってきて、そっちの方が混乱したけど」
「ぶつかってきたんじゃないわ、路面がぬれてたんよ」
エディが笑った。乾いた、気持ちのいい笑い方。去年も一昨年も変わらない笑い方。こういうときのエディは、何もなかったことみたいに横にいてくれる。それが今は少しありがたかった。
前を向く。廊下を流れていく顔たちを、少し離れたところから眺めている。
(去年と同じ廊下だ)
去年と違うのは、隣の席が空いていること——ではなく、今年もまだ空いているということだ。サキはまだ病院にいる。4月後半には外泊許可が出るかもしれないと、アキヅキ先生が言っていた。それまでは、あの席は空き続ける。
(また一緒に授業を受けられる日が来ればいい)
それは祈りに近い感覚だった。声に出すほどでもない、でも手放せない、そういう願い。シェリーは廊下の流れに合わせて歩き始めた。
ーーー
事故は、昼前に起きた。
午前の授業を終えて、授業棟から移動していた。廊下の角、曲がりかけたところで誰かにぶつかった。一年生の男の子だった——向こうが「すみません!」と言いながら足早に行ってしまう前に、シェリーはバランスを取ろうとして肩に力を入れた。
その瞬間だった。
背中が、開いた。
光の翼が、左右に展開する。廊下の人波が、一拍だけ静止した。真後ろにいた子がひっ、と声を上げる。誰かのカバンが落ちた音がした。振り向いた何人かと、目が合った。
(まずい、まずい、閉じて——)
力を入れた。翼が反応しない。もう一回。ぴくりとも動かない。白い光が廊下の壁を照らしていた。一年生の子たちが壁際に下がっていく。空間が、シェリーを中心に少しだけ開いた。誰かが端末を向けた気がした。
「なんでもない! ちょっと待って、今なんでもなくなるから!」
声には出してみたが、全然なんでもなくない状況だった。
「シェリーさん、こちらへ」
声が横から来た。腕を引かれた。
ーーー
マリアだった。
すっと寄ってきて、腕を引く。動きに迷いがない。「えっ待って、まだ——」「今すぐですわ」
翼を広げたまま廊下を歩くのは、それはそれで目立つが、マリアはかまわず引いた。近くの空き教室のドアを開けて、二人で中に入る。ドアを閉める。
かちり、と鍵がかかった。
マリアが小さくため息をついた。それから振り返って、シェリーの翼を一度だけ確認した。左右、それから付け根。
「……見ていましたわよ。入学式直後から」
「え、ずっと知ってたの」
「気づいていた、と言う方が正確ですわ。翼を制御できていないことは、すぐわかりました。ただ——困っていなさそうでしたので」
「困ってたよ。ただ毎回なんとかなってたから……」
「なるほど。今日は、なんとかならなかったわけですね」
「なんとかならなかった……」
右の翼が少し縮んだ。左が縮まない。両側を同時に動かそうとすると、左がまた広がる。「なんで言うこと聞かないの……」
「焦るといけませんわ」
「焦ってないって言いたいけど絶対焦ってる」
「でしょうね」
マリアが落ち着いた声で言ったとき——
「……あの」
声がした。教室の奥から。
ーーー
窓際の席に、人がいた。
ルナ・イズミ。同じ学年の子。マリアの同期だ。あまり良い記憶ではないが昨年、いじめ問題が起きた被害者であり当事者だ。いつもマリアと廊下や食堂で顔を見かける距離感。開いたノートと、飲みかけの水筒。自習中のところを、完全に邪魔した形になった。
「……ここで自習してたんですけど、邪魔でしたか?」
真顔で言った。声はフラットだったが、目がほんの少し丸くなっていた。翼を見ている。翼から目線を外せないでいるのを、外そうとしている——そういう顔だった。
三人の目が合った。一拍の沈黙。
「……翼、展開したんですね」ルナがそう言った。「初めて見ました、シェリーさんの翼」
「ルナ!? 見ないで、いや別に見てもいいけど——うわ最悪」
「シェリーさん。深呼吸してください」マリアが言う。「まず光の翼から。右から、順番に」
「わかった、わかった——」
ーーー
マリアの手順は、意外と細かかった。
