5.5.兆候
夕方のサキの病室は、朝とは少し空気が違った。
光が傾いている。窓から差し込む橙色が、白い壁をわずかに染めている。機器の音は変わらないのに、その色だけで部屋が柔らかくなった気がした。
「……シェリー」
ベッドのサキが、声を出した。
シェリーは入り口で一瞬止まった。まだ少しノイズが混じっている。でも——サキの声だ。
(良かった。サキの声だ)
「お、喋れるようになったじゃん」と言った。なんでもない口調で言った。それが精一杯だった。
ーーー
椅子を引いて座ると、サキが短い言葉を返してくれた。
長い文章はまだ難しいらしい。単語か、短い文。それでも、朝の頷きだけの会話よりずっと、ちゃんとした感じがした。
シェリーは自分から話し続けた。会議のこと。エディのこと。マリアがルシアンの担当になったらしいこと。サキは時々「……そうか」と言った。時々「……それは」と言いかけて止まった。キャリブレーションが、まだ完全には終わっていないのだろう。
「そうだ」とシェリーは言った。何気ない声で。「あのとき——」
話題を選ぼうとして、口から出てきた言葉があった。
ーーー
「囁きの森のとき、最初のクエストのとき——サキって、あのとき何か言ったっけ」
サキを見る。
「なんか、面白いこと言ったんだよ。ちょっと思い出そうとしてるんだけど——」
記憶の輪郭はある。笑った記憶がある。面白かった、という記憶がある。サキが何かを言って、自分が笑った——そこまでは、確かにある。
でも——中身が、ない。
どんな言葉だったか。どんな顔で言ったか。それが、どこにも見当たらない。
「……サキ、いた?」
軽い確認のつもりだった。
サキが首を横に振った。一回ではなく、二回。
シェリーが止まった。「……え、いなかった?」
一回、頷く。Yes。
(いなかった)
森の中の記憶を辿る。エディ、マリア、ラゼル——たしかに三人だった。サキはいなかった。なのに「サキが何か言った」という記憶の輪郭だけが、ある。
(じゃあ——誰の記憶と混じってるんだろう)
よくわからなかった。答えを出すのをやめた。
「……まあいいや。また思い出したら言う」
笑った。笑えたと思う。少し、薄い笑い方だったかもしれない。
ーーー
沈黙が来た。
サキが何かを言おうとしている気配があった。声帯に負荷をかけようとしている、という感じ。シェリーは待った。
「……文化祭」
一語だった。
シェリーが「……ああ」と言った。
脳の中で何かが繋がっていく感じがした。ステージで魔法を失敗した。照明が消えた。会場がざわついた。そのとき、後ろから声が聞こえた——知らない声が、静かに、しかしよく通る声で言った。「それが魔法の非効率性です。再現性に乏しい」。会場が笑った。振り返ったら、サキがいた。
「……あれが、最初だったっけ」
サキが頷く。一回。
シェリーはしばらく、その記憶の中にいた。ステージの灯りと、サキの真顔と、笑っている観客と。
「あのとき——私、笑ったよね」
サキが少し間を置いた。頷かなかった。否定もしなかった。
「……サキは笑ってなかったね。真剣な顔で言ってたね、あれ」
「……そうだ」
短く。でも、確かに言った。
シェリーが少し笑った。(その顔を、覚えてる)
「はじめて声聞いたのあのときだったかな。振り返ったらいて、びっくりしたんだよ」
サキが「……知っている」と言った。
「え、知ってたの」
「……記録している」
シェリーが「記録してたの」と言って、少し笑い声になった。「なんで」
サキが答えなかった。少し間があって——「……最初から、だから」とだけ言った。
その言葉が何を意味するのか、シェリーにはよくわからなかった。でも悪い意味ではない、ということはわかった。
ーーー
サキの義体は、この会話を全部記録していた。
`解析:記憶の検索失敗(囁きの森) → 記憶の誤帰属(実際には不在の場所にサキを配置) → 外部補完により部分回復(文化祭)`
〔コンテンツではない。構造が、ずれている〕
シェリーは気づいていない。「誰がいたか」まで自分の記憶を疑う段階にはない。だから今は、何も言わなくていい。
〔記録しておく。この会話を——全部〕
ーーー
帰り際、シェリーが立ち上がりながら言った。
「また明日来る」
「……来なくていい」とサキが言った。「忙しいだろう」
「来る。来たいから来るんだもん」
サキは何も言わなかった。シェリーは出ていく前に一度振り返って——サキがまっすぐ天井を見ているのを確認して、出ていった。
ーーー
帰り道、廊下を歩きながら、シェリーは端末を開いた。
通知をスクロールする。法案関連のメール。エディからのメッセージ。マリアから「お疲れ様ですわ」。それから——
止まった。
「S&Sアストラル探求記」のアーカイブ通知。一年前の配信のサムネイルが、画面の中にあった。二人が並んで笑っている写真。
サムネイルを一瞬、見た。
再生しなかった。端末を閉じた。
(……また、できるかな)
声には出さなかった。答えも、今はない。ただ「したい」という感覚だけが、かすかに残った。
サキが動き始めたら——そのとき、また考えよう。今は、それでいい。
ーーー
自室に戻ったのは、夜になってからだった。
鞄を置いて、上着を脱いで、机の前に座った。引き出しから新しいノートを出した。まだ一度も使っていない。
日付を書いた。ペンが止まった。
サキとの記憶の中の何かを書こうとしていた気がする。文化祭のことを書こうとしていたのかもしれない。でも——書こうとした瞬間に、さっきまで輪郭があったものが、ぼやけた。
文化祭のサキの顔。真剣な顔で言っていた、という記憶はある。でも——顔が、思い浮かばない。
(疲れてるんかな)
そう思うことにした。
代わりに、今日確かだったことを書いた。サキが名前を呼んでくれた。文化祭のことを一語で言った。「最初から、だから」と言った。
それから——ページの一番上に、一言だけ書いた。
”覚えていたい”
ノートを閉じた。
窓の外は暗かった。ドローンのランプが一つ、遠くを飛んでいた。




