5.4.マリアとルシアン
朝の病棟は、静かだった。
申し送りを終えて、マリアは白衣の袖を直しながら廊下に出た。アキヅキ先生の実習生として、朝の巡回担当を任されるようになったのは二週間ほど前からだ。見習いが単独で患者に接触することを、先生は普通は許可しない。ただしマリアに関しては「判断を信頼する」と言ってくれた。——それが何を意味するかは、マリア自身も少しだけ重さとして感じている。
カルテを確認したのは、廊下に出た後だった。
303号室。患者名:ルシアン・ソレイユ。
——今朝の申し送りが、頭の中で再生される。
”虚聖徒化の後遺症だ。魔力の基底が、根から削られている。回復は可能——だが、本人が望まなければ戻らない。それだけ覚えておけ”
短い言葉だった。それ以上の説明はなかった。ただ最後に、先生は一言だけ付け足した。
”信仰が支柱だった人間が、その支柱を失った状態だ”
そう言って、次の患者のカルテに目を落とした。質問の余地は、なかった。
表情を動かさなかった。動かすべき理由がなかった。担当は担当だ。足音を抑えながら、廊下を進んだ。
ーーー
303号室のドアをノックして、開けた。
ベッドのそばの椅子に、ルシアンが座っていた。正確には、半身を起こして窓の外を見ていた。こちらを向いていない。
第一印象:痩せた。
第二印象:それでも背筋が伸びている。
白い病衣が、白い肌の上でほとんど溶けていた。魔力の消耗が続いているのだろう。外見よりずっと、内側が削られているはずだ——先生の言葉が、視覚と重なった。
部屋に、見舞い品がなかった。
ベッドサイドを確認したとき、そのことに気づいた。花も、果物も、手紙も、何もない。ただ一冊だけ、聖典が置かれていた——伏せて置かれていた。読もうとして、読めなくなったか。あるいは、読もうとすることをやめたか。
窓からは、朝の光が入っている。白い光だった。ルシアンはその光を向いて座っている。でも、見てはいない——そういう目だった。
「おはようございます」とマリアは言った。「本日の担当、マリア・ガブリエルですわ」
ルシアンは窓から視線を動かさなかった。
ーーー
「……亜人の世話にはなりたくない」
声に棘はなかった。気力がない、という方が正確だった。怒りで言っているのではなく、ただそれが当然のことだと思っている——そういう声だった。
マリアは一瞬だけ止まった。止まりながら、観察した。
この人は、この言葉を武器として使っていない。ただそれが「正しいこと」だと思っている。長い時間、そう学んできたのだろう。そういう世界の中に、ずっといたのだろう。
だから——怒りが湧かなかった。湧く場所が、見当たらなかった。
「わたくしが担当です。それだけですわ」とマリアは言った。
所定の手順を進める。バイタルの確認。内部魔力値の測定。薬の確認。ルシアンは拒む気力もないようで、されるがままになっていた。
抵抗しない、ということではない。抵抗するための力が、もうない——腕を差し出すとき、薬を受け取るとき、そのたびに一拍だけ間があった。何かをされている、という事実を、遅れて確認しているような間だった。
それが、かえって胸に引っかかった。
あの人が——かつてミスティス王国の聖騎士として、確固たる信念のもとに動いていた人が——されるがままになっている。
マリアはそのことを顔に出さなかった。仕事を続けた。
ーーー
浄化の補助魔法を使うとき、マリアは静かに詠唱した。声を抑えて、部屋の空気を乱さないように。
これは、呼吸と同じくらい自然なことだ。月の泉の血族として生まれたときからある詠唱。祈りでも儀式でもなく——ただ、そこにあるもの。
光が、穏やかに満ちた。
月の泉の系統が持つ、清浄の光。熱もなく、眩しくもない。ただ澄んでいる。白い部屋がほんのわずかだけ、別の白さになった。
ルシアンの呼吸が、変わった。
ほんのわずかに浅くなった——吸いかけて、止まった。窓の外を向いていた視線が、ゆっくりと室内へ降りてきた。空気のどこかを探すように。光の質を、辿るように。
口は動かない。何も言わない。
でも——この人は、知っている。マリアには確信があった。この光を受けたことがある。この清浄さが何であるかを、体が知っている。「光に戻りたいか」と問うなら、今日でいい、と思った。
マリアは詠唱を続けた。何も言わなかった。
ーーー
処置が終わって、片付けをしながら、マリアは言った。
「ルシアン様は、戻りたいとお思いですか」
「何に」とルシアンが言った。初めて、こちらを向いた。
「光に」とマリアは答えた。
それだけだった。説明しなかった。押しつけなかった。
沈黙が来た。
ルシアンは答えなかった。答えられないのではない、とマリアは思った。答えを持っていないわけでもない——答えを、どこに置いたか、わからなくなっているのだ。長い時間、それを「当然あるもの」として持ち続けてきた。それが揺らいだとき、どこへいったかに気づかなかった。今、問われて初めて、探している。
マリアは待った。急かさなかった。この問いには、答えなくていい。答えを探し始めたことで、十分だ。
トレーを持ち上げた。「また明日参りますわ」
ーーー
「……待て」
出ていきかけたドアの前で、声が来た。
低い声だった。問いを問いとして発するのが珍しいような、慣れていないような、そういう声の出し方だった。——この人がこういう声を出すのは、久しぶりかもしれない。
マリアは振り返った。
ルシアンが、初めてまっすぐこちらを見ていた。何かを言おうとして、言葉が追いついていない顔だった。怒りではない。怒りよりも、もっと内側のものが揺れているときの顔だ。
「……狐族の——月の泉の——」
文が途切れた。続かなかった。
「そうですわ」とマリアは答えた。間を置かずに。「——ご存じでしたか、ルシアン様」
ルシアンは答えなかった。
知っていたはずだ、とマリアは思った。昼の教会の高位にある者なら、月の泉の血族のことは知っている。天族と契約した狐人一族のこと。その記録は古い聖典に残っている。知識としては、あったはずだ。ただ——今朝、廊下でマリアを見たとき、そこまで辿り着かなかった。狐耳を見て、「亜人だ」と判断した。そこで止まった。
その止まり方が、今、ルシアン自身に返ってきている。
「また明日参りますわ」
もう一度だけそう言って、マリアは部屋を出た。
ーーー
廊下を歩きながら、マリアは袖の内側を確認した。
三日月の紋章。胸元の左側、鎖骨のやや下。布越しにその輪郭を確かめる。今日は見えていない。魔法を使ったとき、少し発光したかもしれないが——ルシアンが気づいたのは、おそらく紋章からではない。光の「質」からだ。
(いつか見る)
マリアはそれ以上考えるのをやめた。今日ではない。今日は、ただ次の病室に向かう日だ。
足音を静かに保ちながら、廊下の先へ歩き続けた。