翼を閉じるのは力の問題ではなく、意識の置き方の問題だ、とマリアは言った。「翼は感情と連動しています。制御しようとするほど反発する。力を抜いて——畳み込むというより、折り返すイメージで」
「折り返す……」
「布を畳む感覚が近いかもしれませんわ。引っ張るのではなく、そっと重ねるように」
やってみた。
右の翼が、すっと収まった。
「こっちは素直ですわね」とマリアが言った。
問題は左だった。光とは少しだけ色の違う方。言う通りにしているのに、ぴくぴくと動いてしまう。畳もうとするたびに端がめくれ上がる。「布」のイメージで試しても、また広がる。
「なんで……」
「……マリアさん、私が押さえましょうか」
ルナが立ち上がっていた。ノートを置いて、こちらに来る。マリアが「ありがとう、ルナ」と言った。
二人がかりになった。マリアが言葉で誘導しながら、ルナが背後からそっと翼の付け根に手を添える。力を加えているわけではない。押さえているわけでもない。ただ、触れている。体温が、じんわりとわかった。
(あ、なんか)
(落ち着く……)
収まった。左の翼が、静かに畳まれて、背中に消えた。シェリーはその場にへたり込んだ。「……ありがとう。ほんとに、ありがとう」
「訓練が必要ですわ」マリアが言った。「特に左の翼——次から、練習の場を設けましょう」
「うん……お願いします」
ルナが手を引っ込めながら「……少しでも役に立てたなら」と言った。声が小さかった。
ーーー
三人で座って、少し休んだ。
「そういえばルナ、マリアとは長いの?」とシェリーが聞いた。
マリアが「月の泉の同期ですわ。入学前から存じております」と答えた。
ルナが「マリアさんとは、出身が少し近くて——セレスティアの、月の泉のそばで育ちました」と言った。
「そっか。マリアの一族の……」
「遠い関係です。血筋というより、信仰のつながりで。その、うまく説明できなくて申し訳ないんですけど」
「ええよ、全然」
窓の外で、風が木の枝を揺らした。廊下からくぐもった話し声が聞こえてくる。
ルナが手元を見てから、また顔を上げた。
「……サキ・ニノマエさんのこと、ニュースで見ました」
声の質が、さっきとは少し変わっていた。
「あの手術が、どれだけ大変だったか——私、医学部なので、他の子より少しは分かります。あの手術がどれだけ……」
言いかけて、止まった。続きを探しているような間があった。
「……頑張られたんだと思います。サキさんも、先生方も」
シェリーは少し間を置いた。
「ありがとう」
シェリーはこの子のことを、まだあまりよく知らない。実際思った以上に話したことがなかった。でも、その「言いかけて止まった」の中に、言葉以上の何かがあった。言葉にできないから止まったような、そういう誠実さ。
「サキ、だいぶよくなってきてるよ。もうしゃべれるようになった」
「……そうですか」とルナが言った。「よかった」
それだけだった。それだけで十分だった。
ーーー
教室を出る直前、シェリーが背中に手を当てて確認した。収まっている。制服の後ろに、翼の痕跡はない。
「行けそうですか?」とマリアが聞いた。
「うん。次の授業、間に合うかな」「廊下を早歩きすれば間に合いますわ」「走っていい?」「ええ」
「……ありがとう、マリア。ルナも」
ルナが小さく会釈した。「……またいつでも」
ドアを開けて、廊下へ出る。人が流れている。もう誰もこちらを見ていない。よかった。
シェリーが駆け出した。足音が廊下に響いて、角を曲がって、消えた。
マリアは少しだけ、その場に立ち止まった。
翼の付け根——右ではなく、左の方。シェリーが教室を出た直後、その場所がほんの一瞬だけ暗い色に滲んだのを見ていた。光の翼の白とは違う。もっと深い、夜の奥のような色だった。
制御不足とは、少し違う。
(……これは)
マリアは判断を止めた。今日言う必要はない。今日は、確認できればそれでいい。
ルナが隣に来て、同じ方向を見た。「……マリアさん」
「気づいていましたか」
「……はい」
二人はしばらく、シェリーが消えた廊下の方を見ていた。




